第22話 すれ違い


  葉山真凜side


 形のいい樹の後ろ姿が見えなくなる頃、真凜は少し赤く染まった頬を指でなぞり、色っぽく息を吐く。


「……」


 そして名残惜しそうに踵を返して自分の家の中に戻った。


 照明はついているが、窓の外はどんよりとした空のグレー色に包まれた風景が広がっている。


 真凜はそんな彩度の低い景色を眺めているが、ついさっきほどの出来事を思い出すと、急に脳内はピンク色まみれになる。


 このリビングの出入り口から上半身裸状態の樹が現れた。


 高い身長、ハンサムな顔つき、そして女心をくすぐる魅力的な身体。


 この前、パフェ専門店で環奈が言ったように、真凜は学校の中で結構人気者で男からしょっちゅう告白を受ける。なので、男はみんな少し優しくしたら全部自分に堕ちるという単純な生き物だと学習をしてしまったのだ。


 変身を遂げた樹を見た瞬間、真凜は他の男と同じく彼を堕とそうとした。しかし、今度は遊び半分の気持ちで付き合うわけではなく、本気で樹という男と恋愛をしてみたいなと思っていた。

 

 だから、デートの初めから彼にそれとなく色仕掛けをして、主導権を完全にこっちが握ろうとしたのだが、


「っ!」


 あの場面を思い出すと、急に体が痙攣してしまう。


 

 自分を力強く後ろから抱きしめて、耳に囁いた言葉。


 彼の堅い体が自分の全てを覆い、なんの躊躇いもなく自分の胸を鷲掴みにした。


 そして畳みかけるように


『そんな悪い子には悪戯しちゃうぞ』


 その言葉を聞いた時は、自分の頭を麻痺させるほどの電気が流れた。


 悪戯って一体なんのことだろう。と、疑問を自分自身に投げかけてみたが、そうすればするほど、自分が嘘つきであると良心が訴えかけてきた。


 悪戯って一体なんのことだろう、ではない。


 悪戯を自分の身体にするつもりなのだろうと、彼女は心のどこかで、期待をしていたのだ。

 

 その時の彼女の頭を駆け巡っていた電気は、徐々に下の方へ集まっていいった。


「もし、兄貴が来ないなら……ヤバかったかも……」


 そう呟いてソファーに腰掛けたまま、天井を見上げる。


 もちろん、樹とになったとしても彼女はOKだと思っている。彼女はまだ処女だが、彼氏を作って関係を持つこと自体に違和感を覚えたりはしない。


 だけど、先ほどの出来事は遊ぶのが大好きな真凜にとっても少し行き過ぎた行為であった。


 しかし、まるで自分の全てを支配するかのように抱きしめてきた彼が与えたインパクトは実に凄まじい。


 なぜなら、


 支配されていいと思ったのは初めてだったから。


 真凜は圧倒されたように口を少し開けてしばし佇んでいると、玄関ドアから音が聞こえてきた。


 兄である葉山翔太の登場である。


 濡れそぼった服からは水滴がポタポタと落ちていて、息を弾ませる自分の兄の姿を見て、真凜はようやく我に返る。


「兄貴……どこ行ってきたの?」


 妹の問いかけに翔太は、目を逸らし、素気無くあしらう。


「お前とは関係ねえ」


 冷たい兄の態度に、真凜はもしやと思って探りを入れてみた。


「もしかして、環奈ちゃんの家に行ったとか?」

「っ!」


 あの反応を見るに図星だなと真凜は心の中で納得した。


 そして、心配する声音で続ける。


「連絡はした?」

「……」

「連絡なしで行ってきたの!?信じられない!いくら幼馴染だからと言って……」

「だから、お前とは関係ねえっつってんだろうが!」

「……」

 

 大声で怒鳴り出す翔太は、眉間に皺を寄せて、真凜を睨め付けてきた。だが、真凜は一向に怯まない。


 彼女は腕を組んで兄を睨み返してきた。


 男らしい樹とはあまりにも違い過ぎる自分の兄の姿についカッとなったらしい。


「なんなの?その態度は!?マジでキモいんだけど?環奈ちゃんは兄貴の幼馴染だけど、私の幼馴染でもあるの!」


 妹から言われた翔太は唇を噛み締めて握り拳を作る。


「放課後だと、環さんの家に環奈ちゃん一人しかいないの知っているよね?何しに行ったの?」

「うっせ!」


 鋭い眼光を向ける妹から視線を外した翔太はシャワーを浴びようと歩き始める。だが、妹は未だにご機嫌斜めである。なので、兄の背中に向かって話しかける。


「距離感、考えといた方がいいよ。環奈ちゃんにがいるかもしれないから」


 真凜の言葉を聞いて、足を止める翔太。


 彼はギリギリ聞こえるほどの小声でボソッと漏らす。


「環奈に男?そんなの……ありえねーし」


 そう言って、体を温めるために再び浴室へと向かう翔太。


 真凜は彼の背中を見て深々とため息をついた。


X X X


 スポーツジム


「うわ……こんなんじゃ家に帰らないわ……」


 土砂降りのように降ってくる雨を見ながらため息をつく環奈。


 制服姿の彼女は、明日、樹と一緒に身体を鍛えるために、母から聞いた情報をもとに、彼と母が通っているジムで登録手続きを済ませたのだ。


 本来なら、入会するのは明日になる予定だったが、はやる気持ちを抑えつけることができず、迷わずここにきて入会をしたわけである。


 べ、別に……早いに越したことないし、と自分に言い聞かせようとしても、その度に彼の格好いい姿が浮かんできては、彼女の頭を悩ます。


 だけど、この土砂降りはごっちゃ混ぜになっている彼女の考えを一気に吹き飛ばした。


 雨は止みそうにない。


 どうしようと、周りを見回していると、前方から傘を差した私服姿の美人が歩いてきた。


 いくら美人とて、この雨だとあまり注目はされない。だけど、環奈にとっては、毎日目にする人なのだ。


「お母さん!」

「え?環奈!?どうしてここに?」


 入口付近にやってきた環は環奈を見るなり目を丸くして驚いた様子を見せる。


「私も、これからこのジムに通うから!」


 胸を張って自信満々にいう環奈。だけど、その表情には若干の憂いがある。そんな自分の娘の心なんか見透かしていると言わんばかりに、目を色っぽく吊り上げて、艶のある唇を動かす。


「なんで通いたいと思ったの?」

「っ!そ、それは……あれよ!身体鍛えると元気になるから!」

「本当にそれだけなの?ふふ」


 含みのある言い方で娘に探りを入れてみる環。


 でも、このままやられる娘ではない。


「今日は樹、来てないよ」

「あら、そう?」


 頤に手をやり考え考えする環は、しゅんと落ち込んでから、踵を返す。


「家に帰るわ」

「お母さん……」


 母の後ろ姿にジト目を向ける環奈は心の中で「なんなんだこの人は……」ってボヤいてから、タタタっと早足で歩き、母の傘の中に入る。


「私も一緒に連れてって!車で来たでしょ?」

「うん。そういう環奈は家に寄らずに来たの?」

「そう。でも、登録手続き済ませたらいきなり雨降っちゃって……」

「ご飯は?」

「まだ……」

「久々に美味しいもの食べに行く?」

「お!うん!いく!」

「ふふ」


 あったが、神崎家の母娘はとても仲がよろしい。


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