暁の薄紫色に映る
伊崎 夕風
プロローグ
【1】悪いことは続くもので
悪いことは続くものだ。
まさか、そんなドラマのような展開ってある?私は待合のつるんとした合皮のベンチに、力なく座り込んだ。
昼前のガヤガヤとした病院の、無機質な白い床を見つめながら、指輪の跡の残る左手をぎゅっと握った。
『時期じゃないって、じゃあ汐里にとってその時期はいつ来るの?』
恋人、雅人のその言葉に、それまでにはなかった怒りと苛立ち、それに何となく終わりの匂いを感じた。
『君が仕事好きなのは知ってるし、仕事に生き生きしてる汐里も好きだったよ。だけど俺との事もちゃんと考えてくれてるって思ってたから、これまで待ったんだよ。だけど、汐里に合わせるのはいつも俺だろ?親に会うのもすっぽかされた俺の気持ち考えた?』
雅人の言葉の端々に、もうその恋愛は過去なのだと思い知らされた。
『なんか言ったら?』
言いすぎたと思ったのか、少し居心地悪そうに雅人は言った。その彼の優しさに甘えすぎて、ここまで来てしまったのだ。
『すっぽかしたのは悪かったと思ってる。仕事を優先したのは私だし……』
埋め合わせしたいから、と言いかけてやめた。この日が埋め合わせだった事はわかってる。もう、雅人にこの先を続けていく意思が感じられなかった。代わりに感じたものは、これまでなるべく見ないようにしてきた事。
それは、雅人の絶望や自身の親の前でかかされた恥に対しての怒りだったり、汐里に対する不信感だった。
もう終わり……
『もう終わりにしよう』
雅人は言った。その苦い表情から目が離せなかった。
『疲れちゃったよ、待つの』
それは、桜が散り始めた暖かな日だった。街のあちこちに、薄紅色の花を盛りと咲かせ、桜が1年で1番いい季節を迎えていた、そんな日の夕暮れだった。
『わかった』
汐里は雅人の目が見られなかった。足元の今日のためにあつらえた、上品なベージュ色の本革のパンプスに、傷が付いていることに気がついた。
首筋の汗が冷えて、ヒヤリとした。
昨日急に入った、対談の仕事を片付け、対談の女性ジャーナリストに、その後の食事に引き止められそうになるのを振り切って、必死にここまで走ってきたのだ。まだ動悸が静まりきっていない心臓に、空洞が空いたような気がした。
雅人が背を向けて去って行くのを、呆然と見つめた。別れ話なんて、ホテルのロビーで立ち話で済ませるような話ではないのだろうが、自分のしてきたことを考えればそれがお似合いだとも思った。
病院から戻った自宅マンションの部屋には西日が差し始めていた。デスクには持ち帰った仕事がいくつか残っているのをちらりと見て、カバンをベットの上に下した。
「暑いな」
先週桜が散ったばかりだというのに、もう夏のような気候に変わりつつある。
窓を開けると、ミネラルウォーターを冷蔵庫から出してキャップを開けた。
「末期癌か……」
喉を通って行った水の冷たさに、先ほど受けた宣告の言葉がよみがえってきた。
予約していた人間ドックで、白血球の数値がおかしいと言われて再検査を受けていた。その結果を聞いたのが今日。雅人と別れたのは先週のことだというのに。
膵臓がやられていた。骨にまで浸潤していて、もう取り除いても手の施しようがないと言われた。余命をハッキリとは言わない医者に、食い下がって、自分に残された時間の長さを聞き出した。
持って半年。こればかりはハッキリと分かるものでは無い、と。
親兄弟がいないということは、こういう時、堪える。
無造作に置かれた鞄から覗いていた冊子を引っ張り出して開く。それはカウンセリングルームで看護師がくれた、末期癌の患者のための冊子だった。
「身辺整理……か」
その言葉が自身に関わるのはずっと先だと思っていた。次に病院を訪れる時は、治療方針について話し合われる。
治療と言っても、病の段階に置いてどう対応するか、決めておこうと言う話だ。出来れば信頼できる友人でもいいので同席できる人を、と言われた。気が重くてため息が出る。
ペラリ、と次のページをめくる。前のページも目を通したようで全く頭に入ってこない。
が、次のページにあったいくつかある項目の1行に目が止まった。
やり残したことをやる、という欄にある。
─会いたい人に会っておく─
その瞬間、思い出したのは、日に透けた色素の薄い髪。耳にいくつも開いたピアスの穴。風にはためく夏用の制服の白いシャツを着崩したあいつの、斜め後ろからの横顔だった。
「海斗」
ベッドの反対側にあるキャビネットの開き戸を開ける。ずっと触ってなくて、うっすら埃の被った四角いオルゴールを取り出すと、恐る恐る開ける。
ネジを巻いていないオルゴールは1音だけきらめくような音を立てた。中に入ってるのは様々な思い出の品ばかりだ。指に触れたものをつまみあげる。
そのいつかの小物の中から、親指の大きさほどの貝殻を手のひらに載せる。自然と口角が上がる。目を閉じると潮の満ち干きの穏やかな音が蘇ってきた。
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