第6話 仏の御石の鉢
石作皇子は悩んでいた。
仏の御石の鉢とは仏陀が沙門の僧として使っていた托鉢鉢のことである。輝けるその托鉢鉢は当然ながら天竺の秘宝。見つけるのですら難事だが、国外に持ち出すのはさらに難事。どう考えても無理な話であった。
だが、だからと言って輝夜姫を諦めることができるのかと言えば、それは無理な話であった。外面の美しさに加え、内面の賢さを考え合わせると、この世に彼女に匹敵する女性はいない。その賢さが今回の難題の数々を作りだしたのだが、そのことは今は考えなかった。
どのような形であろうとも、天竺の大きな寺の宝であろう仏の御石の鉢に近づくには、仏法を学ばねばなるまいと石作皇子は結論づけた。見知らぬ異邦人よりは見知らぬ僧侶の方が警戒されないはず。
まずは手近の寺社より始め、思いつく限りの仏教の徒を訪ねた。一通りの教本を読んだ頃に、前より願い出ていた遣唐使船に乗れることになった。そのために本当の狙いは隠して高僧に弟子入りまでした。
苦しい旅は長く続いた。唐の国についたとき、師事していた高僧は病のために亡くなっており、後を継ぐ形で唐の国の大伽藍で仏教を学んだ。
その成果が実って、天竺への大派遣使節の一人として選ばれることができた。
旅の目的地はついに天竺へと繋がったのだ。
砂嵐、盗賊、追剥、国と国との戦争、シヴァ教徒の襲撃。これらすべての苦難を越えて、石作皇子は進んだ。この頃にはすでにその名前は空石僧正へと変わっていた。
ついに天竺へ到着したと教えられたときは歓喜の余りに道の上に座り込むほどであった。
五つの精舎を回った。八つの大寺院を回った。多くの高僧に出会い教えを乞うた。表向きは勤勉なる中つ国の学究の僧の一人として、その実、宝を盗むことを目論む者として。
だが仏の御石の鉢はどこにも無かった。微かな手がかりを探し出して見つけたと思っても、それは一目で偽物だとわかる代物ばかりであり、空石僧正を落胆させた。
聖地を巡礼し御鉢を探し求めるうちに、空石僧正は絶望と諦観から変わっていった。自分の欲望ではなく、今までさんざん学んできた教えに身を委ねたのだ。
すでに輝夜姫の肢体の記憶は曖昧になり、ただ美しい人との感想だけが残っていた。静かな聖地に一人座し、薄闇の中にて瞑想すること七日。周囲でごうごうと渦巻く世界の音を聞いている内に、自分の業がついに見えた。
女人の色香に迷い、無限の地獄を彷徨い続ける亡者。
その先に救いが見えた。
その日、家の表に出た竹取の長者は、見すぼらしい身なりの托鉢僧が門前に佇んでいるのに気づいた。居るぞとも言わずに、ただ静かに軒先に立っているだけの僧に奇妙な感覚を感じながら、竹取長者は米を持ってこさせると僧が差し出している托鉢鉢の中に注ごうとした。
「違いまする」
もう片方の手で托鉢鉢に蓋をすると、托鉢僧は再び托鉢鉢を差し出した。
「御坊、銭の方がようございますかな?」
僧の強欲にやや呆れながら竹取長者は言った。
「違いまする。拙僧の方がこの托鉢鉢を貴方に差し上げるのです」
ふとその托鉢僧の顔を魅入った竹取長者はあっと叫んだ。
「い・・石作皇子さま!」
「拙僧、今は空石と名乗っておりまする」
「今日はどのような御用で」
「姫がご所望の仏の御石の鉢を持ってきました」
空石はそう言うと竹取長者の手の中に托鉢鉢を押し付けた。
「こ、これが仏の御鉢」
「さよう」
竹取長者は手の中の鉢を見つめた。古びた木の鉢である。とてもとても宝の鉢には見えなかった。
「大和国十市郡の山寺にて見つけた物です」
「なんと! 仏の御鉢がそのような所に」
竹取長者の疑問に答えるかのように空石は話しだした。
「すべての身分を捨て仏教に入りたる者を沙門の僧と申します。仏の御鉢とはその沙門が持つ托鉢鉢そのものを示します。すなわち、真の僧が持つものならば、どの托鉢鉢も仏の御石の鉢と呼ぶべきなのです。
山寺に住みたるは一人の沙門。このたび見事に解脱なさり、この托鉢鉢を拙僧が譲り受けました。私はすでに一つ持っておりますゆえに、輝夜姫にお渡ししようと参上した次第」
なんと、そう来たか。竹取長者は身構えた。このような粗末な鉢一つで己の大事な姫を渡せるものか。
「ああ、世の愚物には分らぬ道理なるかや」
空石はそう言うと、竹取長者の手からふたたび托鉢鉢を取り上げ、両手で空中に捧げ持った。
托鉢鉢は光を発し周囲を明るく照らした。その光は柔らかく暖かく、さらに至福の喜びを惜しげもなく振りまいた。いつの間にか周囲の空中に無数の諸天善神が舞い降り、この奇跡を寿ぎ称えた。伎芸天が笛の音を鳴らし、吉祥天が嫋やかな舞いを踊る。
光の中で空石の声だけが語り続ける。
「かって天竺には肝喰と言われた九尾の狐がおりました。仏陀生誕後に天竺を追われ、中つ国に逃れて傾国の妲己となり、各地を彷徨いし後、日の本の国にたどり着き、竹を用いて転生したのです」
空石は托鉢鉢を懐へと納めた。たちまちにして鉢が放っていた光が失せ、周囲にはいつもの日常が戻った。
「貴方の大事とする輝夜の姫をもらい受けようとは申しませぬ。貴方も、また彼女も、まだ業が尽きてはおりませぬ。この色界をいましばらく漂いませ」
それ以上、竹取長者が何を言う間もなく、空石は立ち去った。
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