第4話 天竺火鼠の皮衣


 天竺火鼠の皮衣とは、天竺にある火の山に棲む火鼠の革で作った布のことだ。別名で火浣布とも呼ばれる。汚れがついたときはこの布を火にくべると汚れだけが焼け落ちて、綺麗になった布だけ残る。故に火で洗う布ということで、火浣布と名付けられた。

 そんな布、右大臣阿倍御主人は今まで一度も見たことは無かった。

 さっそく都中にお触れを出すと、多額の報酬に釣られて多くの火浣布が集まった。お代をお払いくださいという商人たちを待たせて、阿倍御主人はそれらの布を片っ端から炎の中に投げ込んだ。いずれも敢え無く燃え尽き、商人たちには刑罰として棒叩きが与えられた。

 やがて、布を持ち込む愚か者たちも絶え、阿倍御主人は頭を抱えた。


 本物の火浣布は存在しないのか?

 輝夜姫はありもしない物を持って来いと言ったのか?

 この無茶な要求はそもそもが遠回しな求婚の断りだったのか?


 阿倍御主人の脳裏をさまざまな考えが占めた。このまま姫のことを忘れるというのが一番良さそうに思えたが、しかし阿倍御主人は諦められなかった。いくら長く生きようともあれほどの女人にはもう二度とは会えまい。そう確信しているからだ。


 陰陽寮を訪れ、陰陽博士安倍公麿に質問をぶつけてみた。

「火鼠の皮衣は存在するのか?」

「然り。存在する」

 安倍公麿は言葉少なに答えた。その一言に帝でさえも一喜一憂する。たかが右大臣にそこまで多くを語るつもりはない。だが同じ安倍の姓を持つ者ゆえ、そこまで無碍には扱うまい。

「それは何か。火鼠の皮なのか? 火鼠という生き物は存在するのか?」

「然り。存在する」

「それはどこに居る? 天竺にか? 日の本にはおらぬのか?」

「天竺にも居る。日の本にも居る」

 この答えを聞いて阿倍御主人は小躍りした。

「日の本のどこに居る?」

「火山のある所ならどこにでも棲んでおる。ただし」

 陰陽寮の頭は言葉を切った。

「火鼠は臆病で滅多に人の目には触れぬ。見つけ出すはよほどの僥倖。ましてや捕まえるは至難の業。故に、火鼠の皮衣は得難い財物なり」

 だが阿倍御主人にとってはそこまで聞けば十分であった。


 火山は阿蘇の雄山を選んだ。年を通じて常に火を拭き上げ、また火山の多い日の本でも不死の御山を除けば最大の火山であるから。

 旅は長く長くかかった。京の都からお供を連れて旅をする。街道があるとは言え、それほど整備されているわけではなく、一行は時間をかけて南下した。こうしている間にも他の求婚者たちが各々の課題を見つけて、輝夜姫の下に馳せ参じるのではないかと苛つきもしたが、かと言って手ぶらで姫の下に行けるわけもない。そんなことになったときの姫の侮蔑に満ちた視線を想像しただけで、阿倍御主人の下腹は冷え、死んでしまいたくなる。

 なんとしても火鼠の皮衣をこの手にしなくては。決意は強まるばかりであった。


 地元の者でも恐れる火の山に登ってみれば、これはまた雄大かつ威容な山であった。噴煙が吹き上がり、昼間でも空を暗く染めるかのように灰が漂うその様に、阿倍御主人は内心怯えた。怯えはしたが、山に登るのは止めなかった。吹き上げる炎に震えるお付きの者たちを叱咤し、降り注ぐ噴石の合間を縫って、山の頂きへと近づいた。

 溶岩の川が溢れ出すその上を、瞬間、小さな影が横切った。

 確かに鼠だ。真っ赤に輝く溶岩の上を素早く、しかし焼けもせずに走り抜ける。

「いたぞ! 火鼠だ」

 阿倍御主人は叫んだ。恐る恐る付いてきていた者たちもその声にざわめき立った。

「あそこだ。捕まえよ!]

 皆で追った。火鼠は思いの他すばしこく、人々の手をすり抜けた。溶岩の上もものともせずに駆け抜けるので、人間では後を追うことができない。その内に地面に空いた穴の中へと飛び込むと、姿が見えなくなった。人一人がやっと通れるほどの穴だ。その中は暗くて見えない。

「追え。追え。あれを捕まえれば褒美は望みのままだ」

 その声に促されて、最初の者が穴の中へと潜り込んだ。しばらく一行は外で待っていたが戻って来ない。次の者が勇気を奮って穴へと潜り込む。これも戻って来ない。名指しをされて三人目が穴に入り、それすらも帰って来ないともう誰も名乗りを挙げる者はいなくなった。

「ええい、臆病者たちめ。火鼠はそこにいるというに」

 ついに阿倍御主人が立ち上がると、周囲が止めるのも聞かずに穴の中へと潜り込んだ。

 穴の中は暗く、幾重にも分岐して、しかも長く続いていた。手にした松明が半分も燃え尽きた頃、阿倍御主人は自分が迷路の中で迷子になっていることに気がついた。戻ろうにも背後の暗闇の中に道しるべはない。

 これは困った。果たしてここはどこだ。俺はどちらに進めばよい。心細い思いでとにかく前へ前へと進んでいると、やがて前方に小さな明かりが見えて来た。どうやらこの穴の出口らしい。喜び勇んで飛び出してみると、そこは広い洞窟であった。壁一面が何か光る物で覆われている。

 人影があった。

 全身赤みがかった大男たちが阿倍御主人に気づくと集まって来た。彼らの額に生えた角に気づいて、阿倍御主人は震えあがった。地の底には鬼が棲むという。そんな話が思い起こされた。

 抵抗する間もなく赤鬼たちに捕まると、そのまま洞窟の奥に連れて行かれた。洞窟はひどく大きく、冷え固まった溶岩を組み合わせた石造りの街がその中に広がっていた。奇妙な色合いの植物と思われるものが植わった畑もあり、別の赤鬼や、女性と思われる赤鬼たちが働いていた。

 一際大きな建物へと連れて行かれると、その中央に置かれた椅子に座っていたのは、年老いて痩せた普通の人間の老人だった。

「これはこれは、珍しいお客人が迷いこんできたの」

 身振りで赤鬼たちを下がらせると、老人は話を始めた。

 阿倍御主人が迷いこんだのは地底に広がる赤鬼たちの国であること。極めて稀にだが、地上から迷いこんでくる地上人がいること。そして一番大事なのは、ここより帰る手段が無いこと、などだった。

「帰れないですと、それは困ります。姫が待っているんです。どのようなことでもしますから、地上に返してください」

 老人は困ったような顔をした。

「意地悪で言うておるではない。以前はまだ地上に抜ける道が一つだけあったのじゃが、この間の噴火の際に崩れて埋まってしまったのじゃ。ヌシがここに来れたのを見ると、まだ地上につながる道がどこかにあるのじゃろうが、さて、それがどれかと問われてもとんと分からぬ。ヌシが道を覚えておればよいのじゃが?」

 阿倍御主人は首を横に振った。目印すらない暗闇の中でどこをどう通ったかなど覚えているわけがない。

「じゃろう。まあ、何ぞ良い知恵が浮かぶまでここでゆるりと過ごすがよい。赤鬼たちは恐ろしそうに見えるが実は気の良い連中じゃ。住めば都とは良く言ったものじゃぞ」

 そうは言っても、その都から来た身としては居心地がよいものではない。しかし、では何か他に策があるのかと言えばあるわけもなく、仕方なく阿倍御主人はこの溶岩の宮殿に身を落ち着けた。

 そうこうして日々を過ごす内に、周囲のこともだんだんと分かってきた。

 この鬼の都には主に赤鬼が棲んでいる。男も女も赤鬼は体が大きく、牙と角を持つわりには穏やかな性格をしていた。頭はあまり良くなく、赤鬼の国の差配はこの老人がすべて行っていた。

 老人の補佐をして過ごす内に、阿倍御主人もまた赤鬼たちの敬愛を受ける身となり、何不自由のない暮らしをするようになっていった。老人も過去にこの国に迷いこみ、そのときには帰る道もありはしたが、いつの間にか定住を決意するようになったのだ。

 地下の国に暮らすようになって分かったのは、この地下では火鼠はさほど珍しい生き物ではないことであった。赤鬼たちに命じて、あるいは数匹は自分で捕まえて、手にいれた火鼠の皮を剥いだ。じきに人一人がすっぽりと被ることができる大きさの火鼠の皮衣が出来上がったが、たとえそれを使って溶岩が渡れるにしても、やはり地上に戻る手段は無かった。

 赤鬼たちの主食はこの地下に生えるキノコに似た植物であった。天井や壁を埋める光キノコの親戚らしく、溶岩の土から何らかの栄養を吸い上げて育つ。赤鬼たちにキノコの栽培を教えて、飢えることのないように食料の管理から住宅を建てる差配まで、やることは色々とあった。赤鬼は愚かで、自由にさせていてはいつ滅ぶかわからない所があった。

 たまに小人数で襲ってくる青鬼以外にはさしたる敵はおらず、平和でのどかな暮らしが続いていた。

 そんなある日、ふとしたはずみに洞窟の端から匂いが漂って来るのに気がついた。懐かしい匂い。地上の梅の花の匂い。匂いの下をたどると、やがて一つの穴へとたどり着いた。おそらくは地上へと通じている穴。この匂いを辿っていけば地上に出ることができるに違いない。

 阿倍御主人の心は踊った。帰れるのだ。地上へ。

 だが一度地上に出れば、再びここに戻って来ることはできまい。地下の匂いのする穴なんか、地上では聞いたこともない。最初のときとは逆の状況が生じている。最初は地底から出る術がない。今度は地底へ戻る術がない。

 阿倍御主人は前を見て、それから後ろを見た。

 赤鬼が一人、走って来ると、老人の危篤を告げた。

 今、この洞窟を出れば姫に会える。火鼠の皮衣も手に入れた。きっと輝夜姫は約束通りに妻となってくれるに違いない。だが、しかし、そのことにどれだけの意味があるだろう。

 阿倍御主人は右大臣だ。官職名こそ立派だが結局は帝の身辺を警護するだけの使い走りに過ぎない。地上に戻れば自分はまたうだつの上がらぬ下級貴族へ戻ることになる。姫もやがては愛想をつかし自分を捨てるだろう。いやきっと、美しい妻を娶ったとなればあの好色の帝のことだ、何だかだと罪を被せて自分を遠くの島に流し、輝夜姫を手に入れようとするに違いない。

 そして老人を失い、いままた自分をも失えば、この気の良い赤鬼たちも滅んでしまうだろう。無計画にキノコを食い尽くして、あるいは青鬼の計略にかかって。

 その一方で、ここに残れば、自分は赤鬼たちの王だ。歳を取って死ぬその日まで。


 阿倍御主人は外へ通じる穴の前でいつまでもいつまでも迷っていた。


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