3_「ありがとう」がこんなにも残酷な響きを持つなんて、思いもしなかった

 パチリ、目を覚ます。視界に入るのは、付けっぱなしにしていたテレビの画面だった。うるさいなと思って、手探りでチャンネルを探して電源ボタンを押す。最近話題のアイドルの笑い声を最後に、テレビは沈黙した。

 どうやらいつの間にかソファに倒れ込んでいたらしい。思ったより熟睡していたのだろうか。けれどしっかり寝た後の爽快感のようなものはなく、体を起こす気にはなれなかった。


 懐かしい夢だ。


 体の向きを変えて、天井を見上げる。すっかり見慣れたそれだ。俺が、この千蔭さんの家で同棲を始めてからもう一年近く経っている。初めて会った時には、将来こんなことになるなんて思ってもみなかったのにな、と過去を思い返した。


 千蔭さんと会ったのは、俺がまだ学生で、荒れていた頃だった。何かと声を掛けてくるその人は、俺が好意的ではない反応を返してもいつも笑顔で、気づけば自分を気にかけてくれるその人に心を許すようになっていった。それでも俺は馬鹿な行動を辞めることはできず、そうしてバイクで大事故を起こした。今こうして五体満足で後遺症もなく生きているのは、奇跡に近い。

 それもこれも、事故を起こしてすぐに千蔭さんが駆けつけてくれたからだ。


 夢で見た、かつて見たあの時の千蔭さんの声を、顔を、今でも覚えている。あの頃、俺を見てくれている唯一の人だった。誰にでも笑顔で、人気者で、正義の味方なおまわりさん。仕事だからだろうと、俺に目をかけてくれた、事故を起こした俺を助けに来てくれた、その人がただただ眩しかった。


 それからは、千蔭さんの背中をただただ追った。そうして、時間はかかったけれど今の場所に俺は居る。

 バディで、あの人の部下で、あの人の恋人。


 けれど、あの人は、正義の人だ。もしもなにか起これば、真っ先に自分の身を犠牲にするだろうし、そこに躊躇はない。分かってる、俺が惚れたのはそんな千蔭さんだ。

 でも、それでも、起こってほしくない「もしも」が起きた時、俺の存在が足枷になってくれたらと、そう願ってしまう。


 そこまで思考が沈んだところで、ガチャリ、鍵の開く音がした。続けて「ただいまー」と千蔭さんの声がする。

 ぱしり、自分の頬を軽く叩いた。何を考えているんだか。とっくの昔に、覚悟はしたはずだろと自分に言い聞かせる。こんなことを考えてしまったのは、やはり疲れているからだろうか、なんて考えたところで背後から声が掛かった。


「あれ、どうしたのミケちゃん。ぼーっとして」


 振り返れば、荷物をダイニングテーブルに置きながらネクタイを緩める千蔭さんが居た。緩められたネクタイの首元、千蔭さんがいつも身につけているチョーカーが覗く。


「あ、……っと」


 さっきまで考えていた内容だけに思わず口籠ると、ぐいと顔を近づけてきた千蔭さんが「もしかして」と小さく言った。いや、まさか。いくらこの人でも俺が考えていた事が分かるわけ、と内心焦っていると、千蔭さんの指先が頬に触れた。驚いてぴくりと体が跳ねる。


「ソファで寝てたでしょ。顔に跡ついてるよ」

「え……そう、ですか」

「んー、もしかしてまだ眠い?」


 千蔭さんが、柔らかく笑いながら俺の頬を撫でる。きっと顔についているという跡をなぞっているのだろう。それが少しくすぐったかった。


「そう、かも……ですね」

「じゃあ、今日はもう寝る感じかな?」


 問われた内容に、「あー……」と間延びした声で返す。時計に視線をやれば、まだ眠るには早い時間だった。


「まだっすね。寝るには早いし、せっかく明日休みだし」

「そっかそっか。そしたらさ、これから飲まない?」


 唐突な提案に思わず首を傾げる。千蔭さんは机に置いてあった紙袋を俺に見えるように持ち上げて言った。


「実はまだ飲み足りなくてさ。さっきいいお酒貰ってきたんだよね。辛口の純米大吟醸だって」


 説明するように言われたそれに頷く。


「じゃあ、お言葉に甘えて。その前に、いったん顔洗ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」


 その声を背後に、立ち上がって洗面所に向かった。

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