4_「ありがとう」がこんなにも残酷な響きを持つなんて、思いもしなかった
洗面所の鏡を覗き込めば、そこには頬にソファの跡がほんのり残った俺が映っていた。普段よりもずっとひどい顔をしているように見えるのは、さっき見た夢のせいだろうか。それとも、さっきまで考えていたことのせいだろうか。
バシャバシャと音を立てて、冷水で顔を洗う。タオルで顔に残る水滴を拭って、ふうと一つ息を吐いた。
顔を洗えば、さっきまで考えていたことも水と一緒に流せる気がした。
「戻りました」
「おかえりー、目は覚めた?」
「うっす」
再びリビングに戻れば、千蔭さんがキッチンに立っていた。
「つまみ作ってんですか?」
「作ってるってほどじゃないよ。帰りに適当に買ってきたやつ開けてるだけ」
手元を覗き込めば、なるほど子持ちししゃもやら焼き鳥やらが広がっていた。
「ついでに冷奴とか枝豆とかも出します? あと時間かかってもいいならだし巻き卵とか作りますけど」
「お、いいねえ。お願いしちゃおうかな」
「うっす、ちゃちゃっと作りますね」
エプロンを付けてキッチンに立つ。冷蔵庫を開けて、ざっと中身を見る。記憶通り、卵も豆腐もまだ残っていた。冷凍庫に枝豆も残っているはずだ。
「千蔭さん、冷奴の薬味何が良いです?」
「えー、どうしようかなあ。ミケちゃん的今日のオススメとかある?」
「なんすかそれ」
小さく笑って、改めて冷蔵庫の中身を見る。
「そーっすねえ、ネギとかつお節とか、キムチとか? あとわさび醤油とかどうです?」
「お、わさび醤油いいね。それにしよ」
「りょーかいです」
言いつつ冷蔵庫から卵と豆腐を、冷凍庫から枝豆を取り出す。枝豆は適当な皿に載せてレンジに突っ込んだ。その間に、卵を割って、溶いて、だしの素と醤油、砂糖を混ぜる。フライパンを出して、油を敷いて、複数回に分けて焼けば完成だ。まだ熱い完成品を一旦皿に上げる。冷ましている間に豆腐を出して半分に切り分けて、醤油をかけてわさびを乗せる。これで冷奴は完成。とっくに温め終えていた枝豆を取り出して、塩をかければレンチンだけで済む枝豆もこれで完成だ。最後に包丁を取り出して、ほどほどに冷めただし巻き卵を切り分ける。これで、つまみが三品完成した。
「お待たせしました」
言いながら完成品をソファ前のテーブルに運ぶ。テーブルには、ぐい飲みが二つと貰い物の日本酒、それからさっき千蔭さんが買ってきたつまみ達が皿に載せられて待っていた。
いつの間にか楽な恰好に着替えてきたらしい千蔭さんが、机に並べられたつまみ達を覗き込む。
「ありがと、おいしそうだねえ」
エプロンを外して、ソファの背に掛けながら「どうも」と返して俺もソファに座る。千蔭さんはさっそく日本酒の瓶を開けてぐい飲みに注いでいた。
「それじゃ、乾杯しよっか」
千蔭さんの言葉に頷いて、ぐい飲みの片方を持つ。
「じゃあ、乾杯!」
「……乾杯」
ちん、陶器同士がぶつかり合う音が響いた。そのまま一口含んで、口の中で味わう。なるほど、確かにいい酒らしい。さっぱりとした後味だった。
「お、おいしいねえこれ。良いモノ貰っちゃったなあ」
「ですねえ」
同意を返して、再び一口。やはり美味い。ぐいぐい飲めてしまうから、飲み過ぎに気を付けないとな、と頭の隅で思った。
「ミケちゃんも最近出ずっぱりで忙しかったでしょ? どうよ、久しぶりの休日は」
「そっすねえ……明日はゆっくり寝てるつもりですけど」
「はは、ミケちゃんらしいや」
振られた話題に返しながら、つまみに手を伸ばす。冷奴をつつきながら、「そういう千蔭さんこそ」と口を開いた。
「いつも通り忙しく過ごしてるじゃないですか」
「それはまあ、それ相応の立場だしね。それに合間を見て休んではいるし」
「そっすか」
合間にぐい、と酒を一口。続けて今度はししゃもに手を伸ばした。
「……まあ、体壊さない程度にしてくださいよ」
「えー、それミケちゃんが言う? このワーカホリックが」
「それは……そうですけど」
何か言い返そうとして、結局何も思い浮かばず結局肯定を返す。事実を否定することはできなかった。
「そういや、今日の会食って誰とだったんです?」
分の悪いそれから逃げるべく、話題を変える。千蔭さんは「今日はねえ」とあっさりそれに乗ってくれた。
「科捜研の室長さん達とだったよ。やっぱり所属する場所が違うと聞ける話も違うから面白いよねえ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
俺には分からない感覚だが、千蔭さんにとってはそうなんだろう。納得して、また一口酒を飲んだ。
そうして、心地よい時間が過ぎて行く。そろそろ酔って来たな、という自覚が生まれた頃、ふと、さっき見た夢のことを思い出した。そして、それと一緒に寝起きに考えたことも引きずり出されていく。
俺は、千蔭さんを追いかけて今この場所に居る。どうしてそこまでしたかって、この人を見て、憧れたからだ。人を助けることができる人が居るんだって、どうしようもなく眩しくて、それで。
だって、この人だけだったんだ。俺を、俺自身を見て、それで心配して、助けてくれたのは。
……それで、俺は、この人が好きだって、俺のものにしたいって、そう思った。
けれど、俺のものになった千蔭さんは、もうきっと俺が憧れた千蔭さんじゃない。分かってる。
それに、そんなことを考える俺を、千蔭さんはきっと望んでいない。分かってる。
千蔭さんが望む俺は、俺が千蔭さんに誇れる俺は、自分たちよりも市民を優先する正義の味方だ。
……それに、この人はきっと、今でこそ俺の横に居てくれるけれど、そう遠くない未来には破滅を選ぶだろう。はっきり言われたわけじゃない。けれど、きっとこの人はそうするだろうという、確信めいた直感があった。
そうなった時に、俺が、この人の足枷になりたい。俺との毎日を、どうか名残惜しく思ってほしい。
……千蔭さんを、止めることができなかった時のための覚悟はしている。けれど、どうかこの覚悟は無駄になってほしいと、そう願って止まない。
「どうかした?」
ぐるぐるとめぐり始めた思考を止めたのは、千蔭さんその人だった。視線だけでこちらを見て、千蔭さんがそう問う。もしかして、顔に出ていたんだろうか。
「……アンタが好きだなあって、そう思ってただけですよ」
こんなこと、直接言えるわけがない。そう誤魔化して、ぐいと酒を呷る。アルコールが喉を焼く感覚があった。
「その割には、幸せそうな顔じゃないねえ」
ぐいと覗き込まれるように顔を近づけられて、思わず閉口する。
「もう一度聞くよ。……どうかした?」
きっとこの人は、今俺を心配してくれている。それは、打算交じりかもしれない。それでも、少なくとも、今この人の目に映っているのは、俺だけだ。
閉ざすと決めたはずの口はあっさりと開いた。
「俺は、アンタに、居なくなって欲しくない」
どうして、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。焦る気持ちとは裏腹に、口は勝手に動き続ける。
「アンタがどうしたいか、俺にどうしてほしいかも、分かってる。いざとなったら、アンタの後を継ぐ覚悟だって、俺はしてる」
滔々と、まるで事前に台本を作っていたかのように、それでいて溢れ出る感情が乗った言葉たちが口から出ていくのを、どこか他人事のように聞いている自分が居た。自制が効かないのは、もしかして酒のせいか。ぼんやり思う。
「でも、それでも」
ああ、それ以上は。言っちゃダメだろ。困らせるだけだ、失望されるだけだ。言い聞かせるように脳内に響く自分の声は、だんだんと小さくなっていった。
「俺は、アンタと一緒に居たい……」
最後の言葉は、涙と一緒に溢れてきた。ぽたぽたと、自分の太ももに雫が落ちてズボンの色を変えていく。
ぽんと、頭に手が置かれた。そのまま髪を梳くように手が動く。恐る恐る、いつの間にか俯いていた顔を上げる。千蔭さんは、笑顔で言った。
「ありがとう」
その答えで、分かってしまった。自分はまだ、この人の足枷には成れてないんだって。
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