第83話「蕎麦」

 昼食は地下街で済ませることにする。


「僕、蕎麦が食べたいです」

「私、スパゲティがいいです」

「麺類っていうところは被ってるんですけどね……」


 しかし、どうしてもそばが食べたいという欲がある。

 スパゲティよりも。

 たとえ彼女の申しつけだとしても、ここは譲れない。


「ごめんなさい、今日は蕎麦の気分なんです」

「その理由は?」

「なんとなくです」

「奇遇ですね。私もなんです。絶対に譲れません」


 晴海は笑っていたけれど、じっとこちらを見つめてくる。

 スッと右手を差し出し、グッと握り拳を見せてきた。

 なるほど、と彼女の意図を察した倉田は同じようにグッと握り拳を出す。


「私が勝ったらスパゲティで」

「なら僕が勝ったら蕎麦で」


 最初はグー! と声を揃え、3つある選択肢の中から1つを出す。

 あいこが何度か続いたが、5つほど手を出して勝利を決した。


「俺の勝ち」


 ニッと倉田が得意そうに笑い、プクーっと晴海が頬を膨らませる。


「いいお店だったので、是非紹介しようと思ってたんですけど」

「ごめんなさい。じゃあそれは次にここに来た時に、教えてください」

「しょうがないですね、わかりました」


 ふてくされた感じだったけれど、笑ってくれたからよかった。


 少し歩いた場所に、目的地である蕎麦屋に着いた。

 安くて美味いと口コミで評判だったが、やはり人気なだけに人が並んでいた。

 お昼時だからというのもあるだろう。


「行列ですね。今からでもスパゲティに」

「待ちましょう。行列と言ってもそこまで人は多くないし、時間には余裕があります」

「それもそうですけど……むう」


 なんだか今日の彼女は子供っぽい。

 そこもまたいいのだけど。


 しかし、このまま彼女が不機嫌なのは少し困る。

 そうだ、と妙案を思いついた倉田はさっそくそっれを実行した。


「そういえば、まだ夕食の場所を考えてなかったんです。もしよかったら、どこかいいお店ありませんか?」


 ぱあっと彼女の顔が明るくなる。

 チョロいな、と思ってしまった。

 だからこそ晴海を守りたいなと思うし、幸せにしたいと願う。


「この前はイタリアンに行きましたけど、それ以外にもいいお店、いっぱいあるんですよ」

「本当ですか? ぜひお願いしたいです」

「わかりました」


 嬉しそうに彼女が笑ったのと同時に、倉田たちが呼ばれた。

 意外とあっという間だった。

 席に通され、水を飲む。


「天ぷら蕎麦か……美味しそうだな。晴海さんもどうですか?」

「私は……普通のざる蕎麦にします」


 注文もあっという間に決まり、この後どうしようか、という話になった。

 何も予定がないというのもどうかと思うけれど、こういうのんびりとまったりとした時間を過ごしたいと思ったのも事実だ。


「映画でも見ませんか? と言っても、今何をやっているのかあまり詳しくないんですけど」

「そうですね。でも、何も知らないからこそ、面白いものと出会えるのかもしれません」


 即売会のように。

 あそこでしか出会えないもの、あそこだから出会えたもの。

 それらが詰まった場所が即売会だ。

 映画もそれと同じだと考えればいい。

 見たい映画を見に行くのももちろんいいけれど、どんな出会いが待っているかわからない。

 だからこそ面白いのかもしれない。

 多少の博打を打たなければならないという覚悟は必要だが。


「近くの映画館だと……ああ、TOHOシネマズとなんばパークスがある。どっちがいいんでしょう」

「僕はいつも天王寺の映画館なので、何とも。晴海さんはどうなんですか?」

「私も同じです。でもそうですね……ラインナップで言うとやはりTOHOシネマズの方がいいのかもしれません。この後梅田に行くとなれば、その方が地下鉄にもアクセスしやすいでしょうし」

「なるほど」


 蕎麦が届いた。

 心なしか麺がキラキラと輝いているように見える。

 いただきます、と声を揃え、蕎麦を啜った。


「美味しいです」


 あれだけスパゲティに拘っていた彼女が、こうも簡単に掌をクルリと返すのは少し滑稽に思えた。

 しかし、本当に「自分に紹介したい」だけだったのだろうか?

 もっと別の、大切な理由などがあったのではないだろうか?


「そういえば、さっきはなんであんなにスパゲティに拘ってたんですか?」

「えっと……昨日SNSを眺めていたら、難波のスパゲティのお店がいろいろ流れてきたんです。それで、スパゲティ食べたいなって思って……」


 顔を赤く染めながら、彼女は答えた。

 ああ、と曖昧な返事をすることしかできなかったけれど、倉田が蕎麦を食べたいと思った理由もそれだ。

 寝る前に適当にSNSをぼうっと眺めていたら。オススメグルメ動画がいくつも流れてきて、それら全てことごとく蕎麦屋を紹介していたから、おかげで蕎麦が食べたいと思うようになってしまったのだ。

 洗脳とは、身近なところに潜んでいるのかもしれないと、自身の実体験と目の前の晴海を見てそう思いながらずるりと蕎麦を啜った。


「ほ、ほら、天ぷら、1本あげますから」

「いりません」


 恥ずかしかったのか、まだ顔を赤くしている。

 何か言葉をかけて慰めた方がいいのかもしれないけれど、この場合はむしろ逆効果になるだろう。

 別にミーハーだとしてもそんなことで嫌ったりしないのに。


 ともかく今は何も言わずにそっとしておく方がいい。

 それが一番の得策だ。


 倉田は少ししょんぼりする彼女を眺めながら天ぷらと蕎麦を食べる。

 落ち込んだ彼女を前にして食べる料理はあまり進まない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る