第81話「幸せになれ」

 平野はまだ手を倉田に向けている。

 ラッピングの中に包まれているのは、十中八九チョコレートだ。

 明日はバレンタイン当日。

 彼女のチョコレートが何を意味しているのか、気づかないほど愚かではない。


「許してくれ、なんて言わない。けど、ごめん。俺は平野を好きにはなれない。多分、この先もずっと。だから、それは受け取れない」

「ですよね、知ってました」


 乾いた笑みを平野は浮かべた。

 負け戦だというのは最初からわかっていた。

 それでも、彼女はチョコレートを持つ手を下げることは決してなかった。

 諦めたくても、諦めきれない。

 付き合うことが無理でも、せめて、チョコレートだけは受け取ってほしい。

 しかし倉田は、それすらも許さなかった。


 彼は拒絶するように、まっすぐとした悲しい目を彼女に向けた。

 自分のささやかな願いすら叶わないんだと、彼女はゆっくりと、手を下ろした。


「倉田さんって、冷たいんですね」

「別に、俺は自分の気持ちに嘘をつきたくないだけ」

「あの人のこと、ですよね」

「ああ。俺は、晴海さんを幸せにしたい」


 追い打ちをかけるように彼の台詞が飛んだ。

 今まで倉田は晴海のことを「ハルさん」と、ペンネームで呼んでいた。

 しかし今、そうではなく本名の方で呼んでいた。

 彼なりの覚悟だろう。


 もっと早く告白しておけばよかった、と今更ながら思う。

 そうすれば、彼を盗られることなどなかったし、今こうして苦しむことなんてない。

 今更言ったところで後の祭りだが。


 どうしてずっとウジウジしていたんだろう。

 どうしてもっと積極的にアプローチ出来なかったんだろう。

 チャンスはいくらでもあったはずなのに、今に至るまで何もしてこなかった。

 彼と出かけるのだって、これが最初で最後になるかもしれない。


 泣き出しそうなのをグッと堪え、平野は負け惜しみを言い放つ。


「たかが大学生のくせに生意気言っとんちゃうぞ」

「それもそうだな」


 ケロリと倉田は笑った。

 ああ、どんどん自分が惨めになる。

 グサリグサリと心の奥底まで刃が突き刺さっていて、とっくに致命傷を負っているのに、それでもなお刃の雨は止まらない。


 倉田さんの未来に、私はいないんだ。


 最初から相手になどされていなかった。

 そんな簡単なことなのに、今に至るまで理解できていなかった。


「でも俺、あの人を幸せにしたいっていうの、本気だから」

「見りゃわかりますよ。倉田さん、わかりやすいくらい顔に出ますから」

「だろうなあ。知ってるよ」


 少し恥ずかしそうに倉田は笑った。

 平野も笑った。


「私からの最後のお願いです。あの人と幸せになってください。私をフッタンですから、ちゃんとあの人を幸せにしないと絶対に許さないです」

「わかった。約束するよ」

「絶対ですからね」

「ああ、絶対」


 ポン、と倉田は平野の頭に手を置いた。

 ゴツゴツとした男らしい手だ。

 この行為にも何の感情もないのはわかっているのに、それでもやはり勘違いしてしまいそうになる。


「優しくすんなよぉ」


 今にも泣き出しそうな声だった。

 しかし絶対彼の前で泣くものかと決めている。

 精一杯の気力で涙を堪えながら、平野は倉田が近鉄の駅に行くのを見送った。


「幸せになってくれんと、私が惨めやからな。ホンマ、頼むで……」


 彼の背中が見えなくなり、彼女は天王寺駅の方へと戻ろうとした。

 そこに、見知った2人の姿が見える。

 岡とちとせだ。


 2人は同じ顔をして平野の方を見ていた。

 手を繋いでいる。

 なるほど、2人はそういう関係なのだな、と一瞬で理解した。

 同時に、幸せそうな2人の様子を、倉田と自分に置き換えてしまった。


 この先絶対手に入ることのない幸せ。

 それを少しでも想像してしまった自分が悔しい。


 平野の手から、チョコレートが落ちる。

 今日のために頑張って手作りしたチョコレートだ。

 結局渡せずに終わってしまったけれど。


「ちょちょちょ、どないしたんよ。そんな世界が終わるような顔して」

「別に、何でもないです」

「何でもないことないやろ。そんな泣いて」

「私、泣いてなんか──」

「鏡見てみい」


 ほら、とちとせはスマホのカメラを向ける。

 インカメラになっていたので、自分の顔が映っている。


 ちとせの言う通り、泣いていた。

 ボロボロと大粒の涙をこぼし、一筋の線を描いている。

 一体いつから泣いているんだ。

 全くの自覚がない。


 しかし、泣いているとわかってしまったら、あとはもう止まらなかった。

 今まで抑えていた感情が一気に爆発する。


「フラれてもた。私、好きな人に、チョコ、渡せんかった……」


 子供のように平野は声を上げた。

 ちとせはそんな彼女をよしよしと優しく宥める。

 平野に何があったのか、大体は把握できた。


「そっか。頑張ったなあ。よう頑張ったよ」


 何度も何度もちとせは平野を慰めた。

 岡も倉田がやったように彼女の頭を撫でる。


「だから頭撫でんなやぁ……」


 そう泣き叫ぶが、岡は頭を撫でるのを辞めなかった。

 ちとせも彼女を抱きしめるのを辞めない。

 周囲の人たちが自分たちを見ている。

 恥ずかしいけれど、2人の温かさが今は心地よかった。


 ずっと泣いていた。

 泣けば泣くほど、心が洗われるような気がした。

 この傷は、いつ消えるのだろう。

 時間が全て癒してくれるのだろうか。

 とにかく今は、泣くことしかできなかった。

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