第80話「チョコレート」

 店を出た2人は、会話もなく、天王寺駅と大阪阿部野橋を繋ぐ連絡橋へ向かう。

 既に外は真っ暗で、いつもは路上ライブの音楽が聞こえてくるのだが、今日は聞こえてこない。


「寒いですね」

「2月だからな。でもこれからもっと温かくなるかもしれない」

「3月もまだまだ寒いですよ。冬と夏がとにかく長すぎるんです」


 それは彼女の言う通りだ。

 3月でも肌寒い日は続き、4月は逆に暑い日が多い。

 これが地球温暖化の影響か、と少し考えてしまう。


 そうではなくて。


 ピタリと平野の足が止まった。

 クルリと振り返り、倉田は彼女を見た。

 平野は俯き、しばらく何も喋らない。

 そこには一種の畏怖のようなものを感じた。


「平野?」


 問いかけても、何も答えてくれない。

 俯いたまま、彼女はだんまりを決め込む。


「なあ」

「倉田さんは私のこと、どう思ってますか?」

「は?」


 空気が一気に重くなる。

 地獄みたいな質問だ。


「俺は……ハルさんが好きだ」

「あの人ちゃう。私のこと聞いてんねん。答えて」


 誤魔化そうと、それなりに察してもらおうと思ったけれど、どうやらそれは通用しない。

 正面から平野とぶつからなければならないようだ。


「逆に、平野が俺のことをどう思ってるのか聞きたい。それ次第で俺の返事は変わる」

「どうせ私への気持ちは変わらんくせに」

「まあ、そうだな」


 嫌味のつもりなのだろうけれど、そんなものにいちいち心は乱されない。

 ようやく平野は顔を上げ、鞄からラッピングされた何かを取り出した。

 それの中身が何なのか、わからないほど倉田は鈍感ではない。


「倉田さんのことが好きです」


 グッと、力強い目を向けながら、平野はそれをグッと倉田に突き出した。

 しかし、彼はそれを受け取らない。

 受け取れない。


 行き交う人たちが2人のことをまじまじと眺めている。

 立ち止まって、2人の模様を見ている人まで現れ始めた。

 見世物じゃないぞ、と若干イラつきながら、倉田は平野を見る。


「なんとなく、そんな気はしてたよ」

「いつ、気づいたんですか?」

「この前、デートに誘われた時かな。その時初めて、俺、自惚れてもいいのかなって思った」

「鈍すぎますね。私、ずっと好きだったんですよ。倉田さんがあの人と出会う前からずっと」


 悔しそうに彼女が笑う。

 そんな顔をしないでほしい。

 心が苦しくなる。


 だけど、平野の方がずっと苦しいはずだ。

 拒絶されると知っていて、それでも想いを伝えてきたのだから。


「マジか……」

「マジです」


 彼女の口から言葉が噛み締められるように出てくる。

 ここまで感情的な彼女を倉田は知らない。


「気づかなかった。だって平野、ずっと無表情だったから、何考えてるかわかんなかったし。むしろ嫌われてるのかとすら思ってた」

「私、昔から顔に出ませんからね。わかり辛かったかもしれませんね」

「わかり辛いどころじゃないだろ。完全に悪態ついてた」

「そうでしたっけ」

「そうだ」


 少し間を置いた後、平野は答えた。


「初恋だったんですよ。だからどう接すればいいのかわからなくて……」

「初恋、かあ……」


 その相手が自分で良かったのだろうか。

 貴重な初恋の時間を、こんな風に無駄にして、本当に良かったのだろうか。

 目の前の平野を見て、そんなことを考えてしまう。


「なんで俺のこと、好きになったの」

「人を好きになるのに理由なんていらないでしょう?」

「それでも俺は、知りたい」


 じっと、今度は倉田が平野を真っ直ぐ見つめる。

 こんな風に彼女に対して真っ直ぐ目を向けたこと、今まであっただろうか。


 恥ずかしいですね、と照れ臭そうに笑った平野は、経緯について話してくれた。


「私が働き始めて1ヶ月近くたった頃ですかね。あの頃、変な客に絡まれることが多かったじゃないですか。そこで倉田さん、私を助けてくれたの、覚えてますか?」

「あったね、そんなこと」


 よく覚えている。

 彼女が働き出してまだ1ヶ月しか経っていなかった頃、数名の男性客から執拗に声をかけられていた。

 その頃から相変わらず他人に対してツンケンとした態度だった平野だったが、その男性客は一向に引く気配はなく、むしろ彼女の腕を引っ張って強引に誘い出そうとしていた。

 そこで現れたのが倉田だ。

 彼は男性客の手を振りほどき、平野を庇うように前に立つ。


「これ以上はスタッフにも、他のお客様にも迷惑になります。どうかお引き取り願います」


 毅然とした態度で振る舞い、男性客を追い返そうとした。

 倉田自身も怖かった。

 けれど、見過ごすことが出来なかった。


 グループのメンバーは悪態をついていたが、そこに店長が来たことでなんとか事なきを得た。

 平野は相変わらず無表情だったが、手がプルプルと震えていたのを倉田は見逃さなかった。 その事件をきっかけに、倉田は彼女と関わるようになったのだ。

 別にやましい理由なんてない。

 ただ、彼女を助けてあげたかった。


「あの時は、俺もいろいろ必死だったから……多分あそこで絡まれていたのが誰であっても、同じことをしたと思う」

「だとしてもです。私、嬉しかったんですよ。あの時、すごく怖かったんですから。おかげで勘違いしちゃったじゃないですか。それなのに、倉田さんには全くその気がなくて、おまけに別の人を好きになって。ホンマ、女の敵やね! アンタ」

「ごめん、何も言えない……」


 そう言われても仕方がないかもしれない。

 もし自分が平野の立場だったら、同じように助けられた時、その人のことを好きになってしまうだろう。

 中途半端に関わってしまったから、彼女を弄んだようになってしまった。


 最悪だ。

 自己嫌悪の言葉を心の中で呟いた。

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