第73話「看病」

 倉田は雑炊を運び、彼女の部屋をノックする。

 はい、と返事が聞こえてきたので、部屋を開けた。


「雑炊、作ってみました。とりあえず少しでもいいので、何か食べてください」


 そう言い、倉田はスプーンで雑炊を掬った。

 はい、と彼女に差し出し、晴海も小さく口を開ける。


「美味しいです。とても、優しい味がします」

「そう言ってくれてよかったです。作った甲斐があります」


 ホッと胸を撫で下ろした。

 彼女の家の器具を使っているから、味見なんて出来なかったけれど、喜んでくれてよかった。

 ニッコリと微笑むと、また晴海に雑炊を食べさせる。


 しかし完全に食欲は回復していなかったらしく、半分くらい食べ終えたところで突き返されてしまった。

 倉田は一度部屋から出て、雑炊にラップをかける。

 冷蔵庫を開け、雑炊を中にしまい、買ってきたスポーツ飲料水と、テーブルの上に置かれていた薬を代わりに持って行った。


「入りますよ」


 再びドアを開ける。

 今度は心に幾分か余裕が生まれたから、彼女の部屋を見渡すことが出来た。

 晴海の部屋はとても整理整頓されていて、隅々まで掃除がされている。

 まめな人なんだろうなということがここだけ切り取ってもわかる。


「具合はどうですか? 少しはよくなりました?」

「おかげさまで。ほんのちょっとだけ、ですけど」


 ゴホゴホと彼女は咳をする。

 倉田は彼女に薬とスポーツ飲料水を渡した。


「よくその身体で病院行けましたね」

「朝はまだ大丈夫だったんです。熱も37度4分ほどでしたし。でもお昼前になって、急にしんどくなってきて、ひょっとしたらこのまま死んじゃうのかなって。そう思ってたところにソースケさんが来てくれて、嬉しかったです」


 ニッコリと彼女は笑みを浮かべた。

 今にも消えてしまいそうな笑みだ。

 本当にただの風邪だよな、と彼女を診断した医師を疑いたくなる。


「ところで、どうしてちとせさんが知ってたんですか。ハルさんが風邪だって」

「それはですね、向こうから連絡があったんです。今日飲みに行こうって」

「なるほど……」


 それなら多少は納得できる。

 だけどもう少し欲を言うなら、もっと早いタイミングで助けを出してほしかった。


 薬を飲んだ彼女は、再び横になり、毛布の中で包まる。


「前に、困ったら呼んでくださいって言ってましたよね」

「ああ、動物園に行ったあの時ですね。はい、確かに言いました」

「まさか本当に来てくれるなんて思ってなかったです」

「信じてなかったんですか?」


 ショックだった。

 晴海にとって自分はその程度の人間なのかと。

 肩すかしを食らった気分だ。

 対して彼女は面白おかしく小さく笑った。


「ごめんなさい、冗談です。きっと助けを出したら来てくれるって信じてました。実際ほら、ここにいるじゃないですか」

「脅かさないでください。でも、安藤さんが知らせてくれなかったら、僕そのままバイトから帰ってました」

「なら、ちとせには尚更感謝しなくちゃですね」

「ですね。ところで、ハルさんは、僕の方に直接連絡する気はあったんですか?」

「もちろんですよ。ただ、その体力がなかっただけで。あ、もしかして疑ってますか?」

「まさか」


 少しずつだが、晴海の声が普段の様子に戻っていく。

 会話を続けていくと、倉田の安堵感はどんどん満たされていった。


 汗をかいたので身体を拭きたい、と晴海が言った。

 よくあるギャルゲー的なイベントだ。

「代わりに拭いてくれ」と頼み込んでムフフな展開になるアレ。

 だが現実で直面するとさすがにそんなこと出来ない。


「タオル取ってきます」

「あ……はい。場所、わかりますか?」


 晴海に浴室の場所を教えてもらい、倉田は部屋を出た。

 浴室に入るのにも少し勇気がいる。

 ここで、毎日彼女は裸になって、その身体をこのタオルで拭いて……。

 彼女の白くて柔らかい肌を想像するだけで興奮が収まらない。


 ふう、ふう、と一度呼吸を整え、倉田はバスタオルを取る。

 無心のまま彼女の部屋に戻り、はい、と手渡してまた部屋を出た。

 彼女の身体を拭く勇気は出なかった。

 そもそも、バスタオルで大丈夫だったのか、と今更ながら疑問に思う。

 もう少し小さめのマフラータオルやハンドタオルの方が良かったのではないか。

 考えれば考えるほど、どんどん負の渦に飲み込まれていく。


 はあ、とため息をついた彼は、ドアに体重を預けた。


 改めて考えてみると、今、彼女の部屋にいる。

 1年前では考えられなかったことだ。

 1ヶ月前の自分に言っても、きっと信じて貰えないだろう。

 それくらい、彼女との信頼関係も大きく進んだと言えよう。


 コンコン、とノック音が聞こえた。

 ドアを開けると、晴海が申し訳なさそうな笑顔を見せて立っていた。

 先ほどまで薄い水色だったパジャマが、橙色に変わっている。

 しかし抜け殻はどこにも見当たらなかった。


「えっと……いろいろご迷惑をおかけしました。寒かったですよね。早く入ってください」

「いや、僕は大丈夫です。それより、ハルさんの方こそ立ち歩いても平気なんですか?」

「ちょっとクラクラしますけど……少しの間なら大丈夫です」


 ふん、と彼女は小さくガッツポーズを見せた。

 可愛い、とときめいたが、すぐに冷静になる。


「早く寝てください。ハルさん病人なんだから」

「それもそうですね。大人しく寝ています」


 ふふふ、と彼女は笑っていた。

 何が楽しいのかわからないけれど、本人が満足しているのなら別にいい。


 とりあえず玄関で出会った時より回復してよかった。

 長居しても迷惑だろうだから、少ししたらお暇しようか。


 そう思って立ち上がったその時だった。

 キュッと彼女は毛布の中から手を伸ばし、倉田の手を取った。


「いなくならないで……」


 それは、あの夏の日、2人で泊まったあの日、晴海から言われた言葉だ。

 途端にあのコミケの夜のことを思い出す。

 あの時、誓ったんだ。

 必ず彼女を守る、彼女を幸せにするって。


 倉田は優しく晴海の手を取った。


「いなくなりいません。どこにも行きません。約束したじゃないですか」

「そうですね。そうでした。ふふ、私は幸せ者です」


 そう笑って、スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てる。

 彼女が眠っているのを確認すると、なんだかこっちまで眠たくなってきた。

 何とか持ちこたえようと踏ん張ったけれど、自分もどうやら疲労が溜まっていたみたいで、意識が朦朧としてくる。


 確かに残っていたのは、幸せという感情だけだった。

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