第72話「風邪」

 動物園デートから

 バイトが終わり、何気なくスマホを眺めていた時だった。

 ちとせからメッセージが届いていたので、倉田は彼女からのメッセージに目をやった。


『晴海がピンチ。

 助けに行ったって』


 何故俺なんだ、という疑問はさておき、頼られているのは嬉しい。

 それが晴海から直接ではないというのは少々癪だが、この際目を瞑ることにした。


 それにしても、ピンチとは何だろう。

 どうせちとせのことだから、誇張しているのではないだろうか?


『どうピンチなんですか』

『なんか風邪ひいたらしくて。

 見舞いに行きたいんやけど生憎仕事でな。

 だからウチの代わりに行ってくれへんか?』


 風邪。

 確かに最近流行っていると聞く。

 一人暮らしで体調不良になってしまったら、きっと心細いだろう。

 倉田自身はそうなったことがないからその不安が想像つかないけれど、身体が弱っている時に誰も助けてくれないと考えると、やはり心配だ。


『すぐに行きます。

 場所、教えてください』

『合点』


 返事の後すぐにちとせから住所のリンクが送られてきた。

 どうやらここが晴海の住んでいる場所らしい。


『とにかく元気づけたって。

 あと、ウチが仕事なんはガチやから』


 別にそれはどうだっていい。

 よし、と息巻いた倉田は、すぐに近くのショッピングモールのスーパーに立ち寄り、雑炊の材料を購入した。


 歩いて5分くらいのところに、彼女が住んでいるマンションがある。

 晴海の家に訪れるのはこれが初めてだ。

 まさか、こんなタイミングで来れるなんて、思ってもみなかった。

 緊張感が止まらない。

 こんなに興奮したのは、クリスマスの時以来だろうか。


 エントランスは自動ドアになっているが、ロックが掛かっていて開けることができない。

 パスワードを入力しなければならないみたいだが、わかるはずもない。

 これは家主に尋ねないとわからなさそうだ。


 倉田はスマホで晴海を呼び出した。


『……はい、西条です』

「もしもし、ハルさんですか? 僕です、ソースケです」

『ふえ? ソースケさん? どうしたんですかあ?』


 電話越しに聞こえる彼女の声は、とても疲れていた。

 これは想像以上に大変そうだと声だけで悟る。


「えっと、安藤さんから、ハルさんが風邪で大変だって聞いて、それで……お見舞いに来ました」


 しばらく電話の向こうは何も聞こえなかった。

 扉も開かない。

 これはやってしまったか、と後悔の念が強くなっていく。

 いくら信頼されているからとはいえ、いきなり自宅に押し掛けるのはさすがに失礼だったかもしれない。

 でも、代わりに見舞いに行ってくれとちとせから頼まれたのだからいいだろうとどこか投げやりになっている倉田自身もいた。


 電話がブツリと途切れる。

 やはり嫌われてしまったのだろう。

 肩を落とし、背を向けたそのタイミングだった。

 ウイーンと無機質な音と主に自動ドアの扉が開く。


 スマホが鳴った。


『えっと……5階の3号室です』


 それだけだった。

 先ほどより随分と具合が悪そうだ。

 まさか、このまま死んでしまうのでは?

 そんな一抹の不安を握りしめながら、倉田はエレベーターに乗り込み、5階へと向かう。


 彼女の部屋の前まで来た。

 ドアを隔てた先に晴海がいる。

 心臓はさらに鼓動を加速させた。


 インターホンを鳴らす。

 ゆっくりとした足音が聞こえてきた。


「……本当に来てくれたんですね」

「まあ、安藤さんに頼まれましたから」


 とりあえず上がりますよ、と倉田は部屋の中に入る。

 自分の家とは違い、綺麗に片付けられていた。

 部屋はシンプルで、しかしどこかしらにピンクだったり水色だったりのアクセントがあって、とても可愛らしい部屋だ。


「病院には行きましたか?」

「はい。インフルではないそうです。薬は……まだ飲んでないです。ちょっとその体力すらないので」


 はあ、はあ、と息を切らしながら晴海はソファに寝っ転がる。

 顔が火照っていて妙に色っぽかったが、今はそんなことを言っている場合ではない。


 体温計がテーブルの上に置かれていたので、無理やりにでも計測させる。

 本当は病院に行く前に測っているだろうが、念のためだ。


「38度……とりあえず安静にしてください。あと、あったかくしてください。自分の部屋、行けますか?」

「はい、なんとか……」


 ゆっくりと晴海は立ち上がる。

 しかし千鳥足だ。

 よくこんな状況で病院まで行けたなと感心してしまう。


 晴海は自室のベッドで横になり、毛布にくるまった。

 その様子を確認した倉田は、そそくさと部屋を出て台所に立つ。

 彼女の家に来た。

 彼女の部屋に入った。

 それはとても興奮する出来事ではあるのだが、今はそんな悦に浸っている場合ではない。


 スマホで料理サイトを開き、雑炊の作り方のページを開く。

 材料の調達もこのサイトを参考にしている。


 買ってきた具材をキッチンに置き、調理を始める。

 下宿先よりも台所が広いので、とても料理がしやすい。


 まず卵を解きほぐし、米を研ぐ。

 鍋に水と調味料を入れて、沸騰してきたところに米を入れる。

 沸騰してきたら弱火にして加熱して、ご飯が柔らかくなったら中火にして卵を回し入れる。

 全体を混ぜて、卵が固まったら火を止める。

 あとは皿に盛り付ければ完成だ。


 意外と簡単にできた。

 これで元気が出てくれたらいいが、随分としんどそうな表情だった。

 だけど食べないと体力は回復しない。

 あまり無理はさせたくないから、本当に辛そうだったら諦めよう。

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