第70話「動物園」

 ひとしきり泣いた彼女は、抱擁を解いてゆっくりと立ち上がる。

 まだドクンドクンと激しく鼓動が脈打つ。


「すみません、取り乱してしまって」

「いえ、僕は全然平気ですけど……僕、来ない方が良かったですか?」

「そんなことないです! 来てくれてとても嬉しかった……だから、二度とそんなこと言わないで」


 どうやら嫌われてはいないみたいだ。

 よかった、とホッと胸を撫でおろす。


「えっと……本当は安藤さんが来る予定だったみたいなんですけど、なんか用事が入って来れなくなったみたいで、それで、代わりに──」

「嘘ですよね」

「え?」


 晴海はじっと倉田を見つめながら問いかけてきた。

 彼女の瞳に詰め寄られると、嘘なんてつけない。


「……嘘って、何がですか?」

「ちとせが来るってことがです。どうせ、最初からあなたをここに来させるつもりだったんです」

「ああ、それは……ご名答ですね」


 鋭い。

 さすが親友、といった感じだろうか。

 少し呆れた顔を見せていた晴海だったが、それでもどこか嬉しそうな表情をしていた。

「でも、会いに来てくれたのがソースケさんで良かった。心配してくれてありがとうございます」

「いえ、そんな……ただ、ハルさんのことが心配だったので、元気づけてあげたいなとは思っていましたから」

「やっぱり、優しいですね」


 晴海はクスリと微笑んで、彼の手を優しく掴んだ。


「今日は一日、ずっと側にいてください」

「えっと……はい、喜んで」


 なんだか照れる。

 けれど悪い気分ではない。

 彼女の気持ちに応えるように、倉田は晴海の手をぎゅっと握り返した。

 手が冷たい。

 指先が冷たい人が心が温かい人、なんて言うけれど、晴海の心が温かいのは指先とは関係ないだろう。


 そんな変なことを考えつつ、倉田は彼女の手を引っ張った。

 行き先なんて特に考えていない。

 どうしようか。


「どこか行きたいところ、ありますか?」

「お任せします」

「ですよねー」


 と言いつつ、ある程度の場所は絞っていた。

 一つは、ショッピングモールでぶらぶらと散策する。

 しかしこれだといつもと大して変わらないし、時間を無駄にする可能性だってある。

 そしてもう一つが、動物園に行く。


 天王寺駅のすぐ隣には動物園があり、そのその近くには休憩スペースもある。

 彼女が動物好きかは不明だけれど、きっと楽しんでくれる、と信じている。


 2人は入場料を支払い、園の中に入る。

 意外と獣臭い感じはしなかった。

 小学校の頃の遠足で動物園に行った時は、あまりの獣臭さに一時動物園に対して嫌悪感を抱いていたのだが。

 街中にある、ということが影響しているのだろうか。


「動物園なんて、何年ぶりでしょうね」

「僕も小学校以来行ったことないです。水族館も、大人になるとあまり行かなくなりますよね」


 晴海が頷く。

 こういう場所に来ること自体が珍しく、大抵家族サービスだったり、デートだったり、何かしらの特別な時であることが多い。

 だから今日は彼女にとって特別な一日になってほしい。

 密かに倉田はそんなことを考えていた。


 順路に沿って2人は園内をぐるりと散策する。

 ライオンやキリンが飼育されているアフリカ・サバンナエリアは、これぞ動物園、と言った具合に多種多様な動物たちがいた。

 一番印象に残ったのはカバだ。

 想像以上に大きくて、ガバッと口を開けるその姿は迫力があった。


「子供の頃、こういう大型動物がとてつもなく大きな怪獣に見えたんです。でも今見ても、想像よりデカいですね」

「そうですね。怪獣ほどではないですけど、やっぱり大きいですね」


 その他のコーナーも見て回った。

 鳥類が主にいるエリア。

 熱帯雨林の動物たちのエリア。

 ペンギンなどがいる水棲動物のエリア。


 特にペンギンに晴海は目がなかった。

 可愛い、と目をキラキラと輝かせ、その様子を倉田はニヤニヤと眺めていた。


「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました……」

「いやいや、お気になさらず。存分に楽しんでください。

「私の方が恥ずかしいんです」


 少し頬を赤く染め、彼女は膨れっ面を浮かべた。

 ムスーっとしている彼女もやっぱり可愛い。

 だんだん晴海に感情が戻っていくようだった。

 彼女の顔がみるみる明るくなっていく。

 その過程を見れただけで倉田の心は満足だ。


 ぐるりと一周回ってきたが、あっという間だった。

 場所は違えど、動物園はもっと広かった印象だが、意外と小さな規模感だった。

 大人になった、ということだろうか。


「どうでした?」

「楽しかったです。とても。ありがとうございました」

「よかったです。また時間もありますし、もう一回回りたいコーナーとか、ありますか?」

「え、連れて行ってくれるんですか?」

「もちろん」


 ぱあっと彼女の表情が明るくなる。


「じゃあ、もう一回ペンギン! ペンギンが見たいです!」


 子供のようにはしゃぐので、倉田はもう一度晴海をペンギンのブースに連れて行った。

 ここではペンギンだけではなくアシカも見ることができ、アシカの泳ぐ姿は少し新鮮に感じた。


 水中でのペンギンは、ヨタヨタと可愛らしく歩くそれと全く別で、まるでロケットのような素早さを持っていた。

 陸でのペンギンは可愛いけれど、水のペンギンはカッコいい。


「ペンギン、お好きなんですね」

「今日ファンになっちゃいました」


 そこからしばらく、晴海はずっとペンギンに夢中になっていた。

 このペンギンブースの他にも、キーウィやレッサーパンダなど、可愛い系の動物はたくさんいたが、その中でペンギンをチョイスするのは少々意外だった。

 別に、何を好きになろうが彼女の勝手なのだけれど。


 でも、今日はここに連れてきて本当によかったと思う。

 彼女が元気になってくれた。

 まだ完全な回復ではないと思うけれど、いつも見せてくれていた笑顔が戻ってきた。

 それだけでも、動物園に来た価値はあると思う。

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