第52話「嫉妬と自己嫌悪」

 会場のホールを出てすぐのベンチにちとせと平野は腰掛けた。

 近くの売店でナゲットが売られていたので、ちとせは2人分のナゲットを購入する。


「おごり。気にせんでええよ」

「あ、ありがとうございます……」


 爪楊枝でナゲットを刺し、口に放り込む。

 出来たてだからとても熱い。

 はふ、はふ、と口の中でナゲットを転がし、胃に流し込む。


「で、晴海のこと嫌いなん?」

「だから、あの人じゃなくて、知り合いが……」

「ウチそういうの嫌いやから。腹の中にあることは全部吐き出せ。せやないと許さん。アンタはウチの親友を侮辱したんや」


 普段の朗らかな声と違い、ドスの効いた声だった。

 ビクッと彼女は肩をすぼめ、恐怖の顔をする。


「……本当に、嫌いとか、そういうんじゃないんです。私、あの人のこと全然知りませんし。でも、いい人なんだろうなっていうのは、なんとなく察しました」

「ええ子やで。ええ子過ぎてちょっと心配になる」

「それ、なんとなくわかるかも」


 少しだけ平野の口端が上がった。

 けれど、目は虚ろのままだった。


 ちとせは平野に質問を続ける。


「それで、晴海のことはどう思ってるん?」

「よくわかりません。でも、あの人のことを考えると心がざわつくんです。どうして倉田さんはあの人を好きになったんだろうって考え出すと、どんどんあの人に対して嫌な気持ちが募っていって……」

「なるほど、嫉妬してんねや」

「そうですね、完全な嫉妬です」


 そっか、と優しく相槌を打ったちとせは、平野の頭を優しく撫で、ぎゅっと彼女を抱きしめた。


「な、なんなんですかいきなり!」


 慌てる平野だったが、それでもちとせは抱擁を止めない。


「ちょっと、ウチの独り言、聞いてくれる?」

「……まあ、いいですけど。それよりこれ外してくれませんか?」

「嫌や。外さん」


 ハグしたまま彼女は話を続けた。

 周囲には売店のスタッフはじめ、何人か人がいる。

 それに今から会場に入ったり、会場を出たりする人にも見られてしまう。

 しかし彼女は抱擁を止めなかった。


「ウチな、兄ちゃんがおってん。兄ちゃん言うてもただの親戚の兄ちゃんやし、歳も10コも離れとったけど、ウチにとって大事な兄ちゃんやったんよ。小学校の頃やったかな。兄ちゃんがウチの絵を褒めてくれてん。それで、ウチは絵の道に進もうって思ったわけ。同時に、その兄ちゃんのことも好きになったんよ。単純やろ?」

「子供みたいな理由ですね」

「実際子供やったからな、あの時」

「で、おった、ということは、今はいないんですか?」

「おるよ。ちゃんと健在や。でもな……」


 一呼吸置いて、ちとせの声が沈む。


「ウチが専門入ったすぐの頃に結婚したんよな。ウチ、兄ちゃんの特別になりたくて絵を描き続けてたのに、その結果がこれやから、今までの努力はなんやったんやろうって虚しくなって。それで絵、専門卒業してからは描かんようなってもうた。もうそん時は全部を恨んだな。兄ちゃんも、その相手も、全部。なんでウチやなかったんやって、毎日毎日恨んだし、妬んだし、呪った。で、結局残ったのは『もっと早うに告白しときゃよかったなあ』っていう後悔だけ。だからめぐっちゃんにはこんな風にはなってほしないんよ」

「……余計なお世話ですよ」


 捨て台詞のような言葉を平野は吐いた。

 しかしぎゅっと、彼女の背中を掴む。

 温かかった。

 今はこの心地よいぬくもりに甘えていたかった。


 この先、自分に残された道は特攻しかない。

 特攻は、すなわち死を意味する。

 玉砕覚悟、とはよく言うけれど、確かに自分の思い通りにならない世界を生きる暗いなら、死んだ方がいいかもしれない。


「安藤さんは、どうやって吹っ切れたんですか?」

「ん? それはなあ、時間が解決してくれる」

「そういうもんですか?」

「そういうもん。まあ人によるわ。ウチは専門卒業する頃には完全に吹っ切れたけどな」

「長い片思いだったのに、引きずったのは随分と短いんですね」

「ウチの場合、絵が兄ちゃんの全てやったから。それをやめたらもうスッキリしたで。彼氏も出来たし。まあすぐ別れたけど」


 多分、初めて好きになったのが小学生の頃だから、まだ恋心がなんたるかをちゃんと理解できていなかったのだと思う。

 それで立ち直るのにそこまで時間を要さなかったのかもしれない。


 自分は……どうだろう。

 ちとせのようにすぐに立ち直れる気がしない。

 きっと長い年月をかけて、それでも完全に心の傷は癒えないだろう。


「長々と話したけど、結局ウチが言いたいのはな、後悔したらあかんよっていうこと。あとはちゃんと晴海に謝ってな」

「わかりました。私も、反射的になってしまったところがあったので、すごく申し訳なく思ってます」

「よろしい。ほな一緒に戻ろか」

「いえ、1人で行けます、大丈夫です」


 ちとせの抱擁から解かれ、平野は1人で会場に戻っていく。

 やれやれ、といった具合に一息ついたちとせは、ぐっと両腕を天に掲げて背を伸ばした。


「ちゃんとお姉さんやってて偉いですね」


 岡の声がしたので、くるりと振り返る。

 いつから聞かれていたんだ。

 別に恥ずかしいことを言ったつもりはないけれど、なんとなく恥ずかしい気分になる。


「どっから聞いてたん?」

「ナゲットおごってたところから」

「ほな全部やな。このこと、晴海やソースケくんには内緒にしてくれる?」

「当たり前でしょ。あんなの、言えるはずもない」


 いつもはふざけるのに、こういうときはちゃんと真面目だ。

 自分の立場をわきまえているから、弄り仲間としてとても信頼を持てる。


「ま、俺としては安藤さん強請るネタ増えたんで満足ですけどね」

「ごめんお願い。ホンマ堪忍して」

「えー、どうしよっかなー」


 やっぱり信用ならない。

 今すぐぶん殴ってすぐそばの海に沈めてやろうか、という殺意がふつふつと沸いてくる。


「冗談です。誰にも言いません」

「よろしい。ほな戻ろか。晴海たち心配しとる」

「そうですね。何事にもなってなければいいけど」


 岡たちは倉田たちのサークルに戻った。

 サークルの前では、平野が晴海に頭を下げている。

 どうやら仲直りは上手くいったみたいだ。


「お疲れ」


 疲弊気味の倉田に岡は声をかける。


「どんな感じ?」

「今和解が成立したところ。俺も頭を下げたし、そもそもハルさん自体そこまで気にしてなさそうだったから、すんなりと済んで良かったよ」

「そうかい」


 どうやら倉田の様子を見る感じだと、なぜ平野が機嫌を悪くしたのか、気づいていないようだ。

 鈍感野郎め。

 こんなので本当に晴海のことを幸せにできるのか?


「ま、俺の知った話じゃねえわな」


 言葉を吐き捨てて、倉田たちを眺めた。

 この先大変だぞ、というアイコンタクトを倉田に送ったが、当の本人は全く気づくことなく、晴海と平野のことばかりに目を向けていた。

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