第49話「いなくならないから」
東京観光は、楽しかったはずなのに、全然記憶に残っていなかった。
やってきたのは浅草で、雷門やスカイツリーを巡った。
食べ歩きをしたり、写真を撮ったり、いろいろなことをやった、ということはなんとなく覚えているけれど、それ以上にあの昨晩のことがまだ尾を引いている。
いなくならないで。
彼女の願いを無下にするわけにはいかない。
それをどういう意図で言ったのかはわからなかったけれど、今は彼女の期待に応えよう。
そればかりを気にして1日過ごしていたら、いつの間にか東京観光は終わってしまっていた。
「手、握っておきましょう。はぐれると大変だから」
自分から言い出せたのは大きな一歩だと倉田は思う。
今までの自分だったら、誘われても断っていたから。
晴海は彼の申し出にコクリと頷き、その後東京観光は食事の時以外はずっと手を繋いでいた。
鮮明に覚えていることといえば、これくらいだ。
気が付けば東京駅から少し離れたところにある、夜行バスのバス停に立っていた。
大阪のバスターミナルと違って、完全なバス停。
大崎ところでもバスの発着や行き先を知らせるモニターがあったというのに、かなり扱いが違う。
しかし人はそれなりに多く、アタッシュケースを持った人たちがずらりと並んでいた。
やはりコミケ帰りの人が多いのか、それとも少し遅めの盆の帰省なのか。
バスがやってきて、倉田たちは乗り込んだ。
あれだけ楽しかった東京遠征のはずなのに、今振り返ってみると案外淡白な終わり方をしている。
昨晩のことがまだ脳裏に焼き付いているからだろうか。
ともかく、この案件は晴海の言う通り忘れた方がいいのかもしれない。
バスは高速道路を進み、海老名SAに停まった。
お手洗いに行くついでに倉田は自販機で飲み物を買う。
ペットボトルの緑茶を選択し、自販機から取り出した。
今日の晴海はいつも通りだった。
だけどあの夜の出来事があってから、どうにも何かを抱えているような気がする。
一度疑ってしまえば、全てが疑わしい。
今まで見せてきたのは、全部気張った演技なのではないか、と。
空を見上げた。
星空をスクリーンに、彼女との思い出がいろいろ蘇ってくる。
初めて出会った日のこと、表紙を描いてくださいと依頼したこと、即売会に会いに来てくれたこと、一緒に神戸まで行ったこと、そして、夏コミ……。
いずれのシーンに映る彼女はあ、とても楽しそうな笑顔をしていた。
お淑やかで、しかし芯があって、でもたまに抜けたところがあって……そういう彼女の全てを好きになったのは、自分なのではないか?
一生をかけて彼女を幸せにしようと決めたのは、他でもない倉田創自身なのではないか?
だったら、一歩を踏み出すしかない。
「ソースケさん」
後ろから晴海の声がした。
振り返ると彼女が、いつもの柔和な笑顔を浮かべて立っている。
「どうされたんですか?」
「いや、ちょっと考え事を……」
「考え事?」
「いや、こっちの話です」
多分誤魔化せてはいない。
薄々察しがついたのか、「そうですか」と」返事をする晴海の声のトーンが少し下がっていた。
いつまでも隠し通せはしないだろう。
晴海も自販機でコーヒーを購入し、倉田の隣に並ぶ。
ほんの少し緊張はしているけれど、深呼吸をし、心を落ち着かせた。
「昨日の、夜のことなんですけど……」
切り出した途端、晴海の表情から笑顔が消えた。
それでも、自分の気持ちを伝えるには進むしかない。
「ハルさんに何があったのかは聞かないです。誰しも、言いたくないことってあるはずだから。でも、これだけは約束します。俺は、絶対ハルさんの前からいなくなったりしません。ハルさんが「いなくなれ」って望まない限り」
だから困ったことがあったらいつでも頼ってほしい。
一塊の大学生ができることなんてたかが知れているけれど、それでも彼女の力になりたいのだ。
晴海は俯いたまま、言葉を紡ぐ。
「忘れてって言ったじゃないですか」
「忘れられるわけないですよ。それに、そんなこと言われなくても、僕は絶対ハルさんを裏切ったりしない。僕だけじゃない。安藤さんやヤスも、絶対味方になってくれる。一人じゃないんです。抱え込まないでください」
コクリと、晴海は黙ったまま頷き、倉田の手を取る。
お互い顔は見られなかった。
じんわり、彼女のぬくもりが掌を通じて伝わってくる。
もうすぐバスの出発時刻なので、倉田たちはバスに乗り込んだ。
座席でも手を繋いだままで、彼女はそのままスヤスヤと眠りについた。
相変わらず倉田は眠れそうにない。
けれど、これで彼女の心の平穏が保てるのなら、寝不足くらいどうということはない。
バスは予定通り途中のSAに停車しながら、朝8時に天王寺へと戻ってきた。
バスから降りた2人は、近鉄の大阪阿部野橋駅とJR天王寺駅を繋ぐ連絡橋に向かう。
「楽しかったです、とても」
「僕も、また頑張ろうって思えました。ありがとうございます」
今回売り上げが良かったのは、彼女と一緒に作った漫画本の影響もあるだろう。
それに、知らない場所で知っている人がいるというのは、それだけでも心強いものがあった。
彼女には、感謝してもしきれない。
だからもし彼女が困っていたら、真っ先に助けてあげたい。
海老名でのあれは、そう思ったが故の行動だ。
これが吉と出たか凶と出たかはわからないけれど、多分大丈夫だと信じたい。
「また、お互い頑張りましょうね」
「はい。また、次の即売会で」
倉田たちは連絡橋で別れた。
手を振り、天王寺駅へ向かう彼女を見送り、晴海の背中が見えなくなるまで彼は手を振り続けた。
さて、頑張るか。
大阪阿部野橋駅の建物内に入った倉田は、近鉄の改札を通り、最寄り駅へ向かう電車に乗る。
冬コミまで4カ月。
その間に即売会はいっぱいある。
もっともっと、彼女と交流を深めていきたい。
そして、彼女を支えたい。
そう改めて思うのだった。
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