第9話「東京という場所」
会計は割り勘で済ませることになった。
本当はハルが「奢ります」と言い出したのだけれど、さすがに出会ったばかりの女性に全額負担させるのは気が引ける。
明細もそこまで差はなかったし、少しハルの分が酒代で高くついたくらいだったこともあり、割り勘で落ち着いた。
店を出て、駅へと戻る。
夕方の時よりも肌寒くなっている。
まだバスが出発するまで時間はあるから、どこかで時間を潰したいところだ。
「この後、どこか予定はあるんですか?」
「特にないですよ。適当に渋谷駅の周辺をぶらぶら歩いて時間を潰します」
「そうなんですね……」
そういえばここは渋谷だ。
いろんな建物が立ち並んでいる。
大崎駅の周辺はビルばかりで娯楽施設はほとんどなかったけれど、この周辺ならウィンドウショッピングするだけで暇を楽しむことができそうだ。
彼女の少し後ろを歩きながら、倉田は渋谷の夜の街を歩く。
正直、ハルのような綺麗な人が渋谷の街を闊歩するのはあまり似つかわしくない。
何もない日だからいいけれど、もしこれがハロウィンだったらどうなっていたのだろう。
きっと、今以上に騒々しい光景が広がっているのだろう。
「東京って、すごいですね……」
「うーん、観光する分にはいい街だと思いますけど、住むのはちょっと憚られますね。私には眩しすぎます」
「そんなことないと思いますけど」
「そんなことありますよ」
含みのある言い方だった。
どういう意図でそんなことを言ったのか、尋ねたかったけれどやめた。
きっと聞かれたくないことだから。
自分の直感がそうだと言っている。
誰にだって、触れられたくない部分はあるものだ。
むやみやたらに詮索する必要なんてない。
それ以上何も言わず、倉田はただフラフラと駅周辺を散策する彼女についていく。
初めての東京、初めての渋谷。
目に映る光景全てが、田舎者である倉田には眩しかった。
けれど、彼女が言いたいのはきっとそういうことではない。
憧れとはまた違う、別の輝き。
大人だな、と倉田は彼女を見て思った。
これが社会経験の差というものだろうか。
けれど、大人になって心が擦り減って、乾いた感性しか持ち合わせていない、なんてことになってしまったら、大人になる意味なんてないだろう。
いろいろ変なことを考えすぎた。
頭を使うのは文章を考えている時だけでいい。
「実を言うと、私、今日でこの即売会を引退しようと思ってたんです」
唐突にハルが口を開く。
衝撃の内容だったので、理解するのに数秒だけ時間を要した。
え、と聞き返すけれど、彼女の表情は何一つ変わっておらず、むしろ清々しささえ感じた。
「辞めちゃうんですか、創作」
「いえ、そうではなく。今まで二次創作を中心にやっていましたけれど、今年からはオリジナルを中心に活動していきたいなって、そう思ったんです」
「オリジナル……」
作家を目指す倉田にとって、それはいずれ訪れなければならない境地だった。
物語を作るのが好きで、創作という世界に片道を踏み入れた。
今は二次創作をしたい、という欲が強いからそちらを優先しているけれど、作家を目指すのならば避けては通れない道だ。
「漫画家、目指すんですか?」
「どうでしょう……そんな大それたものではないですよ。ただの悪あがきです」
悪あがき、という言葉に引っかかる。
けれどその理由を問い詰めたところで、きっと彼女は答えてくれないだろう。
「ソースケさんはどうなんです? 一時創作、チャレンジしてみませんか?」
「そうですね……実はポチポチ進めてはいるんですけど、自信がなくて。今日も散々だったし、オリジナルでやっていけるのかなって」
「万人受けしようなんて、考えなくてもいいと思いますよ。確かに商業を目指すのなら、ニーズや流行に合わせて物語を作るのも大事ですけど、踏み出す一歩くらいはやっぱり自分の好きなものを書かないと。でないと、自分が苦しいだけです」
その言葉にやけに説得力があった。
もしかして実体験だろうか。
会話を重ねていくうちに、彼女の底知れない何かに興味がわく。
「そういう経験、あるんですか?」
「秘密です」
彼女は人差し指を口元に当てた。
そのポーズはほんのりと妖艶で、からかわれているようだった。
しかし嫌な気分にはならない。
むしろ嬉しいまである。
そんな考えがふとよぎった瞬間に、バカだな、と頭の中で自嘲した。
駅に戻り、2人はまた大崎駅に向かった。
もうすぐ楽しかった時間が終わる。
あっという間だった。
まるで夢を見ているかのようだ。
だけどこれは現実で、明日になるとお互い元の日常に戻らなければならない。
また彼女に会えるかもわからない。
残酷な話だ。
大崎駅のバスターミナルには、既に多くの人が待機していた。
おそらく自分たちと同じ大阪行の乗客だろう。
バスが到着するまで、2人の間に会話はなかった。
気まずい雰囲気が流れているわけではないけれど、なんとなく話しかけづらい。
そもそも話す話題もなくなってしまった。
胸の内にあるのは、彼女に対する憧れと、この時間を終わらせたくないという漠然とした焦り。
バスが到着した。
本当に終わるんだ、と少し絶望感に打ちひしがれた後、倉田は乗務員に電子チケットを見せ、自分の席に座る。
その隣に、ハルも座った。
「すごい偶然ですね。帰りのバスまで隣同士なんて」
「どんな確率なんでしょう」
「きっと天文学的数字ですよ。何百億分の一、いや、何千億かもしれません」
うふふ、と彼女は面白そうに微笑んだ。
何が面白いのかいまいちピンとこなかったけれど、それはそれとして子供のように笑う彼女も可愛かった。
バスが発車する。
出発してすぐに車内の電気が消えた。
「私、もう寝ますね。おやすみなさい」
「あ、はい、おやすみなさい……」
そう言って間もなく、彼女はすうすうと寝息を立てた。
行きの時も思ったが、こんな環境でなぜこんなにあっさりと寝れるのだろうか。
不思議で仕方がなかった。
しかし、暗がりでよくわからないけれど、やはり彼女は美人だ。
しばらく心臓の鼓動は収まりそうにない。
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