第2話「隣のあの人」
どうも、と倉田は彼女に声をかける。
ベージュのコートにネイビーな感じのロングスカート。
立っているだけでどこか儚げがある。
色合いは地味だったが、着ている本人のスタイルがよく、さらに顔も良いためそんなものは些細な問題だった。
身長がとても高かった。
倉田自身の身長は160cmほどしかないから、推定でも170cmはあろう彼女の体躯はとても羨ましい。
やはり身長があるとその分スタイルがよくなるのだろうか、と思ってしまう。
彼女もどうも、と返し、優しく微笑む。
穏やかな笑顔だった。
胸の奥が何かに射抜かれる。
遠目から見ても美人だった。
こんなにも美人な人は見たことがない。
ドリンクを選ぶフリをして、倉田は自販機の隣でコーヒーを飲む彼女を眺める。
気が付けば、指は自然と彼女が持っているクラフトコーヒーと同じものを選んでいた。
缶のタイプではなくてよかった、という言葉は心のうちに留めておく。
彼女がいる方とは反対側に行き、一口コーヒーを飲む。
いつもは水かお茶しか飲まないけれど、たまにはこういうのも悪くない。
コーヒーと呼ぶよりもカフェオレの方が近い。
ふと、空を見上げた。
綺麗な夜空だ。
少しだけ心が洗われる。
隣の彼女も同じように白い息を吐きながら夜空を眺めていた。
横顔も様になっている。
見れば見るほど綺麗な人だった。
肌も真っ白で、目鼻立ちも整っている。
まるでモデルか女優のようで、しかし芸能人のようなオーラはどこにもなかった。
それゆえにどこか親近感を感じる。
もう一口のんで、倉田はトイレに向かった。
用を足し、バスの席に戻ると、さっきまで自販機にいた彼女がすでに席に座っている。
倉田の方に気づくと、すみません、と会釈をしながら立ち上がり、窓席である彼に譲る。
「どうぞ、お通りください」
「ありがとうございます……」
律義な人だ、と思いながら、倉田は自分の席に座った。
またふんわりといい匂いがする。
過剰に反応しすぎだ、と自分の中の煩悩に釘を刺し、倉田は目を瞑った。
眠れないのはわかっているが、今は思考を停止させておきたかった。
バスが再び発進する。
明るかった車内の照明が再び消え、ポツリポツリと各々のスマホの明かりが目立った。
長い長い夜だ。
いつもは何か作業をしているから、何もせずに座ったままというのは本当に退屈で仕方がない。
かといってスマホを触るのも目に悪そうだし、本を読もうにも真っ暗だから手元すら何も見えないし、そもそも持ち合わせすら用意していなかった。
隣の彼女は相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
どうしてこんな環境で普通に眠れるのか理解できなかった。
次の停車場所である浜松SAまで2時間と少々。
特に降りる用事もなかったのだが、ずっと座りっぱなしだと足が凝ってしまう。
外はやはり寒かった。
しかし車内はむしろ暖かすぎるくらいだから、この冷たい空気が少し恋しく感じる。
適当にフラフラと歩き、屈伸をするだけで、全身に血液が巡りわたっていくような気がした。
「あの人は……いないな」
彼女も外に出るところは目視していた。
しかしどこに行ったのかまではわからない。
周辺を見渡してみたけれど、彼女の姿はどこにもなかった。
まあいいか、と残っていたクラフトコーヒーを口にする。
購入したての時よりぬるくなっているけれど、まだ美味しかった。
座席に戻ると、彼女がいた。
どおりで見つからなかったわけだ。
すみません、と会釈をし、倉田は自分の席に座った。
未だに一睡もできていない。
それは慣れない夜行バスのせいということもあるけれど、隣にこんな綺麗な人がいたら緊張で眠ることなんてできない。
わかっている。
この時間が長くは続かないことなんて。
でもせめて、大崎に着くまでは、この幸せを噛みしめていたい。
バスは再び出発する。
次に泊まるのは海老名SAで、そこを出るともう目的地に到着だ。
相変わらず彼女はスヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
この姿を写真に収めて何度でも見返したいと思っていたが、さすがにそんなことはできない。
いつもより心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
目を瞑ったけれど、案の定睡魔がやってくることはなかった。
チラリとカーテンから窓の外を眺めた。
まだ真っ暗で何も見えない。
遠出するときはこうして外を眺めるのが好きなのだが、それができないとなると余計につまらなく感じる。
そもそも高速用のガードレールのせいで景色なんて見れたものではないけれど。
海老名SAに到着し、倉田は再びバスを降りた。
草津で買ったコーヒーはもう飲み干してしまった。
眠れないのはこいつに含まれているカフェインのせいかもしれない、と気づいたのはペットボトルが空になってからのことだ。
知らない土地に立つだけで、冒険している気分になる。
だけど今回の場合、それはあの綺麗な人との別れも意味する。
もっと一緒にいたかったけれど、これと言って話す話題なんてない。
接点なんてない、赤の他人同士。
大阪に帰ったら、彼女のことは綺麗さっぱり忘れよう。
いや、いい体験をした、という程度なら心のうちに留めておいた方がいいかもしれない。
自販機でミネラルウォーターを購入し、再びバスに乗り込む。
今度は彼女はいなかった。
また用事でも済ませているのだろう、なんて思いながら倉田はミネラルウォーターを一口飲む。
向こうでは売店があるかどうかわからないから、水分は大切にしておきたい。
少しして彼女が戻ってきた。
会釈をし、席に座る。
背は女性にしては高い方だが、なんだか小動物を見ているみたいで微笑ましかった。
そしてバスがまた動き出す。
今度こそ本当に彼女とお別れだ。
滅多にない経験をさせてもらった。
それだけでも神様に感謝するべきなのではないだろうか。
ふと、隣の席の彼女を見る。
彼女も彼女で幸せそうだった。
異性である自分と相席になっても嫌な顔を見せない。
単純に我慢しているだけなのかもしれないけれど、だとしても少し嬉しかった。
大阪を出発しておよそ9時間が経過した朝の7時過ぎ、バスはようやく大崎駅に到着した。
窓の外はまだ薄暗く、もうすぐ太陽が空を支配しようとしているところだった。
もう、彼女とは会えない。
そんな寂寥感を募らせながら、倉田はバスを降り、バス停からりんかい線へと向かう。
しかしそんな彼の隣を、また彼女はつかつかと歩いていた。
彼女も、大崎駅に向かって足を進めていた。
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