第49話「目くるめく日々」
本番の日までは早かった。
カレンダーを確認するといつの間にか8月になっており、明日は遂にミニステージの日だ。
お互い仕事で忙しくて練習時間はそこまで取れなかったけれど、明日香の飲み込みが良いおかげで少しの練習量でも細かいところまで詰めて曲を仕上げることができた。
「早いなあ」
ポツリと呟き、クーラーの効いた部屋でタオルケットにくるむ。
まだ夜中の11時だけど、明日は朝早いから早めに寝るとしよう。
部屋の電気を消し、眠りにつこうとしたその瞬間、コンコン、と部屋のドアをノックする音が聞こえた。
どうぞ、と声をかけると、ゆっくりと扉が開き、パジャマ姿の明日香がこちらに顔を覗かせる。
「どうしたの?」
「ちょっと、眠れなくて」
いつもはこの時間には既に眠りについている明日香がこの時間まで起きているのは珍しい。
いくら明日香とはいえ、久しぶりの本番に緊張しているのだろう。
クイクイ、と手招きをし、壁の方に身を寄せた。
シングルベッドだから狭いけれど、明日香と一緒に寝る分のスペースはそれなりにある。
「気負わなくていいよ。賞レースじゃないんだから」
「うん…………」
暗闇の中の明日香はまだ不安そうな表情だった。
高校時代にも似たようなことがあったな。
本番前に明日香が家に泊まりに来て、彼女は肩肘を張ってガチガチに緊張していた。
その時あたしは緊張を解きほぐそうと、よしよしと明日香の頭を撫でてたっけ。
そう、今みたいに。
「大丈夫、あたしたちならいい演奏ができる。あたしが言うんだから間違いないよ」
「うふふふ、明日香、これでもプロだもんね」
「これでもは余計」
び、と明日香の両頬をつねる。
ちょっとムカついたからこれくらいやってもいいだろう。
「はい、寝るよ」
「はーい」
いつもの朗らかな明日香の声だ。
これなら明日も大丈夫だろう。
翌日の朝はスマホのアラーム音で目が覚めた。
時刻は7時。
いつもならまだ寝ている時間だけれど、今日ばかりはそうもいかない。
明日香は既に着替えを済ませており、昨日買った朝食用のクリームパンを口にしていた。
「あ、おはよう、佳音」
「ああ、うん、おはよう」
朝は苦手だ。
まだ眠い目をこすりながらあたしも着替えを済ませ、ジャムパンを咥えながら身支度を整える。
最悪人間と楽器さえあればいい。
「よし、行こっか」
支度も済んだのであたしたちは家を出た。
不思議と会場に向かうまで会話はなかった。
あたしもひょっとしたら無意識のうちに緊張してしまっているのかもしれない。
舞台にはもう慣れたはずなんだけどな。
大体1時間弱だろうか。
駅を何度も乗り換えたりしながらあたしたちは目的地のショッピングモールへとやってきた。
店の前まで着いたら母さんが案内する、と言っていたけれど、今のところ母さんの姿はない。
「あ、あれじゃない?」
明日香は自動ドアの方向を指差す。
店の中からスーツを纏った長身の女性がやってきた。
あの堂々とした立ち振る舞い、完全に母さんだ。
「久しぶりじゃないか佳音。それに明日香ちゃんも。元気にしてたか?」
「はい。佳音のおかげで」
「そりゃよかった。早速案内するから着いておいで」
母さんはつかつかと店の中に消えていった。
あたしたちも母さんを見失わないように追いかける。
母さんは結構早足で歩くタイプなので、見失わずに追いかけるのが大変だった。
連れてこられたのは舞台裏の設営テントだ。
ここが出演者たちの楽屋になる。
あたしたちが小さい頃からずっとそうだった。
「懐かしいなー。全然変わってない。ね、明日香」
明日香の方を向くと、少し顔が強ばっていた。
昨日の夜よりもずっと緊張しているな。
明日香のギターと歌声は誰に誇ってもいいものだからもっと気楽に構えてもいいのだけれど。
「大丈夫?」
返事はない。
完全に場の空気に飲みこまれている。
顔は青ざめ、ふう、ふう、と呼吸が激しい。
あたしは明日香の前に立ち、彼女の手を握る。
「大丈夫。あたしたちちゃんと練習してきたんだし、いつも通りやればできるよ」
「でも」
「失敗してもいいじゃん。死ぬ訳じゃないんだから」
極論過ぎただろうか。
なかなかいい言葉が思い浮かばない。
仕方がない、最終兵器を使うしかない。
あたしは明日香をぎゅっと抱きしめた。
まだ人が誰もいなくて助かった。
もしここに誰かがいたら恥ずかしくて死にたくなる。
ハグのおかげか、明日香の呼吸は段々落ち着きを取り戻していった。
表情にもいつもの無邪気な笑顔が戻った。
「ありがと、なんか行ける気がする」
「そりゃよかった」
今度は明日香の方がぎゅっと抱きしめてくる。
ハグの時間でたまに出てくる甘えたがりモードだ。
よしよし、とあたしは明日香の頭を撫でると彼女ははえへへ、とスライムみたいにふにゃふにゃとした口を浮かべていた。
ハグを解いた瞬間、他の出演者もぞくぞくとやってきた。
よろしくお願いします、とそれぞれに挨拶をし、ステージが始まるのを舞台裏から待った。
ステージ開始の時間になり、MCの母さんがマイクを持って壇上に上がる。
いつもとは違い少しだけ麗しく見えた。
「もうすぐだね」
「うん」
それぞれの出演者の演奏を傍から聴きながら、あたしたちは自分たちの出番を待った。
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