第41話「転機と動揺」

 その時は突然訪れた。


「──うん、わかった。明日香に相談してみる」


 同棲してからおおよそ1ヶ月が過ぎたとある日、母さんからの電話を切ったあたしは明日香の部屋の扉をノックする。


「明日香、入るよ」


 部屋に入ると、明日香は洗濯物を畳んでいるようだった。

 何? と問いかけるその表情は、どこか曇っているように見える。

 一体何か問題でも抱えているのか、という不安をよそに、あたしは先程までの母さんとの会話を伝言した。


「明日香はさ、うちの音楽教室のミニコンサート、覚えてる?」

「ミニコンサートって、8月に地元でやってたアレ?」

「そう。それに2人で出ないかって母さんからオファーを受けててさ」


 母さんが招待したイベントは、うちの音楽教室が主催している小さなコンサートだ。

 地元のショッピングモールのミニステージで開かれており、あたしも明日香も幼少期に何度か出演したことがある。


 あたしの言葉に、明日香はさらに顔を歪ませた。


「2人でって、どういうこと?」

「ほら、ギター。高校の時にやったじゃん。あれをやってほしいって言われたんだ」

「なるほど……でも、全然触ってないから、弾けるかな」

「大丈夫。あたしがちゃんと面倒見てあげるから」


 それでも明日香の表情はまだ暗かった。

 思えば、ここ最近は何か思い詰めている様子だった。

 やはりこの同棲生活に嫌気がさしてしまったのだろうか。


「……明日香、どうしたの? 浮かない顔して」

「え? そう? そんな顔してた?」

「うん。何か悩み事? あたしで良かったら相談に乗るよ?」


 相談か……と呟いて、明日香はしばらく口を閉ざす。

 そして数分が経ち、明日香は重たい口を開いた。


「私、働こうかなって思う」


 その告白に、脳天が揺れるほどではなかったけれど、それでも2、3秒くらいはフリーズしてしまうくらいには動揺した。


「今、なんて言った?」

「だから私、働きたい」


 ああ……と言葉にならない声を発することしかできなかった。

 明日香と一緒に住み始めてから1ヶ月近く、極貧生活は依然として続いている。

 むしろ以前よりも悪化した。


 それもそのはず、前に住んでいたところよりも家賃は高くなり、おまけにもう一人を養わなければならない。

 今は貯金も使いながらなんとかしているけれど、それでもいつか限界が来てしまう。

 だから明日香が働けば少しはマシになるかもしれないが、それはあまり気が乗らなかった。

 できればしばらくは休養してください、と医師に言われたのであまり無理をさせたくない。


「……なんで?」

「このままここでお世話になりっぱなしなのも嫌だから、せめて何か恩返しがしたいなって思って」


 お世話になりっぱなしなのはむしろこっちの方だ。

 家事は基本当番制なのだが、バイトやサポートなどで家にいる時間が少ないから、結局明日香がほぼ全てやっている。

 だから明日香をあたしの家政婦状態にしてしまっていることに申し訳なさすら感じていた。


「むしろこっちが恩返ししたいよ。明日香には家のこと任せっきりだから。でもまだ無理をさせたくない」

「だけど……」


 明日香は何かを言いかけたけど、下唇を噛んで、それ以上は言わなかった。


「……ごめん、なんでもない」


 空気がどんよりと重くなる。

 一気に以後ことに悪い空気が流れた。


「…………とりあえず、母さんのオファーはひとまず保留だね」

「ごめん」

「謝らなくていいよ。一緒に相談していこう」


 口ではそういったけど、腹の内ではどうやったら明日香を説得できるか、という思惑が巡っていた。

 入院していた時と比べると、明日香は随分と明るくなった。

 だけど精神を患った人は簡単に治らないと聞く。

 もし明日香が仕事を始めて、それでまた精神を病んでしまったら……杞憂だと信じたいけれど、どうにも信用できない自分がいる。


 明日香は俯き、再び洗濯物を畳む動作を行う。

 

「ちょっと外行ってくる」


 あたしは逃げるように部屋を出た。

 今は、一緒に空間に居たくない。

 玄関を閉じる音が、いつもよりも大きく聞こえた。


 夜の公園というのはいつもと違う感じがする。

 ワンルーム時代もたまに外を出歩いて気分転換を行うことがあった。

 あの時の夜の街はあたしを歓迎してくれているようだったけれど、今は逆に排斥しとうとするような圧を感じる。


 公園のベンチに座り、電子タバコを吸う。

 体の中をリセットするように、吸って、吐いた。

 だけど何も変わらない。

 ただモヤモヤとした感情が体の中に溜まっていく。


 空を見上げた。

 今日は1日中曇り空で、星の輝きは何一つとして見えなかった。

 無論、月の光も地上には届いていない。


「いきなりそんなこと言われても、わかんないよ……」


 重い腰を上げ、家に戻る。

 玄関を開けると、明日香は悲し気な笑顔を浮かべて出迎えてくれていた。

 その笑顔が自己防衛による偽りの仮面だということくらいあたしだって感じている。

 これじゃあ入院時代と同じじゃないか。


「もう夜も遅いし、お風呂入って寝よっか」

「そう、だね……」


 明日香の一挙手一投足から、彼女らしい無邪気さが消えてしまっていた。

 ごめんなさい、と明日香に聞こえないように呟いて、あたしは自室に戻った。

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