第33話「辞める時」
「……ということで、引っ越すことになりました」
数日経ち、あたしは野島さんに引っ越しの報告をした。
野島さんは「わかった」と言って雇用契約書を渡す。
「変更点だけでいいから、新しい住所書いておいてね」
「はい……」
「あと、引っ越しの日いつか決まってる? もし何も決まっていないのなら、いろいろ手伝うけど」
「ホントですか?」
少しだけ声が上ずった。
この時期に引っ越し業者に頼むととんでもなく高くつくから、安く済むのならそうしたい。
けれど、野島さんにはいつもお世話になりっぱなしだから、バイトと関係ないところでお世話になるわけにはいかない。
「……対価は?」
「あはははは、そんなのいいよ、気にしなくて。きっと引っ越し費用で苦労するだろうから、少しでも手伝いたいなって思っただけ」
「野島さん……」
泣きそうなのをグッと堪え、深々と頭を下げた。
この恩は絶対返す。
早速あたしは引っ越し予定日を伝えた。
契約日は4月1日からになっている。
不動産「なるべく早くお願いします」と無理させてしまったことは今でも申し訳ない。
「わかった。その日、手伝えるように調整しておくよ」
「助かります」
ペコリと再び頭を下げると、レジを終えた萩本さんがこちらに顔を覗かせていた。
「宮村さん、引っ越すんですか?」
「はい。でもここからちょっと離れるくらいで、バイトはまだまだ続けますよ」
「なんだ、そうなんですね、てっきり私、宮本さんがここを辞めるのかと」
「そんな、辞めませんよ。収入なくなっちゃうんで」
自分で言っていて悲しくなった。
あたしがこのバイトを辞める時、それはあたしがアーティストだけで食べていけるようになった時だ。
現状サポートはALTAIRだけだし、路上ライブも鳴かず飛ばず。
もう5年にもなるけれど、未だに花が咲くのかわからない。
また惨めな沼に身体が沈んでいく。
パチン、と両頬を叩き、気を紛らわせた。
「さ、仕事仕事」
無理に口角を上げ、あたしはレジに立つ。
しかししばらくは誰も店に来なかった。
そこそこ人通りのある道に構えたコンビニなのだが、ここまで閑古鳥が鳴いているのも珍しい。
「宮本さん」
「なんですか?」
「……いいえ、なんでもないです」
商品の補充をしていたところ、萩本さんが後ろから声をかける。
その表情は少し歪だったけれど、あたしは何も言わないことにした。
なんとなく、言いたいことが伝わってしまったから。
「引っ越し、4月1日にするんですか?」
「まだ予定ですけどね。できればそうしたいなって。丁度バイトも休みですし」
「なら私も手伝います。私も休みでしたので」
「え」
野島さんに続けて萩本さんまで手伝ってくれるなんて。
嬉しい気持ちの反面、申し訳なさもある。
その優しさが心にズキズキと突き刺さり、しっかりしないとな、と背筋が伸びる。
「いいんですか?」
「はい。人手は多い方がいいですから」
「あの……その……すみませんご迷惑ばかり」
「ふふ、迷惑だなんて思ってないですよ。それにこういう時は、謝るんじゃなくて、ありがとう、です」
「そう…………ですね。ありがとうございます、萩本さん」
ふふ、と女神のような笑みが萩本さんからこぼれた。
それと同時に自動ドアが開く音が耳に伝わってくる。
5年も勤めているから、いらっしゃいませ、と自然と声が出てしまう。
「さ、仕事しましょう」
「はい」
そこからまたお店は活気を取り戻した。
さっきまでの閑古鳥は一体何だったんだろうと思うくらい、わんさかと人が行ったり来たりする。
しばらくは暇にならなさそうだ。
夕方になり、萩本さんが帰宅し、代わりに芳賀くんがシフトに入る。
相変わらず冷たい目をこちらに向け、芳賀くんは商品の補充に回った。
「そうだ芳賀くん、来月の1日、あたし、引っ越すんだけど、手伝いに来てくれないかな」
「行くわけないでしょ」
予想通りの反応だった。
そりゃそうだろう、なんて思いながらタバコを後ろの棚に陳列していく。
いつもならここで会話が終わるのに、今日は少しだけ違った。
「それに、1日と2日は用事があるので、どの道無理です」
「用事って?」
「宮村さんに関係あります? それ」
「ないですけど……」
ギロリと鋭い眼光を放たれ、何も言えなくなった。
他人のプライベートに首を突っ込むべきではない。
「ごめん」
それだけ呟いて、また業務に戻る。
芳賀くんは何も言わずに黙々と自分の仕事をこなしていた。
あたしのシフトも終わり、自宅に帰る。
この道も、この家とももうすぐお別れか、と思うとなんだか寂しい気持ちになってしまう。
最初は「いつか絶対有名になって引っ越してやる」と息巻いていたのに、本当に引っ越すまで5年もかかってしまった。
「これからどうなるんだろう、あたし」
ポツリと夜空に不安を呟いてみた。
しんとした無音が、逆に「どうにもならない」と言っているようだった。
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