第3章
第32話「Happy Birthday」
3月18日、明日香の誕生日。
この日は明日香の退院日でもある。
ありがとうございました、とご両親は担当医の先生に深々と頭を下げていた。
明日香もとても元気そうに笑顔を見せている。
「あ、佳音だ! おーい、やっほー!」
あたしに気付いた明日香は、無邪気な笑みを振りまきながらこちらにやってくる。
その笑顔を見るだけであたしも口元が綻んでしまう。
「あれ、どうしたのその手荷物」
「今日退院だし、誕生日でしょ? だからお祝い」
はい、とあたしは小箱を渡す。
中に入っているのは3人分のショートケーキだ。
さすがにホールケーキを買う余裕なんてなかったし、そもそもホールケーキを買ったところでこの3人が食べきれるわけがない。
ささやかな誕生日プレゼントだけど、どうか受け取ってほしい。
「ありがとう! 帰ったら一緒に食べよう?」
「一緒に?」
「うん! 佳音も一緒に」
「あたしはこの後バイトだから無理だよ」
地元までは車でおおよそ1時間ほどの距離だ。
日帰りで行けないこともないけれど、スケジュール的に厳しい。
目の前の明日香はしゅんと肩をすぼめた。
まるで大型犬だ。
一緒に住もう、と持ち掛けてから、明日香の感情の起伏が以前と比べて目に見えるようになった。
高校時代までにも喜んだり落ち込んだり、そういう感情の変化はあったけれど、ここまで起伏が顕著だった記憶はない。
これが本来の明日香なのかな、なんて思いながら彼女を優しく宥める。
「夜、ちゃんと電話するから」
「本当? 約束だよ!」
えへへ、と明日香は口元を緩めながらご両親のところに戻っていった。
なんだか身体の大きな小学生みたいだな。
見ているこっちまで笑顔が伝染してきた。
じゃああたし行くね、と明日香に声をかけ、この場を去る。
それに応じてご両親もペコリと頭を下げた。
弥栄子さんがあたしに柔らかい申し訳なさげな笑みを浮かべている様子を見るに、彼女とも和解できたのだろうか。
そうだったら、嬉しいな。
あんなに憂鬱だった電車もいつの間にか全然苦ではなくなっていた。
むしろ、もう病院に通えないことに寂しさを感じる。
お財布的にはこれ以上出費がかさまなくて嬉しいけれど、しばらくは明日香と言葉を交わせないと思うとやはり寂しい気持ちが勝る。
でもこれからはずっと一緒だ。
家族の前であんな宣言をしてしまったのだから、その責任は取らねばなるまい。
「さて」
窓辺を眺めながら物思いに耽るのもやめ、あたしはスマホを取り出して次の物件を探す。
4畳半のワンルームに2人が住むのはさすがにスペース的に厳しい。
だから今以上に広い部屋を探さなければならないのだけれど……必然的にワンルームを卒業しなければならないのがネックだ。
ご両親の承諾を得てから、何度か不動産と掛け合ってみたけれど、やはり2人暮らしとなるとワンルームでは難しいそうだ。
むしろ、同棲目的でワンルームを貸し出す業者がほとんどいない。
そこで紹介されたのが1LDKのマンションなのだが……やはりどれだけ安くても今のボロアパートの倍は家賃がかかる。
むしろ今の家賃が安すぎるのであって、2人暮らしということを考えると、これが相場なのだろう。
しばらくは貯金でなんとかするとしても、近い将来いずれ底をついてしまう。
とはいえすぐにあすかを働かせるのは……やはり気が引ける。
しかし、背に腹は代えられない。
家賃や交通の利便性などを考慮し、キープしていた物件をいくつか検索する。
しかし今が引っ越しシーズンの最中ということもあり、大体の物件は既に契約済になってしまっていた。
あたしが早く決めなかったばっかりに、こんなことになってしまっている。
焦る気持ちの中、次から次へと物件を探していく。
あれだけ見栄を張ったのに、このザマではご両親に顔向けできない。
「覚悟、決めたんだよなあ」
さんざん悩んだ挙句、今住んでいる場所からそう遠くないマンションを選んだ。
えり好みしている暇なんてない。
すぐに物件のお問い合わせボタンを押し、スマホを閉じて一息つく。
これは、明日香への誕生日プレゼントということになるんだろうか。
だとしたら相当重い女になりそうだな、あたし。
少し自己嫌悪に浸るも、またバチンと両頬を叩く。
いまさらそんなことを言ったってしょうがない。
誓ったんだ、幸せにするって。
だから、このくらいの出費、今までの明日香の不幸と比べたら安いものだ。
その日のバイトはいつも以上に張り切った。
だからと言って給料が上がるわけでないけれど、仕事に俄然気合が入る。
これが守るものができた人間の姿なのだろうか。
バイトも終わり、あたしはすぐに明日香に電話をかけた。
電話の向こうから聞こえる明日香の声はとても嬉々としていて、あの日の電話とは全くの正反対だった。
「あ、そうだ。明日香、お誕生日おめでとう。まだちゃんと祝えてなかったよね、ごめん」
「ううん、全然。それに、ケーキ、とっても美味しかったよ。ありがとう」
顔なんて見えていないけれど、満面の笑みを浮かべる明日香の姿が想像につく。
喜んでくれてよかった。
ふふ、と笑みがこぼれ、また他愛もない話を続けた。
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