第30話「笑顔」

 翌日、あたしは戦場である明日香の病室に向かった。

 昨日ほどの緊張感はない。


 すう、はあ、と息を整え、胸を張って病室に入る。

 やはり明日香のご両親が先に到着していた。

 こんにちは、と挨拶をし、相手の動向を窺う。


 2人ともあたしをじっと見つめてくる。

 神妙な面持ちで感情が読めないから一気に緊張感のボルテージが上がった。

 全面反対、というオーラはなかったけれど、簡単にOKをもらえる空気でもない。


「答えは出ましたか?」


 弥栄子さんは口を開く。

 あたしだってまだ不安だ。

 この選択が本当にベストなのかなんてわからない。


 だけどもう迷うのは終わりにしよう。

 あたしは間違っていないと信じたい。


「私は、明日香が思っているような立派な人間じゃないです。ですが、ご両親と同じくらい、明日香のことを大事にしていると自負しています。絶対傷つけたり苦しませたりなんか絶対させません。だから、この先も明日香と一緒にいることを許してくれませんでしょうか」


 お願いします、とあたしは頭を下げた。

 下げて気付いた。

 これ、プロポーズになっていないだろうか?


 人生の中で一番恥ずかしい瞬間を挙げるなら今だ。

 もうどんな顔をしていいのかわからない。

 赤くなった頬を隠すように、あたしは首を垂らし続けた。


「……顔、上げてください」


 弥栄子さんに促されたけれどまだ恥ずかしさが勝る。

 しかし昨日みたいに刃向かう勇気も理由もなかった。

 ゆっくりあたしは顔を上げ、二人の顔を窺う。なんというか、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


「明日香には随分と苦労をさせました。最初は、あなたのような人に明日香を任せるのはどうかと思ったのですが……明日香は私たちよりもあなたと一緒にいることを望んでいる。きっと、その方が明日香にとっていいことなのでしょう。だから宮村さん、明日香のこと、よろしくお願いします」


 深々と弥栄子さんは頭を下げる。

 あれだけヒステリックになっていた彼女がここまで丸くなるのか、と少し驚いた。


「昨日あの後家族3人で話し合ったんだ。どうするのが明日香にとって一番幸せなのか。答えは明日香の顔を見たらすぐに出たよ。妻もそれを理解してくれた。だからどうか、明日香をよろしく頼む」


 続けて雄一郎さんも頭を下げた。

 想像以上にあっさりと物事が進み過ぎていて、少し困惑している。

 昨日みたいに戦う気満々だったから拍子抜けだ。


「佳音」


 ベッドの上の彼女は、ツーッと頬に細い箒星を描いて笑っていた。


「私からもお願いします」


 両親と同じように明日香は頭を下げた。

 こんな時、どんな風にしてやり過ごせばいいのかわからない。

 だからまたしてもあたしはトンチキな答えを導き出してしまった。


「あの、あたしは、まだまだ未熟で、これから先明日香やご家族に苦労や心労をおかけするかもしれないけれど、でも、明日香は、あたしが責任もって幸せに……」

「佳音、それって……」

「……! なんでもない! なんでもないから、今のは忘れて」


 明日香に指摘され、恥ずかしさが一気にオーバーフローする。

 顔から火が出るようだ。

 いっそのこと誰かあたしを殺してくれ。


「まるで結婚前の挨拶だね」


 ニヤリと明日香に笑われて、恥ずかしさの度合いが過去最高を更新した。

 ペタン、と床に膝をつき、顔を覆う。

 恥ずかしくて死にそうだ。

 いっそのこと誰か殺してくれ。


「け、結婚はまだ認めませんからね」

「はいはい」


 弥栄子さんの声がちょっと震えていた。

 あたしより動揺してどうする。

 昨日の威厳はどこへ行った。


「宮村佳音さん」

「はい!」


 弥栄子さんにフルネームを呼ばれて、瞬時に背筋が伸びる。

 金縛りにあったように、ピンと背中が硬直して動かない。


「明日香にもしものことがあったら、許しませんからね」


 それは、彼女なりの許しの言葉なのだとあたしは解釈した。


「……は、はい!」


 彼女も明日香を思う気持ちは誰にも負けていないのだろう。

 ただ、ちょっと抑圧がすぎるだけで、その根底では明日香の幸せを誰よりも願っている。

 その証拠に、明日香を見る弥栄子さんの目はとても優しくて、うちの母さんの目と似ていた。


「退院して1週間は家でゆっくりしなさい。それから様子を見て、大丈夫そうだったら好きにしていい。それでいいな、明日香」

「うん」


 父親からの言葉に明日香は嬉しそうに返事をした。

 まるで幼子のように無邪気で、明るい顔だ。

 やっと明日香に本物の笑顔が灯ったような気がする。


 何はともあれ同棲の許可を貰えた。

 一気に肩の力が抜ける。

 ほっと胸を撫で下ろし、あたしは明日香たちの家族を眺めた。

 眩しくて、あったかくて、幸せそうだった。

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