第26話「足枷」
翌日の寝覚めは最悪だった。
疲れは取れないし、何かが憑りついているかのように体が重い。
本当は明日香の待つ病院に行きたくないが、行かなければ前に進まない。
とはいえいざ病室前まで辿り着くと、空気感がまるで違う。
扉越しから圧迫感で押し潰されそうだ。
ゴクリと固唾を呑み、ゆっくりノックする。
「失礼します……」
扉を開けると、静電気とは違うピリついた雰囲気が肌を刺激する。
病室の空気は、2月の外の寒さよりも一層厳しい。
その冷気は先に到着していた明日香の両親からによるものだということはすぐに理解できた。
「座りなさい」
弥栄子さんの言葉が場を支配する。
はい、と返す余裕さえなく、明日香から少し離れた位置にあった椅子に腰かけた。
明日香心配そうな目でベッドから体を起こしてあたしを見ていて、ご両親は明日香を守るように立ち尽くす。
これだけでも圧迫感がすさまじい。
「昨日明日香からいろいろ伺いました。一緒に住む、という話が出たそうだけど」
「はい……」
彼女が敬語になる時は大抵攻撃モードだ。
表情全体もそうだが、目が笑っていないのが何よりの証拠である。
淡々とした感じで勧めるので本当に怖い。
「結論から申し上げますと、私は認めません」
まあ、そりゃそうだろう。
あたしは収入が不安定で、誰かを養える力なんてない。
そんな人間の元に大事な一人娘を預けるなんて不安で仕方がないだろう。
わかってはいるけれど、他人から改めて言われるとやはり心に来るものがある。
「これは私たちの問題です。よその人間が勝手に他人の家庭に踏み込まないで頂きたい」
そこまで言わなくてもいいじゃないか、という反論なんてできず、ただ「はい」と頷くことしかできなかった。
想像以上の恐怖と圧迫感で何も言葉が出てこない。
しかしそんなあたしのことなんてお構いなしに、今度は父親があたしを攻める。
「もし、君のその言葉が生半可な気持ちなのだとしたら、一度真剣に考え直してほしい。本気でなかったのだとしたら、私は認めることはできない」
厳しい言葉だったけれど、全くその通りだった。
後先考えないからこうなるんだ。
恨むぞ、昨日の自分。
もうあたしの精神状態はオーバーキル寸前だった。
それでも弥栄子さんは攻撃の手を緩めない。
「第一、あなたはまともに就職もできていないでしょう? 金銭的に余裕がないのは目に見えています。そんな状態の人間に大事な一人娘を預けることなんてできません。仮に一緒に暮らすようになったとしても、あなたが明日香の足枷にならないとも限らない。高校の時だって、あなたが明日香にギターを教えなければ、この子の成績だって落ちなかったし、もっといい大学に行くことだってできた。これ以上、明日香の足枷にならないで」
…………なんだそれ。
あたしの中にふつふつと怒りが沸き上がる。
まるで明日香がこうなってしまった責任をあたしに擦り付けているようだった。
パチン、と何かのスイッチが入る。
今まで2人の声意外何も聞こえなかったのに、明日香の息遣い、布団がすれる音、窓の外の鳥の声、あらゆるものが研ぎ澄まされて耳に入ってくる。
「私は、明日香の足枷なんですか?」
「ええ。あなたのせいで明日香の可能性は失われました」
「可能性ってなんですか? いい大学に行って、いい会社に行くことだけが、可能性じゃないでしょう?」
「少なくともあなたみたいな人間に可能性なんて微塵もないですよ」
「そんなのわからないじゃないですか。明日香、高校時代にすっごく楽しそうにギターを弾いてたんですよ。あれも可能性じゃないんですか?」
「あんなもの、社会に出たって何の意味もないじゃない」
これ以上話しても無意味だ。
何を言っても話が通じない。
あたしの怒りのボルテージはどんどん溜まる一方で、もう我慢の限界だ。
足枷だとか、可能性だとか、そんなこと誰が決めたんだ。
少なくとも明日香本人がそんなことを言うはずがないだろう。
「……じゃあ、あんたはどうなんだよ」
「え?」
「あんたは! 明日香の足枷になってないって言いきれんのかよ!」
気が付けばあたしはこの女の胸ぐらを掴んでいた。
すかさず彼女もあたしの腕を掴んで応戦する。
すぐに雄一郎さんや通りかかったナースさんが仲裁に入ってくれたけど、頭に血は上ったままだ。
はあ、はあ、と息切れした様子でこの女はあたしを睨む。
あたしもにらみ返した。
いつもはその蔑むような眼光に恐れていたけれど、こいつが怖くて明日香が守れるか。
「ほら、そうやって暴力に走って。そんな人に大事な娘を任せられるわけないでしょ」
「あんたに預けるよりはよっぽどマシだ!」
あたしを掴むナースさんの腕を振りほどく。
もう一度この女に一発お見舞いしてやりたい。
一発殴らないと気が済まない。
大きく腕を振りかぶり、拳を眼前の怪物に向ける。
その時だった。
「もうやめて!」
明日香の声でふと我に返る。
彼女の叫びは、いつもの朗らかで柔和な声ではなく、今にも張り裂けそうで、悲しくて、空気をつん裂くように鋭い叫びだった。
振り上げた拳を下ろし、息を整える。
恐ろしいくらいの静寂が病室を支配した。
この時ほどここが個室でよかった、と実感したことはない。
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