第19話「扉の向こう」
年が明けても、変わらず明日香のところへお見舞いに向かっている。
いつもの病室へと続く廊下。
つんと消毒液の匂いが鼻を刺激する。
病院に訪れるのはもう数えるのも忘れたくらいの回数だけど、この独特な匂いだけはどうしても慣れない。
なんだか不健全な匂いだ。
明日香の病室の前までやってきて、ふう、と心を落ち着かせる。
この扉の向こう、明日香はどんな顔をしているのだろうか。
担当医の話を盗み聞きした限りだと、おそらく今はぼうっと無機質な目で窓の外を眺めていることだろう。
今日の天気は曇り、外の景色もモノトーンの建物が映るだけで、面白いものなんて何もない。
決してあたしたちには見せない姿。
それを想像するだけで少し胸が苦しくなる。
だとしても、進まなければならない。
コンコン、とノックをし、病室に入る。
明日香はやっぱり笑顔だった。
だけどそれは本心を隠すための仮面で、本当は身も心もボロボロに壊れてしまっている。
それがわかっているから、やっぱり見ていて辛い。
傷だらけの姿とはまた違う痛々しさを感じる。
その共感性痛覚をぐっとこらえ、あたしは無理口角を上げた。
「やっほ」
「佳音! あけましておめでとう。今年は楽しい1年にしたいな」
「そう、だね」
その言葉がどこまで本当なのかわからない。
少なくとも100%純粋な本心ではないだろう。
「佳音の今年の抱負は?」
「え?」
「だから、新年だから、今年の抱負。はい、言って」
強引に促され、適当に「今年こそ音楽一本で生きていく」と適当に誓った。
もうこんなこと本気で思っていない。
現実と言うものを路上ライブで、ALTAIRとの演奏で、十分に思い知ったから。
だけど純粋な明日香はあたしの言葉を完全に鵜呑みにしていた。
それがどこまで透明なのかはわからないけれど。
「すごい。応援してる」
「いやあ、どうだろう。言ってみたはいいけど、正直プロになれる気がしない」
「でもいろんなバンドのお手伝いしてるんでしょう? ならプロだよ」
そういう見方もできるだろう。
だけど本物のプロはバンドと掛け持ちでアルバイトなんかしないのだ。
「明日香が思っているほど業界は甘くないんだ」
「そうなんだ。厳しいんだね」
「まあ、ね」
次第にあたしの声が吃っていく。
自分で言っておいてあれだが、なんだか惨めになってきた。
気持ちが沈むにつれて、口角もだんだん下がっていく。
「……佳音?」
自分の気持ちには鈍感なくせに、相手の表情の細かな違いを見つけるのが明日香は上手い。
すぐにあたしの表情の変化を見抜いてしまった。
だから彼女はこれほどまでに精神をすり減らしてしまったのだろうか。
「どうしたの?」
「いや、ごめん、なんでもない。ちょっと考え事」
「そっか。まあお互い大変だけどさ、頑張ろうよ。私ももうすぐ体のリハビリ始まるけど、大変だって先生も言ってた」
「へえ、そうなんだ……」
頑張ろう、という言葉を明日香が使ったことに違和感を覚えた。
この言葉はあまり精神が疲弊した人に使ってはいけないと言われている。
これ以上何を頑張ればいいんだ、とさらに追い詰めることになりかねないからだそうだけど、実際あたしも疲れている時に「頑張れ」と言われるとかなり苛立ってしまう。
それなのに明日香はその当事者の癖に平気で軽々しくその悪魔の言葉を使っているのだ。
正気の沙汰ではない、と少し恐怖すら感じる。
だけど明日香は何もわかっていない様子で、目を見開くあたしのことをきょとんと見つめるだけだった。
「私、何か変なこと言った?」
「いや、なんでもない……」
想像以上に明日香は壊れていた。
その強い衝撃が全身を駆け巡る。
どうしてこうなってしまったんだ、と強い憤りさえ感じた。
だけど明日香をこんな風にしてしまったのはあたしたちだ。
あたしたちの過度な期待が、明日香を壊してしまった。
おそらく明日香の中では「頑張ることは当たり前」という固定観念が定着しているから、心が摩耗していてもあんな言葉を平気で吐けるのだろう。
とにかくこの異様な雰囲気から脱したくて、あたしは話題を変えた。
「えっと……今度、また路上ライブするんだ」
「え、いーなー、憧れる」
「そんな夢見られるようなものじゃないよ。観客は誰もいないし、それでも独りで歌うんだから」
それでも明日香は路上ライブへの憧れを捨てきれていない様子だ。
どこまでもお花畑な奴、なんて少し憐れみながら、話を続ける。
「だから、今度のライブは明日香のことを思いながら歌うよ」
「本当? ありがとう、嬉しいなあ」
どこまでも純粋な明日香は喜んでくれたけど、半分は出まかせの感情だ。
目覚める前は何か力になってあげたら、という気持ちが強かったけれど、今はもう恐怖しかない。
やはり理恵の言っていた通り、触らぬ神に祟りなし、というやつなのだろう。
それでも明日香のことを見捨てられないのは、やっぱり彼女があたしの中で一番の親友で、今もなおかけがえのない存在だからかもしれない。
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