第9話「一般病棟」
入院から3週間が経って、明日香はようやく一般病棟に移った。
まだ意識は戻っていない。
けれどもう山場は乗り越えたみたいで、あとは意識が回復するのを待つだけ、らしい。
集中治療室は医療従事者か家族の方しか入れなかったけれど、一般病棟になったことであたしも明日香の病室に入ることができるようになった。
嬉しい気持ちが半分、恐怖や不安が半分。
複雑な感情だ。
個室の病室というのがより緊張具合を加速させる。
こういうのは普通何人かが一緒になっているものではないのか。
「明日香、入るよ」
声をかけるとともにノックしたけれど返事はない。
あたしはおそるおそる足を踏み入れる。
何本も巻き付けられていたよくわからない管はほとんど取り外され、点滴と呼吸器が残っているだけになっていた。
肌は人形のように青白く、腕は枯れ枝のように細かったけど、手を握るとちょっと温かいのが伝わってくる。
まだ、生きているんだ。
途端に涙が溢れそうになった。歳をとるとすぐに涙腺が緩んでしまう。
「早く元気になってね」
きゅ、ともう一度手を握った。
やっぱりまだ温かい。
この感触を噛みしめておきたくて、しばらくはじっと手を掴んだままだった。
少し経って、弥栄子さんがやってきた。
よほどあたしのことが嫌いなのか、相変わらずあたしを睨んでくる。
「あ、どうもです」
緊張するけれど、挨拶と社交辞令を交わせる程度には距離感を縮めることができたかなと思う。
それでも向こう、特に母親の方はあたしのことをよく思っていないのだろうけれど。
「今日お仕事の方は?」
「今日のシフトは午後からなので、まだ時間には余裕あります」
「そう……」
彼女は少し不服そうな顔をこちらに向けた。けれど、相変わらずあたしを見る目が冷たい。
「ところで、今はなんの仕事をしていらっしゃるの?」
弥栄子さんの問いに、そうえいばまだ何も話していなかったな、と何気なく受け止めていたけれど、だからと言って馬鹿正直に答えたのがいけなかった。
「まあ、ギターしながら、コンビニのアルバイトですね……」
その瞬間空気が凍り付いた。
そう、と呟く弥栄子さんは、なんだかあたしを軽蔑しているような目をしていたような気がする。
そりゃそうだろう。
こんな職の安定しない、髪もボサボサで身だしなみのなっていないような女、弥栄子さんみたいな厳格な人にとっては目の敵のような人種だ。
蔑まれるような目で見られることも無理はない。
あたしだってたまに思ってしまう。
あたしと明日香は釣り合わない人間だって。
二人が手塩にかけて育てた娘は、なんでも卒なくこなし、周囲からの信頼も厚く、一流大学卒業後は流れるように大手企業へと就職。
いい部屋に住んで、社会のためにバリバリ貢献して。
あたしのドブみたいな毎日よりよっぽどいい。
けれどあたしは明日香の親友だから。
そう思いながら毎日病院に通っている。
あたしの命なんてくれていいからどうにかして明日香を助けてほしいと神様に願ったことだって数えきれない。
沈黙が病室を支配する。
気まずい。
会話を続けようにも話題がない。
「まだ、音楽を続けているのね」
弥栄子さんが溜息交じりに尋ねる。
空気を切り裂くような鋭い声だった。
優しさは一切感じられず、むしろ嘲笑のようなニュアンスにも受け取れる。
「そう、ですね。いろんなバンドのギターをサポートしたり、路上ライブしたり、ですね」
「それをしながらコンビニのバイトも?」
「はい。歌だけじゃ食べていけないので」
自分で言って惨めになってきた。
本当は音楽一本で生活したい。
この業界に足を踏み入れたら誰だってそう思うだろう。
しかしそうもいかないのが現状だ。
才能ある奴らが羨ましいし、妬ましい。
「どうしてそんなことを聞いたんですか?」
「明日香が運ばれてきたとき、あなた、ギターケースを抱えてたじゃない。まだ続けているのね」
「好きなので」
その鼻につく態度が少々気に障ったので、やや強めの口調で返す。
多分あたしが明日香をギターに誘ったことを今でも目の敵にしているのだろう。
この人は少し古風で厳しい人だから、「なんて低俗な」とか思っているかもしれない。
『お母さんがね、ギターなんかやめろってうるさいんだよ。もうホント困っちゃう』
高校時代、明日香がよくぼやいていたことを思い出す。
こんな重たい空気の中で談笑なんかできるはずもなく、もうすぐバイトの時間なので、と病室を出た。
電車の中で漏れるのは、弥栄子さんへの緊張から解放されたことによる安堵の息だけ。
あの人といるとなんだか生きた心地がしない。
それでも、あたしは今まで通り毎日通い続けた。
相変わらず生活はギリギリだけど、明日香のためならこのくらい苦でもない。
ぎゅっと彼女の手を握り、明日香がこの世に生きているのを実感する。
たまに握り返してくるような感触があるが、それは気のせいではないと信じたい。
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