第2話「認めたくない現実」


 明日香の家までの最寄駅に着き、電車の扉が開く。

 重たいギターを背負っていることも、運動不足で体力がないことも、今のあたしには関係なかった。

 身体は自然と彼女の住むマンションへと向かう。


 最後に遊びに行ったのって確か3年くらい前だったけれど、場所はしっかりと覚えていた。

 あたしが住んでいるおんぼろのワンルームなんかよりも全然違う立派な高層マンションだ。

 部屋の内装もとても綺麗で、将来はこんな部屋に住みたいと羨んでしまうくらいには印象的だった。


「いいなー。私もギターで食べれるようになって、こんなマンションに住んでみたいよ」

「そんないいことばかりじゃないよ。掃除は大変だし、階段エレベーターが使えなくなった時は大変だし」

「でもあたしの住んでるところよりはマシだよ」


 確かそんな会話をした記憶がある。

 こんな些細な思い出なんて今の今まで記憶の底に封印されていたはずなのに、こんな時に限って思い出してしまうなんて。

 ひょっとしたら走馬灯でも見せられているのだろうか。


 息を切らしながら、明日香の住むマンションの前までようやくたどり着いた。

 周りは既に野次馬で溢れかえっていて、隙間から黄色い規制線のテープが見える。

 パトカーのランプが夜の闇を赤く染めていて、一目見ただけでただ事ではないことが起きたんだと認識させられる。


 ぞわり、と肌に嫌な感じがまとわりついた。

 ますます不安が強くなっていく。

 もう一度明日香に電話をかけたけれど、返ってくるのはコール音だけ。


 やっぱり明日香は、もう……。


 息切れとはまた違った呼吸になっていた。

 はあ、はあ、と動悸が収まらない。

 何かの間違いであってほしい。

 ひょっとしたらこれは夢なんじゃないか、という具合に現状を飲みこめないあたしがいた。


 その時だった。

 偶然耳に入ってきた野次馬たちの会話にあたしはハンマーで殴られたような強い衝撃を受けた。


「ここの住人、飛び降りたんだって」

「7階からでしょ? 流石に助からないだろうなあ」

「自殺か。気の毒に」


 …………は?


 頭が真っ白になった。

 明日香が住んでいたのは確か7階だ。

 まさか、明日香が自殺するなんて……信じたくなかった。


 ……いや、本当は認めたくなかった。

 だって、今日の電話から少し様子がおかしかったから。

 あの電話をしてきた明日香ならやりかねない。


 もう一度明日香に電話をする。

 しかし結果はわかりきっていることだった。


「明日香……」


 全身の力が抜け落ち、立つこともままならない。

 しかし足は自然とマンションの方に向かっていた。

 明日香の名前を何度も呟きながら、雑踏の中を掻き分ける。


「大丈夫ですか」


 ぼうっと建物を眺めるあたしの様子が不審に見えたのだろう。

 規制線を張っていた警官に声をかけられた。

 警官は怪訝そうな表情でこちらを見る。


「友達、が、ここ、住んでて……電話、繋がらなくて…………」


 ボロボロ泣きながら、警官に訴える。

 赤の他人にこんなこと言ってどうする、なんて思ったけれど、今は藁にもすがりたい気分だった。

 少しでも明日香の情報がほしい。


「とりあえず、事情聴取しましょうか」


 話を信じてくれたのか、それともただの不審者に思っただけなのかはわからない。

 だけど明日香の情報がほしい。


 警官に誘導され、雑踏から少し離れる。

 身分証を出せと言われたので、自分の免許証を提示した。


 しかし尋ねられたのはあたしの身の回りのことだけで、明日香のことについては何も教えてくれなかった。

 スマホに保存されていた明日香との写真と電話の発信履歴でなんとか明日香の友人であることは証明できたけれど、まだ調査中、守秘義務と言われ、ほとんど何も聞けなかった。

 明日香の安否についても依然不明のままだ。

 おそらく何か手掛かりは掴んでいるとは思うけれど、きっと赤の他人であるあたしには教えてくれないだろう。


「それで、明日香は無事なんですか?」

「ですから、ご家族以外の方には守秘義務がありますので、お答えすることはできません」

「そうですか……」


 想像の通りだった。

 何度尋ねても、「守秘義務があるから」ばかりで警官は何も話してはくれなかった。

 結局手掛かりは何一つとして掴むことはできなかった。


 事情聴取も終わり、とりあえず警官にお礼を言って再び走り出した。

 と言ってももう元気はほとんど残っていない。

 だけど最後の力を振り絞って、あたしは駅へと駆けだした。

 行き先はここから一番近い総合病院だ。


「明日香……」


 また瞼の奥から涙が流れ落ちそうになる。

 歩みを止めたら、ボロボロと止まらなくなりそうだった。

 あたしは最後の気力を振り絞り、夜の道を走る。

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