第1章
第1話「突然の電話」
「お疲れ様でした」
スタジオを出ると、少し冷たい空気が肌を刺激する。
昼間は真夏かと疑いたくなるくらい暑かったのに、夜になると一気に冷え込んだ。
10月の気温は朝晩で寒暖差が激しく、上着くらい持ってくればよかったなとほんの少し後悔した。
今日の仕事は専門学校時代の友人だった
ギターボーカルの福田理恵、ベースの三井
結成当初からしつこくバンド勧誘に誘われているけれど、基本的にあたしはソロで活動したいから、理恵の誘いを断り続けている。
本当はあたしにそんな度胸と勇気がないだけなんだけど。
もうすぐライブが近いから、メンバーのみんなはいつも以上に気合が入っていた。
そんな彼女たちに負けじと食らいつこうとしたからか、今日は自分の思うような演奏ができた気がする。
最近ギターの調子が悪かったから、これを機に復調したいところだ。
少し歩いて、小さなスーパーマーケットに立ち寄った。
そういえば昨日25歳の誕生日を迎え、晴れてアラサーの仲間入りを果たしてしまったわけだが、この歳にもなると昔と比べて食欲も落ちた。
ダイエット中なので食事が抑えられるのはありがたいが、体重が減らないのは勘弁してほしい。
弁当コーナーはもうほとんど売り切れていたので、ツナマヨとおかかのおにぎり、それと緑黄色野菜のサラダを買った。
昔は自炊していたけれど、ここ数年の食事はこんな感じだ。自炊する気力もないし、そもそも帰ってくる時間帯も遅いため、自炊なんてできる状態ではない。
明日はサポートの仕事はないし、コンビニの仕事もない。
折角のオフなのに何もせずに部屋に籠ってギターをかき鳴らすのは何かもったいない。
久しぶりにどこか遊びにでも行こうか。
あたしは、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
相手は高校時代の親友だ。
卒業してから会う機会は減ったけど、今でもこうして電話する仲だ。
『……もしもし?』
「ああ、
『…………うーん、ごめん。行けそうにないや』
そりゃそうか、と思ったのと同時に、少しだけ違和感を覚えた。
いつもより声に生気がない気がする。
明日香はおしとやかな性格なんだけど、でも芯の強い子だ。
少なくとも、こんな弱々しい声を出すような彼女じゃない。
『私、
スピーカーから聞こえる声は、今まで聞いた中で一番優しい声だった。
優しくて、暗くて、全てを諦めたような、そんな雰囲気がする。
「どうしたの急に」
『なんでもないよ。私の親友でいてくれてありがとうって、言いたかっただけ』
そんなこと言わないでよ。
それじゃまるで、この世に別れを告げているみたいじゃん。
嫌な予感がする。
全身にぞわりと鳥肌が立ち、一気に血の気が引いた。
まるで本能が一刻でも早く明日香を止めとと警告を出しているようだった。
「何かあった? 悩みがあるなら相談に乗るよ?」
『なんでもないって。大丈夫だから。心配かけてごめんね?』
絶対嘘だ。
声だけなのに、顔も見えないのに、電話越しの明日香はなんだか泣いているようだった。
いつも通りかそうでないかくら電話だけでもわかる。
伊達に長く親友をやっていない。
気が付けば早足になっていた。
急いで明日香のところに行かないと。
そんな衝動があたしを駆り立てる。
このままだと明日香が大変なことになる気がしてならなかった。
「ねえ──」
そう言いかけたところで、明日香が遮る。
一方的に別れを切り出された気分だ。
『じゃあね、佳音。電話してくれてありがとう』
プツリと通話が途切れた。
嫌な予感が確信に変わりつつある。
だけど認めたくなくて、あたしは夜の街を無我夢中で走った。
じゃあね。
いつも明日香は「またね」と言って電話を切る。
「じゃあね」なんて絶対言わない。
本当はあたしの記憶にないだけかもしれないけれど、明らかに抱いたこの違和感は、あたしを強く突き動かした。
「明日香……」
不安になって、もう一度彼女に電話をかける。
だけど応答はなく、ただコール音が鳴り響くだけ。
何度も何度も電話を掛け直したけれど、結果は同じ。
漠然としていた恐怖が、じわじわ形成されていく。
その波に抗うように、必死に足を動かした。
泣きそうなのを抑え、最寄りの地下鉄に乗り込んだ。
ここから明日香の家までおよそ10分。
10分なんていつもはあっという間だけど、今日に限ってその長さは永遠とも思えるくらいのものだった。
車内の沈黙が、あたしをさらに焦らせる。
お願い、無事でいて。
ただそれだけを祈ることしかできない。
この不安が杞憂で済みますように。
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