第6話

バン! と勢いよく部屋のドアが開けられた。

ぼんやりと窓に寄りかかっていた律と、部屋に入ってきた詩が向かい合う。

変わらず虚ろな目をしていた律だったが、その無表情な顔に、僅かな変化が出た。



「う……た?」


徐々に開く瞳孔、言葉を紡ごうと動く乾いた唇。

無機質な硝子のようだった目に、悲しそうな――だが、人としての光が戻る。



「な……んで、黒い、の……?」



一年ぶりに発せられた声は掠れていた。

ショック療法は効いたらしい。

全ての光を吸収してしまいそうな、漆黒の髪。

髪を黒に染めた詩は、なりふりかまわず律の両頬を挟んで強く言った。


「逃げるの! 俺たちここにいたら、殺される。飼い殺しにされる!」


「え……」


「律は精神病院行き! 俺はここで、飼い殺し! 幸せな日常なんて、一生やってこない! だから、逃げるの!!」


「でも……どこに?」


言葉を取り戻しはしたものの、状況を飲み込めず、未だぼんやりした様子の律。

詩は律を立たせると、その手を引いた。



「いいから! とにかく逃げる!」


二人は部屋をあとにすると 、廊下を駆け出した。











「……ほんとに、逃げちゃった」


「だから逃げるって言ったじゃん。俺も律も、あのままいたら危ないんだって」


「……うん」


「深夜だから、電車はない。追いかけてきたら困るから、二つ先の駅まで歩いて、始発の列車で遠くに行こう」


「うん……」


困った顔をして、曖昧に頷く律。


月が見下ろす丑三つ時、縺れる足を一生懸命動かして走り続ける二人。

春めいた甘い夜風が、優しく頬を撫でる。

体力はとうに底を尽きていた。だが、それでも走るのをやめない。


幸せな日々を手に入れる、その一心で。


二人の間に、互いの荒い息づかいだけが木霊する。


「ねぇ」と律が声をかけた。


「覚えて、ない。詩が刺された……記憶が、最後。精神科……そんなに、マズかったの?」


「……うん。壊れてるようにしか、見えなかった」


「そっか……」


詩の言葉にしゅんと肩を落とす律。

手を引かれながら、じわりと涙を落とした。


「ごめん、迷惑かけて。いっぱい。詩……が、いなか ったら、今頃……僕は」


掠れた声で、辿々しく言葉を吐く。

走るのをやめた詩は、くるりと振り返ると、律の両肩に手を置いた。



「そーいうのやめよ。こっちだって、律にはいっぱい助けられてたんだよ? だって双子だもん、お互い様でしょ?」


「……うん」


薄い涙の海をたたえた、律の泣き出しそうな顔。

無表情じゃない、その顔を見て実感する。



――律が、戻ってきた。



虚ろなからくり人形じゃな い、血を分けた兄弟が。




――帰って、きたんだ。



急に安堵が胸に押し寄せて、その場にしゃがみこむ詩。視界が、ぐにゃりと歪む。


「詩……大丈夫?」


律もしゃがみ、詩の顔を覗き込む。


心配そうに自分を見つめる、優しい律の顔。

一年も何も映さなかったその瞳に、ようやく自分を見 てくれたことがどうしようもなく嬉しくて、詩はその場でしゃく りあげはじめた。



「……ねぇ、お願いだから ……もう勝手にどこか、行かないで。どこにも行かないで。僕を、置いてかないで。やだ、やだよ……寂しい、よ……ねぇ、律」



「りつ」と、何度も愛しいその名前を呼ぶ。


上手く息が出来ない。

前がぐしゃぐしゃで、何も見えない。


ずっと不安だった。ずっと見えない暗がりの中、律が戻るまで、詩はずっと待ち続けた。



――もう、待たなくていいんだ。



緊張の糸が切れて、幼子のように情けない声をあげて泣き続ける詩。

その体を、律は優しく抱き締めた。


「……どこにも行かない。置いてかないよ。ごめんね詩、こんなに泣かせて……ごめんね」


小刻みに震える肩。抱き締める腕に、力が入る。



「……ただいま、詩」


「……おかえり、律」


抱き合い、声をあげて泣く二人。

律の頬から滑った涙が、詩の漆黒の髪にそっと落ちて流れた。

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