第6話
バン! と勢いよく部屋のドアが開けられた。
ぼんやりと窓に寄りかかっていた律と、部屋に入ってきた詩が向かい合う。
変わらず虚ろな目をしていた律だったが、その無表情な顔に、僅かな変化が出た。
「う……た?」
徐々に開く瞳孔、言葉を紡ごうと動く乾いた唇。
無機質な硝子のようだった目に、悲しそうな――だが、人としての光が戻る。
「な……んで、黒い、の……?」
一年ぶりに発せられた声は掠れていた。
ショック療法は効いたらしい。
全ての光を吸収してしまいそうな、漆黒の髪。
髪を黒に染めた詩は、なりふりかまわず律の両頬を挟んで強く言った。
「逃げるの! 俺たちここにいたら、殺される。飼い殺しにされる!」
「え……」
「律は精神病院行き! 俺はここで、飼い殺し! 幸せな日常なんて、一生やってこない! だから、逃げるの!!」
「でも……どこに?」
言葉を取り戻しはしたものの、状況を飲み込めず、未だぼんやりした様子の律。
詩は律を立たせると、その手を引いた。
「いいから! とにかく逃げる!」
二人は部屋をあとにすると 、廊下を駆け出した。
*
「……ほんとに、逃げちゃった」
「だから逃げるって言ったじゃん。俺も律も、あのままいたら危ないんだって」
「……うん」
「深夜だから、電車はない。追いかけてきたら困るから、二つ先の駅まで歩いて、始発の列車で遠くに行こう」
「うん……」
困った顔をして、曖昧に頷く律。
月が見下ろす丑三つ時、縺れる足を一生懸命動かして走り続ける二人。
春めいた甘い夜風が、優しく頬を撫でる。
体力はとうに底を尽きていた。だが、それでも走るのをやめない。
幸せな日々を手に入れる、その一心で。
二人の間に、互いの荒い息づかいだけが木霊する。
「ねぇ」と律が声をかけた。
「覚えて、ない。詩が刺された……記憶が、最後。精神科……そんなに、マズかったの?」
「……うん。壊れてるようにしか、見えなかった」
「そっか……」
詩の言葉にしゅんと肩を落とす律。
手を引かれながら、じわりと涙を落とした。
「ごめん、迷惑かけて。いっぱい。詩……が、いなか ったら、今頃……僕は」
掠れた声で、辿々しく言葉を吐く。
走るのをやめた詩は、くるりと振り返ると、律の両肩に手を置いた。
「そーいうのやめよ。こっちだって、律にはいっぱい助けられてたんだよ? だって双子だもん、お互い様でしょ?」
「……うん」
薄い涙の海をたたえた、律の泣き出しそうな顔。
無表情じゃない、その顔を見て実感する。
――律が、戻ってきた。
虚ろなからくり人形じゃな い、血を分けた兄弟が。
――帰って、きたんだ。
急に安堵が胸に押し寄せて、その場にしゃがみこむ詩。視界が、ぐにゃりと歪む。
「詩……大丈夫?」
律もしゃがみ、詩の顔を覗き込む。
心配そうに自分を見つめる、優しい律の顔。
一年も何も映さなかったその瞳に、ようやく自分を見 てくれたことがどうしようもなく嬉しくて、詩はその場でしゃく りあげはじめた。
「……ねぇ、お願いだから ……もう勝手にどこか、行かないで。どこにも行かないで。僕を、置いてかないで。やだ、やだよ……寂しい、よ……ねぇ、律」
「りつ」と、何度も愛しいその名前を呼ぶ。
上手く息が出来ない。
前がぐしゃぐしゃで、何も見えない。
ずっと不安だった。ずっと見えない暗がりの中、律が戻るまで、詩はずっと待ち続けた。
――もう、待たなくていいんだ。
緊張の糸が切れて、幼子のように情けない声をあげて泣き続ける詩。
その体を、律は優しく抱き締めた。
「……どこにも行かない。置いてかないよ。ごめんね詩、こんなに泣かせて……ごめんね」
小刻みに震える肩。抱き締める腕に、力が入る。
「……ただいま、詩」
「……おかえり、律」
抱き合い、声をあげて泣く二人。
律の頬から滑った涙が、詩の漆黒の髪にそっと落ちて流れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます