第5話 雪女

 見渡す限りの白であった。

 古い町並みである。昨晩降った雪は道を覆い隠し、屋根も綿帽子をかぶっているかのようであった。その白とは対照的な、抜けるような蒼天が眩しい。まだ気温も上がりきっていないからだろうか、道のぬかるみが少ないことが幸いである。

 降雪の後は、普段よりも音が耳に残りやすい。ほた、ほた、と歩く雪の道。その足音にはた、はた、ともうひとつ、足音が重なり耳に届く。

八重やえ

 かなめは妻に声をかける。この妻は、決して夫の前に出ない。それは、普段の生活もそうであるし、こうやって歩いているときもそうだ。必ず三歩下がり、自分の後をついてくる。

「大丈夫か」

 立ち止まり、やはり遅れて歩く妻を見る。ただでさえ身重の身体だ。雪の道を歩かせるのは心配であった。

 八重は問いには答えなかった。いつものことなので、要は気にせず話しかける。

「体が冷えただろう。もうすぐ家だ、辛抱してくれ」

 親戚筋の挨拶回りだ。最初は要一人で向かう予定であったが、八重が頑として引かなかったのである。

 薄紫の色無地。海老茶の羽織をさらりと着こなす我が妻の、その凛とした立ち姿に要は覚えず感嘆の息をつく。八重は、色素が薄い。こうして雪の中に立っていると、まるで雪女の風情である。

 八重は口を閉ざしたまま、つう、と横に視線をずらした。その目が何かを見つけたのを見て、要も視線を向けてみる。

 そこにあったのは、藍染めの布であった。

 職人の家なのだろうか、軒先に渡された縄に、青が幾重にも重なって流れている。晴天の空の色よりも鮮やかな、目が覚めるような色合いであった。

「綺麗だなあ」

 思わず声に出す。

「なあ、八重。見事な青だなあ」

「――本当に」

 思いがけず返ってきた答えに、要は首を巡らせ、瞠目した。

 八重が、微笑んでいる。まるで、春、ようやく硬い蕾が緩み始めた花のように、柔らかで、かすかではあったが、ほころぶような笑顔であった。

「綺麗な藍染でございますね」




「で、私はいつまでその惚気のろけを聞かされているのかな?」

 そういって、葉子はことりと首を傾げた。藍鼠色あいねずいろの着物をたすき掛けし、土間に立つ姿は奥様然としているが、この家には彼女一人しか住んでいないことを要は知っている。

「まあ、そういうなよ。聞かせる相手がいないんだ。ほら、大根。隣からいただいたんだが、どうにも量が多くてね」

 要は板の間に腰掛け、ざるに入れた大根を土間に降ろした。葉子はさっそく大根を手に取ると流し台の前に立つ。

「もうすぐだっけ、子供」

「そうだなあ。そろそろ生まれてもいい頃合いだと、産婆は言っていたかな」

「そっか。楽しみだね」

 水を使う音を聞くともなしに聞きながら、要はぼんやりと葉子の後姿を眺めていた。

 葉子と要が知り合ってから、じきに半年になる。

 その日は友人の松原と酒を飲んでいて、遊びの話になった。要が女を買ったことがないというと、彼は大層嘆き、「とっておき」として葉子を紹介してもらったのである。

 ――たまには羽目外せよ。嫁があれじゃあ息が詰まるだろう。

 そう言ってにやついていた松原には悪いが、要と葉子はまだ一度も体を重ねてはいない。たまに会い、こうして話したり、茶を飲んだり、おすそ分けをしあったりはしているが、良い友人としてのお付き合いに留まっている。

 黙認される風潮こそあるものの。一人暮らしの女の家に、妻帯している自分が長居するのは外聞が悪い。しかも、身を売って口にのりする女だ。もし見つかりでもしたら、面倒なことになる。

 しかし、要は葉子の持つ独特の気配が気に入っていた。儚げで、どことなく厭世的えんせいてきな香りがするが、話すと意外と朗らかである。居心地がよく、どうにも入り浸ってしまう。

「で、今日はなに」

「あ?」

「まさか、大根を届けに来ただけじゃないんでしょ」

「ああ……」

 要は唇を舐める。

「実は、あんたにお願いがあるんだ」

「何」

「買い物に付き合ってもらいたい」

 なおも後ろを向いたままの葉子に、要は声を投げかけた。

「八重にな。その……つまり、贈り物をしたいと思っている。その品を一緒に選んでほしい」

 葉子からの返事はない。大根を洗う水の音だけが、狭い土間に木霊している。

「目星はつけてある。けど、本当に喜んでもらえるかが不安でな。女のあんたから見て、判断してもらえないだろうか」

 大根を洗う音が止まった。流れる水をそのままにして、葉子はぽつりとつぶやいた。

「悪い人」

「え?」

「鈍いにもほどがある」

「鈍い?」

 そう、と葉子は呟く。

 水を止め、洗い終わった大根を笊に戻すと、前掛けで手を拭った。その手の白さに、要は柄にもなくどきりとする。

 この女も、八重と同じように色素が薄い。

「他の女が選んだものを贈り物にするのは、野暮やぼだと思う」

「なにぃ?」

 唐突な言葉に、要は間抜けた声を上げてしまう。

「怒るよ」

「八重が?」

「そう」

「怒るかな」

「きっとね」

 それはぜひ見てみたい。八重は怒った顔も美しいだろう。しかし、それは葉子の想い違いである、と要は思う。

 八重は、表情がとぼしい。

 見目麗しい姿なのに、適齢を過ぎて尚、婿むこを迎えられなかったのは、八重のその特性が原因だと聞いている。なにせあの美しさだ、それこそ見合い話が何件も降ってわいたと聞いているが、その席で男の方がたじろいでしまうのだという話であった。

 ――いや、たしかにお美しいのですが。

 要の知人にも、見合いで断りを入れた者がいる。

 ――どうにも造り物のようで。私にはとても、とても。

 けれど、と要は思い出す。八重に出会ったときのこと。その頃の八重は、今の氷のような冷たさを感じさせない少女であった。

 ふたりが初めて会ったのも、冬だ。

 その日も、雪が降っていた。



「内緒にしてくれる?」

 そういって、雪女――八重は目尻にたまった涙を拭った。歳にしてよわい、十二。要はまだ九つ、八つ。そのくらいの年齢であったはずだ。

 要の父は商売がうまく、顔が広いことを自慢にする、そういう男であった。そんな父に連れられて、要は幼い頃からあちこちの屋敷を訪ねて回るのが常であった。

 初めて植草家を訪れたのも、そんな頃の話である。

 要は大人同士の付き合いなどどこ吹く風で、広い屋敷の庭をてほてほと歩いていた。

 雪が降っていた。

 植草家は純和風の邸宅で、庭も広く取ってある。母屋を背に、右手に門。左手には倉があり、飛び石がそれらを緩やかに繋ぐ。その飛び石に、雪がさらさらと降っては、消え、降っては積もり、を繰り返しているのである。石灯籠いしどうろうにぽってりと積もった雪。松、紅葉、辛夷の木。

 その木の下に、少女が立っていた。

 ほっそりとした体を薄青の着物に包み、木にもたれかかるようにして立っている。肌の色は抜けるように白い。炭を刷いたような黒髪が、白一色の景色にぼんやりと浮かび上がっているかのようであった。

 ――雪女。

 先日読んだ読本よみほんにそんなばけものが書かれていたことを思い出す。

 読本と違ったことは、その雪女がまだ少女であることと――泣いていたことである。切れ長の目尻を赤く染め、少女は雪の中でひそやかに涙を落していた。

「……誰?」

 要ははっと目を瞬かせた。

 切れ長の瞳がこちらを見ている。寒い場所にいるからなのか、それとも泣きすぎたせいなのか、鼻の頭も薄っすらと赤い。

 要は逡巡しゅんじゅんし、一歩足を踏み出した。

 飛び石に積もった雪が、じゃらりと湿った音を立てた。


 ――内緒にしてくれる?

 少女の言葉に、要はことりと首を傾げた。どのことを指しているのか分からなかったのだ。ここにいることだろうか。それとも泣いていることだろうか。

 雪はまだ、さらさらと降り続けている。

「こんなことで泣くなんて、悔しいから。だからお願い」

 そういって八重は、口をぎゅっと引き絞った。唇の色も薄い。まるで血が通っていないかのようである。

 薄青の着物は見るからに薄く、寒そうだ。要は自分の羽織を脱ぎ、背伸びをして、八重の肩にぱさりとかける。

 八重は驚いたようである。切れ長の目を見張り、くしゃりと笑った。

「ありがとう」

 要は首を振る。笑うと、少女の大人びた顔がぐっと砕けた印象になる。そっちの方がずっといい、と要は思った。

 雪がほたほたと降る。風が吹いていないからだろうか、それとも、少なからず興奮していたからであろうか。寒さはほとんど感じなかった。

「――私、来月お見合いだって」

 唐突に、八重はそう言った。

「もう決まっていることだからって、お父様が引かないの」

「嫌なの?」

 要はいぶかしく思う。要とて、植草家にはかなわないが、それなりの財力のある家の子供である。お見合いも、それによる婚姻も、彼とっては普通の事だ。取り立てて嫌だと思ったこともないし、いずれ自分もそうやって、妻を持つものだと思っている。

 要の問いに、八重は首を振った。

「お見合いが嫌なわけじゃない。でも……」

 八重はほうと息をつく。白くけぶったため息が、曇天にするすると吸い込まれていった。

「私……まだ恋もしたことがないのに」

 要は目を見張り、ややあって吹き出した。今になって思えば、随分と失礼な振る舞いであったと思う。しかし、当時の要は、自分よりも年上の、もうじき女学校に通うような年齢の少女がそんなことで悩み、泣いているのが可笑しく感じられたのだ。

 要の態度は少女のかんさわったようである。八重はじろりと要を睨み、口を尖らせた。

「言わなければよかった」

「……ごめんなさい」

「謝ったって許してあげない」

 色白の顔が赤く染まる。ころころと変わる少女の表情を、要は素直に美しいと感じたものだ。どうにかしてそれを少女に伝えたくて、要は頭に思いついたままをほろほろと話す。

「ねえ、雪女って知ってる?」

「雪女?お話に出てくる?」

「そう。僕、あなたをさっき見たとき、雪女がいるって思った」

「なにそれ、私がばけものだって言いたいの?」

 要は首を振る。どうやったらうまく伝わるだろう。

「それくらい、綺麗だって言いたかったんだ」

 言ってしまってから、要は首の後ろが熱くなる。要は俯いた。恥ずかしかった。まだ短い彼の人生の中で、初めて女性への誉め言葉を口に出した瞬間であった。

 八重は目を見張った。そのまま俯き、手を唇に添えて黙りこくってしまう。

「……そっか、うん、雪女、か……」

 八重は顔を上げ、要ににっこりと微笑みかけた。

「ありがとう。私、いいこと考えちゃった」

「いいこと?」

「そう。雪女、ね。任せて頂戴。そういうの、得意なの」

 要は首を傾げる。そういうの、とは何のことなのだろう。

「私は、好きな人と――本当に好きな人と、一緒になりたい」

 そう言って、八重は要に小指を差し出した。意図が分からず、硬直する要の小指に、八重は自分のそれを絡ませる。

「約束。今日のことは絶対に、他の人には言わないで」

「――え?」

「ね、約束。私とあなただけの……」

 少女の瞳に熱を感じ、要は首筋にちりちりとした痛みを感じた。絡めた小指に力が入る。その指越しに伝わる熱や、瞳の温度、吐息の白さを、要は今でも覚えている。思い出すたびにくすぐったくて、甘酸っぱい、大切な思い出だ。


 雪の日の約束。それを、要は今でも律義に守っている。いや、正直に言うと、自分に見合い話が来て、その相手が八重だと知るまではすっかり忘れていたのだ。

 見合いの席の八重は、少女の頃の面影そのままに、凛とした美しさを湛えていた。しかし、唯一違ったのはその表情である。

 造り物のような、美しさ。ただ静かに、静かにそこにいるだけ。八重は、笑わない。泣かない。怒らない。

 一緒になってからも、八重の造り物めいた表情が変わることはなかった。どんなものを見ても、何をしていても、感情を見せないのである。

 あの雪の日の約束のことを話してみようか、と考えたこともある。自分があの時の約束の主だと知ったら、もしかしたら何かしらの反応を示してくれるのではないか、と。

 しかし。

 ――本当に好きな人。

 八重の願いは、叶わなかった願いだ。自分と彼女の婚姻は家同士の思惑であった。もっと正直に言うと、名家の肩書と財力が欲しかったのは、要の家の事情である。八重が適齢をとうに超えており、問題のある女性だったからこそ叶った婚姻だ。そこに本人同士の恋愛感情などあろうはずもない。

 だから、要はあえて話さない。

 その約束を口にしてしまったら、八重があの日のことを思い出してしまったら……きっと八重は、雪女は消えてしまうのだろう。


「まあ、心配しなくて大丈夫さ」

 そういって、要は葉子に笑ってみせる。八重はきっと、自分が誰と出かけようと眉ひとつ動かさない。寂しくもあったが、それが事実だ。

「あんたしか頼れる人がいないんだ。頼むよ」

 手を合わせ、頭を垂れる。葉子は肩を竦め、わかった、と苦笑した。




 今にも泣き出しそうな空の下、要は葉子と共に帰路についていた。手にした風呂敷の中には、求めたばかりの藍染めの肩掛けがきちんと畳まれて包まれている。

「今日は助かった。おかげで良いものを選ぶことができた、と思う」

 葉子を伴い呉服店に入ったはいいが、あまりの種類の多さに眩暈めまいを起こしそうになった要である。藍染めだけに絞っても、ざっと十数種類以上はあっただろうか――世の中の女性は、どのようにして自分の欲しいものを選び取っているのだろう、と心底不思議に思ったものだ。

 葉子が選んだのは、絞り模様が花のように広がった肩掛けであった。

 ――雪花絞りと言いましてね。

 店の者は愛想よくそう言った。

 ――西の絞りなんですが。雪の花のような模様になるのが特徴なんですよ。

 それはいい、と要は頷く。八重に贈るものだ。雪にちなんだもの、というところが気に入った。

 意気揚々と道を歩く。

 冷え冷えとした空気に、湿り気が混じる。もうじき、雪が降るに違いない。

「よかった。でも、私が選んだものだってことは、内緒にしておいた方がいいと思う」

「そうか、そうだな」

 頷くと、葉子は要を見上げてゆったりと微笑んだ。この女性は、背が高い。八重よりも頭一つほど高いのではないだろうか。色白の肌や黒髪の見事さは八重にも通じるところがあるが、瞳の色だけがやや違う。葉子は黒だが、八重の瞳は薄茶色だ。まるで琥珀のような透明感のある瞳で、色の薄さが白い肌によく似合っている――。

 そこまで考えて、要は思わず苦笑する。違う女性と道を歩いていても、自分は、八重のことを考えてしまう。それが何を意図するかくらい要にだって分かっている。分かっているからこそ、要は怖い。

 八重と一緒になり、子をなしても尚、要には拭いきれない不安があった。八重の望みを絶ってしまったのは、外ならぬ要自身なのかもしれない。

 自分は、八重の『本当に好きな人』ではないのだから。

 立ち止まり、黙ってしまった要に何を思ったのであろうか。葉子は首をことりと傾げ、要の顔を覗き込むようにする。

「あのさ」

「――なに」

「ちゃんと言った方がいい」

 唐突な言葉に、要は目を瞬かせた。

「伝えようとしないと、伝わらないよ。大切な人なら尚のこと」

 この女は、心が読めるのであろうか。瞠目している要に、葉子は言葉を重ねた。

「時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい」

 そういって、葉子は笑った。ふわりと漂う花の香り、沈丁花じんちょうげの匂い。

 その時である。

「へえ、随分とよろしくやっているようじゃないか」

 ふいに割り込んだその声に、葉子がびくりと体を震わせた。

 要は振り返る。

「――松原」

 にやにやしながらこちらに近づいてくる友人の、その漂う臭気に要は眉をひそめた。ひどく酔っている。いや、酔っているだけではない。松原の目に浮かんでいるのは明らかな敵愾心てきがいしんだ。

「おい、葉子、あんた話が違うじゃねえか」

 松原はそう言って葉子の肩に手をかけた。葉子は顔を背けている。漂う剣呑けんのんな雰囲気に、道行く人々が足を止め、遠巻きにこちらを見ていることが分かった。

「植草よお。お前、どうやってこいつを引っ張り出したんだ?」

「何のことだ?」

 尋ねると、松原は口の端を歪めて嗤った。嫌な笑い方だ。そのまま要の問いには答えず、ぐい、と葉子の腕を引いた。

「すかしやがって。なにが『もうやめる』だと? こいつの誘いには乗るのに、なんで俺は駄目なんだ。選べる立場じゃねえだろう!」

「やめて」

 葉子は身をよじった。黒髪がはらはらと空に舞う。松原は手を緩めない。ぎりぎりと腕を締め上げている。

「やめろよ。痛がってるだろ!」

 あまりに乱暴な扱いに、植草は思わず声を荒げた。

「少しくらい痛い目に合った方がいいだろ、こんな女はよ」

「おい、お前」

「同じ穴のむじなの癖に、いい人ぶるのはよせよ」

 松原は葉子の耳に口を寄せる。

「行こうぜ、葉子。嫌とは言わせねえぞ。ずっとあんたが忘れられなかったんだ」

 そう言うと、松原は葉子の腰に手を這わせた。

「やめて!」

「うるせえ! 来いって言ってるだろう!」

 逃がさじと腰を抱き留める松原の腕を引きはがし、葉子は体をよじり――どう、と道に倒れこむ。

「ひっ……」

 声を漏らしたのは、誰だっただろうか。道行く人だっただろうか、それとも要自身であっただろうか。

 葉子が道に倒れている。着物の裾ははだけ、白い襦袢じゅばんに包まれていた素足が投げ出されている。その足が、赤い。皮膚がただれた後だろうか、無事な皮膚がないくらい、あちこち引きれ、まだらになっている。

 葉子は俯いたまま、着物の裾をす、と直した。ぬかるんだ泥と、おそらくどこかを擦ってしまったのであろう血が入り混じり、着物は斑模様に染まっている。

「相変わらずきったねえ足しやがって。かわいがってやろうってんだから、ありがたく思えよ!」

 要は瞠目する。この男は、何を言っているのだろう。

「……おい」

 口に出した声は、思った以上に怒りを孕んでいた。

「いい加減にしろ」

「うるせえ! お前だって俺と同じ癖に、偉そうにご高説か?」

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」

「俺はばけもんを抱いてやって、金を恵んでやってるんだ。それの何が悪い!」

 顔を赤くして怒鳴る松原を一瞥いちべつし、要は葉子の肩に手を回した。細い肩がびくりと震える。

「行こう、葉子。こんなやつ相手にしない方がいい」

 立ち上がるように、葉子を促す。おずおずと歩き始めた葉子を松原の視界から隠すように、要は葉子の肩を抱いた。

 踵を返したその時、視線の先に――八重が、いた。

 八重がこちらを見ている。氷のような冷たい瞳で、要と、葉子をじ、と見つめている。

「八重……」

 その言葉に、葉子がはっと顔を上げた。

「八重、違う」

 声を上げながら、要はうっすらと期待する。怒るだろうか。八重はその氷の表情を溶かし、どういうことだと自分に詰め寄ってくれるのではないか。

 八重はすう、と息を吸い、そのままゆっくりと吐き出した。そして、姿勢を正したまま、ゆっくりと――まるで何もなかったかのようにゆっくりと、二人の横を通り過ぎて行った。

 鼓動が激しい。息がうまくできない。目の前が暗くなっていくのを感じて、風呂敷を持つ手で胸を押さえた。

 心臓が冷たくなっていく。

 大丈夫だ、八重は気にしない、と口ではそう言っていた。そう思ってもいた。しかし、実際にそうであると突き付けられた現実は、要に思った以上の衝撃を与えたのである。

 やはり、八重は自分のことなど――。

「要さん!」

 葉子だ。何やら緊迫した声で、肩に回された要の手を外そうともがいている。

「早く、逃げて」

「な、なに」

「早く!」

 その声と重なるように、幾重いくえの悲鳴が上がった。

 要は振り返り――。

 衝撃が、走った。何か、ひんやりとした物が――鋭い氷のようなものが――腹から背中にかけて刺さっている。

 身体がじわじわと熱くなる。足に力が入らなくなり、もつれるようにして地面に倒れこんだ。熱い。だくだくと熱い液体が流れ出ていく。震える手でそれを触り、理解した。刺された、何かに。刺されたのだ。

 体中が引き裂かれるような激痛に、声なき声を挙げた。

 痛い。

 体が急速に冷えていく。頬の下で、雪交じりの砂利がざらざらと音を立てる。

「ざまあみろ!」

 言い捨て走る後ろ姿が、徐々に霞む。地に落ちた風呂敷がほどけ、藍染めの羽織が毒々しい色に染まっていった。

 ――た、あなた……!

 半狂乱の声が耳に届く。あの声は、八重ではないのか。

「や……え」

 冷たい手が、頬を撫でた。ひいやりと気持ちいいその感触に要は微笑んだ。目がかすむ。もう光も入らない暗い闇の中で、その冷たいてのひらだけが要をこの場に繋ぎとめている。

 ――……なないで、死なないで……

 八重の声だ。要のために、必死になっているのか、泣いてくれているのか。

 体がゆっくりと沈んでいく。もはや痛みも感じない。ただ、静かな冷たさだけが、要をしんしんと包み込んでいた。

 ――時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい。

 葉子の声が脳裏によみがえる。本当にその通りだな、と要はそっと苦笑した。

「やえ」

 頬に、ほたりと落ちたのは、涙だろうか、それとも雪か。

「ごめんな……」


 しらしらと雪が降る。

 雪が降る。

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