第6話 雲外鏡
彼女の絵は正に鏡であった。
高校二年生までの
幼い頃より、絵を描くのが好きであった。好きこそもののとはよく言ったもので、好きから得意に変わるのはそれほど遅いことではなかった。描けば描くほど上達し、上達すれば描きたくなった。楽しかった。思う線が描けたとき、思う色が出せたとき、希美はただひたすらに、喜び、はしゃぎ、そして満足した。
もっと描きたい。専門的に勉強したい。そんな思いが芽生えるのも当然であった。それで、中学卒業後、美術専攻のコースがある学校に進学したのである。
そこで、出会ったのが
最初に席が隣になったこともあって、美由紀とはよく喋るようになった。彼女は、ほわりとしていて、危なっかしい。
「美由紀、ほら、ちゃっちゃと食べちゃってよ。もう移動しなきゃ」
「うん、ごめんねのんちゃん」
「ちょっとご飯粒落としてる」
「あっ」
「焦んなくていいよ。私、待ってるから」
「ありがとう。いつもごめんね」
ありがとう、ごめんね。彼女の使う二大用語は感謝と謝罪。何をするにもおっとりで、人より時間がかかるタイプ。謙虚で、呑気で、笑みを絶やさない、美由紀はそういう子であった。
「のんちゃんの絵はすごいなあ」
美由紀は希美の絵を見る度に、感嘆の息を吐く。
「本当に綺麗。わたしこんな色出せないもん」
「ありがと」
「うん、わたし、本当にのんちゃんの絵、好きだよ」
そう言って、彼女はにっこりと笑うのだ。
そんな美由紀の描く絵は、いっそ手抜きと言われてもいいくらいにシンプルなものであった。白いキャンバスの隅、あるいは真ん中に、描かれた四角形。
それは大きかったり、小さかったり、一つだけだったり、沢山連なっていたりしたが、いつも必ず四角であった。
当時希美は色を作ることに執心していて、キャンバスを色で埋め尽くすような絵ばかりを描いていたものだから、美由紀の絵のよさが全くと言っていいほど分からなかった。特に難しい技法を使うわけでもない。色もほとんど作らずに、既存の物だけで描いている。
「まだ終わらないの」
「うん……ちょっと」
「もう提出しないと。時間だよ」
「うん……」
課題で隣の席になった時、キャンバスを前にうんうん唸る彼女を見て、希美は笑った。
何を悩むことがあるのだろう。ただ四角を描けば、その課題は終わりだろうに。
最終学年になった時、希美と美由紀は同じコンクールに参加した。学生だけのコンクールだが、全国規模のもので、そこに入選するだけで大したものだと言われる大会であった。
「
担任の教師もそう太鼓判を押してくれた。
「上位三名は大学推薦枠だから、まあ大丈夫だと思うけど、頑張ってね」
出品したものは希美にとっても自信作で、緑と青をふんだんに使った、宇宙をイメージした絵であった。我ながら良い色だ、と、希美は
入選は確実だと教師も言っている。もしかしたら金賞も狙えるのではないだろうか。大学にも推薦で入れるし、この賞を取れたら自分の名にも箔がつく。夢であった個展も開けるかもしれない。大学に通いながら画家として名をあげることもできるのかもしれない。
胸をときめかせながら発表の会場に行き、そこで目にしたのは、金色の、大きな額に入れられた――美由紀の絵。
中央に、黒縁で描かれた四角。ただそれだけの作品。
『鏡』
一文字で描かれたタイトル。
その右横には、自分の絵が飾られていた。銀色の枠に入れられて、明らかに美由紀のものよりも、一歩下がった展示をされている。
状況を理解するのには、少々の時間を要した。つまり、美由紀のこの絵が金賞で、自分は銀だということだろうか。こんな、たかが四角を描いたものが金で、自分が銀……。
――いやあ、素晴らしい。
そんな声が耳に入った。ぎこちなく横を見る。品のよさそうな老夫婦が、しきりと頷きあっていた。
――銀の子のもいいが、わたしはこちらの方が好みだな。
まさか、美由紀の絵の事を言っているのだろうか。
自分の絵よりも、たったひとつの四角の方が評価されている。色だって、構図だって、自分の方がしっかり描いているのに、何故。
その後、作品の返送とともに、自作の評価が届いた。
『色遣いが素晴らしい』『構図が計算されている』『技巧派』など、きらきらしい誉め言葉が舞う評価であった。
それなのに、美由紀が金で自分は銀なのだ。
希美は、返ってきた絵と、その評価を、火にくべて燃やした。
立派な額に飾られた美由紀の絵が、頭から離れなかった。
時間をかけて、丁寧に、全力で取り組んできたつもりだ。構図も、色を作るのも努力した。今までで一番の自信作だったのだ。その自作よりも、たった一つの四角に自分は負けた。
いったい、彼女の絵の何が評価されたのだろう。自分と比べてどこが秀でているのだろう。技巧。色使い。構図。それが優れていたとしても、美由紀の四角には劣るのだ。それでは、もう、絵なんて勉強する意味がないではないか――。
話をいただいていた美術大学を蹴り、夜間の専門学校へ通うこととなった。元々あまり裕福な家庭ではなかったので、推薦を貰える大学を蹴ったことは希美の家庭にとっても大打撃だったようだ。そこを何とか、と、お願いして、夜間の学校ならと折れてもらったのである。
調理師の専門学校だ。ずっと絵ばかりを描いてきたので、その絵を失くした自分には、もう何も残らない。それならば手に職をつけよう。そう考えての事であった。
「のんちゃん」
卒業証書を持った彼女が言った。
「嘘でしょ」
「なにが」
「大学、蹴ったの?」
「誰に聞いたの」
「ねえ、なんで?」
「一身上の都合」
「そ、そっか……」
沈黙が重かった。美由紀は、そっと上目遣いで希美の様子を伺っている。そのおどおどとした態度が、希美の感情をどんどん逆撫でしていくのだ。黒い感情が、ふつふつと溜まっていく。
美由紀は何回か口を開け、閉じ、絞り出すように言葉を紡ぎ出した。
「でも、どこに行っても描くのは続けられるもんね! のんちゃんの絵ならどこでだって通用するよ」
「ねえ」
もう聞きたくなかった。
「わたし、のんちゃんの絵が」
「やめてくれない? そういうの」
今の自分は、きっと醜い顔をしているだろう。
「美由紀。私ね、あんたのそういうとこすごく嫌」
「え?」
「もう、顔も見たくない」
美由紀になんて、出会わなければ良かった。そしたら、絵筆を折ることもなかっただろうに。
大きく見開かれた美由紀の目には、希美が映っていた。その自分の表情を、希美は一生忘れることはないだろう。衝撃、絶望、怒り、悲しみ、嫉妬、あらゆるマイナスの色を浮かべたその顔。
美由紀の瞳から、みるみる涙が盛り上がった。一粒零れる。その涙にも、希美の顔が映りこんでいた。大きく歪んでほたりと落ちる。
醜い。なんて醜いのだろう。
専門学校に入学してすぐ、希美はカフェでアルバイトを始めた。夜間の学校は、昼に働くことができるのが利点だ。少しでも働いて、学費の足しにしなければならない。これは両親と交わした約束のひとつでもあった。
そのカフェは、路地裏にひっそりと佇む隠れ家のような店で、メニューも豊富で味もいい。最大の特徴は、店内にアクアリウムが設置されていることだ。青い光で満ちた水槽の中を、カラフルな熱帯魚が優雅に泳いでいる。
このアクアリウムは、マスターの趣味なのだそうだ。
「業務に魚の世話もあるんだけど、大丈夫?」
面接の際に、マスターが、髭を撫でつけながら心配そうに言うのがおかしくて、希美は思わず笑ってしまったものだ。
グラスを磨きながら物思いに耽っていると、来店を告げる鐘の音。
「いらっしゃいませ」
女性だ。長身に、長い黒髪を靡かせた、二十代くらいの。細い体には、春風は寒く感じるのだろうか、革ジャケットを着こんでいるのが印象的だった。スキニーのジーパンに包まれた、すらりと伸びた形の良い足。
整った顔立ちに希美はハッとする。モデルか。少なくとも会社員ではないだろう。平日の昼だ。勤め人がふらふらするような時間ではない。では、学生か。いや、違う。歳は近いような気もするが、雰囲気が学生のそれではない。
彼女は物馴れた様子でカウンター席に腰掛ける。
お冷を出し、注文を取りに行くと、彼女は掠れた声で。
「いちごパフェ」
と、呟いた。
「マスター、いちごパフェ、ひとつ」
「あ、いつもの人か」
マスターは冷蔵庫から苺を取り出し、ほれぼれする手つきでカットを始めた。
綺麗な飾り切りだ。少しだけ果肉を残して細く切れ目を入れ、少しずつずらしながら盛り付けると、螺旋階段のようになる。希美も実習でやったことがあるのだが、思いのほか難しかった。特に熟した苺は潰れやすく、綺麗に切ろうとしてもなかなかうまくいかない。
「いつもの人?」
「そう、常連。べっぴんさんだよねえ」
話しながらマスターはパフェを仕上げていく。綺麗に完成したそれはまさに芸術品で、希美はほうと息を吐いた。
出来上がったパフェを持っていくと、その女性は顔を綻ばせた。その顔が心底喜んでいるようで、希美もつられて笑顔になる。
「失礼します」
希美が去ろうとした時であった。
「待って」
くいと服を引かれた。驚いて振り返ると、女性の真剣な瞳とかち合った。
「なんでしょう」
「鏡」
「……え?」
「鏡、に覚えがない?」
女性の、黒々と切れ上がった、涼しげな瞳に自分が映っている。
『鏡』
――美由紀の絵。
「……仕事中なので。失礼します」
失礼にならないように、その手を振りほどき、希美はその場を離れた。
バックヤードに戻ると、マスターが新聞を広げていた。一日中店に居ると言っていたから、チェックする時間が今しかないのだろう。
戻ってきた希美に、彼は人のよさそうな顔を緩めてこう言った。
「梶山さんは、今いくつだっけ」
「十八、ですけど」
「じゃあ、この子知ってる?」
「……え?」
「ほら、出身学校同じだよこの子。すごいねえ若いのに」
嫌な、予感がした。
マスターが喜色満面で差し出した新聞。その芸術欄に、彼女が。美由紀が、いた。少しはにかんで映っているその隣に、彼女の絵。
四角い、四角い。
「ちょっと、すみません」
思わず駆け出した。
洗面所に飛び込んで、ひたすら嘔吐く。
若き逸材。
新進気鋭の。
四角に魅せられた。
見出しが、頭の中を木の葉のように舞った。ぐるりぐるりとそれは竜巻のようになり、黒く、黒く踊っている。この感情はなんだ。このどろどろとした。淀んだ感情は。
気持ち悪い。
何かがぐるぐると渦巻いている。顔を上げた。洗面所の鏡に希美が映る。その顔が歪んだ。顔の中央に黒影が渦巻いて、ぶすぶすと煙を上げている。なんて顔をしているのだ。
醜い。
心配したマスターの計らいで、その日は早く上がらせてもらった。当然学校に行けるような精神ではない。休む旨を連絡し、帰宅することにする。
珍しく晴天であった。ここ数日は雨が降ったり止んだりで、じとりとしていた空気も今日で少しは乾くだろう。
桜並木の花はだいぶ落ちてしまったようだ。所々にできた水たまりをよけながら、希美は歩く。花の
茶色く変色した桜の花弁が、スニーカーに張り付く。
醜い。
足を蹴り上げた。どんなに蹴り上げても、その花弁は落ちなかった。無性に腹が立った。むしゃくしゃしながら希美は歩く。
びちゃり、びちゃり。
茶褐色の花弁をわざと踏むようにして、希美は歩く。歩道の中央に、大きな水たまりがあった。避けようとして、何の気なしに覗き込み――希美は、絶句する。
水たまりに映った希美の顔。その顔は、真っ黒く変色していた。吸い込まれるような黒さであった。
よく見ると、渦を巻いている。風呂場の栓を抜いたときのように、ゆるゆると巻いたそれは、どんどん勢いを増していく。
「あ……」
体が、動かない。
声が、出ない。
すり抜けた自転車が、不審そうにこちらを見た。
誰も気づかない。
黒い渦は激しさを増している。
駄目だ。
一歩、足が動いた。
ぱしゃり、と水たまりに波紋が広がる。
もう一歩。
ぱしゃり。
嫌だ。
吸い込まれる。
誰か。
――いやだ!
「駄目」
不意に腕を掴まれて、希美は大きくのけ反った。そのまま後ろ手に引かれ、とさりと抱き留められる。
視界の横に、黒絹のような髪が流れた。ふわりと漂う、花の香り。
「良かった」
耳元で、少し掠れた低めの声が安堵の息をつく。振り返ったそこに、あの人がいた。カウンター席に座っていた、いちごパフェの、綺麗な女性。
「良かった、間に合って」
そういって、彼女は笑った。ひどく慈愛に満ちた笑みであった。
「鏡は、良くないんだ」
公園のベンチに腰掛けて、その女性はぽつりと呟いた。
昼下がりの公園は、平和そのものであった。まだ小学校に上がる前くらいの子どもが、嬌声を上げて走り回っている。それを見守る母親たちの温かな視線に、凝った心が少しずつ溶けていくようであった。
「良くないって、どういうことですか」
「鏡は、映してしまうから。そして増幅してしまう」
「……え」
女性は、歌うように呟く。
「容赦がないね。こちらを全て映し出してしまうものだから」
「こちらを、全て……」
「隠しておきたいものも、心も、全部見えてしまう。厄介だよね」
希美は、俯いた。
鏡。美由紀の絵。
あの絵を見たときに、希美は暴かれたのだ。傲慢、思い上がり、蔑み。そして、嫉妬。そのことに希美は動揺した。描いていれば、しあわせだった。楽しかったはずなのに。いつから自分は、誰かと比べるようになってしまったのだろうか。
「私」
「うん」
「私、本当は」
「うん」
「描きたい」
「うん」
「描きたい……」
思いが鈴なりになって降ってくる。もやりとした夢が醒めるように、視界が開いていく。
ぽつり、と雨が降った。さっきまで晴れていたはずなのに。天を仰いだ。いや、今も晴れている。
「狐が、嫁を迎えたのかな」
そういって彼女は笑い、小さく歌を口ずさむ。
どこか懐かしい、柔らかな響き。低く高く響く歌の言葉の意味までは分からない。けれど、胸の奥に温かな光が灯るような、優しい音をしていた。
「大丈夫」
彼女の黒の瞳が細められる。
ふわりと漂う、花の香り。
目を閉じだ。この香り、知っている。春告げの花、沈丁花の香り――。
そっと目を開くと。
もう、その女性はいなかった。
「……のんちゃん?」
電話越しの美由紀の声は、怯えていた。当たり前だ。あんな言葉を投げつけてきた相手である。電話越しでも怖いだろう。
希美は息を吸い込んだ。
「ごめんね」
息に声を乗せる。少し震えたかもしれない。
「え?」
「ごめん」
「どうしたの?」
「私、酷いこと言った。ごめん」
「のんちゃん」
「新聞、見たよ、おめでとう」
息を呑む気配がした。挫けてはだめだ。美由紀に、きちんと謝らなければ。そうしないと、希美は戻ってこられない。
「私、あの時からずっと」
「うん」
「ずっと」
しっかりしろ。自分に言い聞かせる。
「あんたに、嫉妬してた。……本当にごめん。謝って許されることじゃないけど」
「のんちゃん」
遮った声は、思いもよらぬ柔らかな響きであった。
「のんちゃんから電話くれたってことは、仲直り、していいんだよね」
「美由紀」
「のんちゃん、ありがとう」
希美は電話を握り締めた。心から、あらゆる温かな感情が溢れ出るようであった。
「美由紀、私、描きたい。また、描いても、いいかな」
「え!? 本当!? 良かった!」
「怒らないの?」
「なんで? 前も言ったよわたし! わたしね」
美由紀はそこで言葉を切った。そして、晴れやかな声でこう言ったのだ。
「のんちゃんの絵、好きなんだ!」
敵わない、美由紀には。
自然と流れる涙を拭って、希美は微笑んだ。
「いやぁ、梶山さんに頼んでよかったよ」
「本当ですか?」
「うん。想像以上。すごいよ。常連さんにも褒められたんだ」
マスターは、大きく頷いた。
壁一面、上から下までを使って描かれた、大きな絵。青と緑の、宇宙の中に魚が沢山泳いでいる。その魚の呟く泡に、大きく描かれたメニューの名前が楽しそうに踊っている。
恐る恐る手を挙げてよかった。
店に壁画を描きたい、と言ったときは流石に驚いていたようだが、マスターは快諾してくれた。半月間、店を閉めての改装である。感謝してもし足りない。希美は頭が下がる一方であった。
「梶山さん、名刺、持ってないの?」
「え」
「常連さんの中にね、やっぱりお店をやってる人がいてね」
マスターは髭を撫でながらにやりと笑った。
「描いて欲しいそうだ。連絡先、教えてもいいかな」
それからというもの、希美の元には
ありがたい。自分の絵を気に入ってくれている人がいる、そのことがとても嬉しかった。
調理師の学校も続けている。こちらも身を入れてみると、絵に通ずるところがちらほらあって、とても面白い。
「飾り切り、上手くなったなあ」
「え?」
苺を切っていた時に、マスターがほとりと呟いた。
「前はぐしゃぐしゃだったけれど」
「マスター、それいつの話ですか」
「うんうん、若いっていいねえ」
しきりに頷くマスターをじろりと睨み、希美はパフェを仕上げた。
少しだけ、苺を盛ってある。マスターには内緒だ。
相変わらずの姿でカウンターに座る麗人を見て、希美はほくそ笑む。あの人はきっと喜ぶだろう。この間も、嬉しそうに苺を頬張っていた。今度は生クリームもこっそり増量してみようか。
今度の日曜日は休みを取った。美由紀の個展があるのだという。学生の身分で個展が開けるのだから、流石美由紀、といったところだ。
「楽しみだなあ」
声に出していたらしい。それを聞いたマスターが、新聞を捲りながら笑った。
「若いって、いいねえ」
季節は二回目の春を迎えようとしていた。
希望の春であった。
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