大嫌い
その日は酷く怠かった。普段から朝はそう目覚めが良い方ではないが、それにしても酷い怠さを覚え、エラは一度起こした身体をもう一度固いベッドの上に戻す。
くらくらと視界が揺れるのは、貧血というやつだろうか。熱でもあるのかと思ったが、指先はいつも通り冷たいまま。熱が出ているのなら、きっとこの指先まで温かくなっていることだろう。
「エラ、どうかした?急がないと遅れちゃう」
「うーん…なんだか体調が良くないみたい」
目頭をぐいぐいと押しながら、呻くような声を出す。心配したアメリアが、着替えながらエラのベッドを覗き込んだ。
「ちょっと、顔真っ青じゃないの。大丈夫?」
眉尻を下げ、心配そうにエラの額に手をやると、アメリアはその手を勢いよく引っ込めた。何故言葉を失っているのか分からず、エラは回らない頭で何か言わねばと言葉を探す。
「冷たい…ねえこれ何だか変よ!医務室の人呼んでくるから、このまま横になってて!」
バタバタと慌ただしく部屋を出て行ったアメリアに声を掛ける事も出来ず、エラはふうと小さく息を吐いた。
体調を崩すなんていつぶりだろう。ここ暫くは環境が一気に変わったし、身体が付いてきていないのかもしれない。成人の儀を行い、精霊に加護を受けた。突然軍人になれと士官学校に入れられる事が決まって、大好きな母はいなくなり、慣れない訓練生活。疲労が溜まっていても仕方ない。
もしかして軟弱者なんて詰られて、無理にでも訓練に引きずり出されるだろうか。もしそうだったらどうしようなんてぼんやり考えている間に、アメリアが医務室から人を呼んで戻ってきた。
「はいおはよう。どれどれ…」
眼鏡をかけた気だるそうな女。ぐったりとしているエラを一目見て、眉間に深く皺を寄せた。
「はー…成程ね。子供にはよくある事だよ。持ってる魔力保有量に対して身体がついて行けてないんだ。それで体調が宜しくない」
「対処法は…?」
「溜まってるもん出して寝る」
今日は訓練休んで魔力放出して寝ろと言って、女はひらひらと手を振って背中を向けた。だが、言い忘れたと体を戻し、警告するようにエラの顔を指差した。
「見た感じ馬鹿みたいな魔力量だから、周りに人がいない所に行くんだよ。同期を殺したくないだろう?」
そう言って、今度こそ女は部屋を後にする。残されたアメリアがオロオロとしているが、エラもどうすれば良いのか分からないのは同じだ。魔力を放出しろということは、取り敢えず魔術を使っていれば良い。魔力切れで倒れる術者の話は時折聞くが、その手前まで力を使えば、この怠さから解放されるのだろうか。なんにせよ、体調が悪い時にまだ制御しきれない力を人の傍で使いたくなかった。
「ごめん、アメリア。教官に伝えておいてくれる?」
「うん、わかった」
「東の…演練場の森にいるから」
ふらつく体を無理矢理起こし、青白い顔で笑顔を作る。心配そうなアメリアはエラを一人にする事を躊躇しているようだが、ただここで一人横になっているだけで解決しないのならば仕方が無い。アメリアに訓練をさぼらせるわけにはいかないし、早く行けと手を振った。
◆◆◆
森の中にいるのは失敗だったかもしれない。そこかしこの木が凍り付き、まるで真冬の実家のようだった。
「さむ…」
氷の柱に囲まれながら、防寒具も身に付けていないエラは小さく呟いた。
朝からぶっ通しで周囲を凍らせ続けて数時間。漸く眩暈が落ち着き、疲れから来ているであろう眠気に抗えない。柱達の中央で、折れてしまった元柱に腰かけると、膝を抱えて蹲る。
寒い、眠い、疲れた。
それしか考えられなくなってどれ程経っただろう。沈んでいた意識がフッと浮上する。そっと周囲を伺うと、空は薄暗くなっていた。もう冬も近く、日が短くなっているとはいえ、流石に長い時間一人になりすぎた。朝から何も食べていないし、そろそろ空腹だ。
「あーあ…」
落ち着いて周りを見てみれば、自分がやった仕業を目の当たりにした。
凍り付いてしまった木々に、氷で出来た柱が幾本も地面に突き刺さる。やれやれと掌を叩き氷を砕いた瞬間、目の前がぐらりと揺れた。その場に倒れ込んだまま動くことが出来ない。何が起きているのか分からないが、ひたすら回っている世界に耐えるしかない。ぎゅうと目を閉じてみても、体ごと転がされているような気さえした。
寒くて寒くて堪らない。ガチガチと奥歯が当たる音がする。震え続ける体を必死で抱きしめてみても、摩ってみても、何の誤魔化しにもならなかった。
誰でも良いから助けて。アメリアに場所もきちんと伝えたし、暗くなっても戻っていないのなら、誰か気付いて探しに来てくれるかも。そう考えながら、必死で体を丸めて寒さに耐える。
無意識にフーフーと荒くなる呼吸。このまま自分の体は凍り付くのだと思った。現に、エラの体が触れている地面がパキパキと小さな音を立てながら凍っていく。それをぼんやりと眺めていると、ふいに頬に触れた温もりがあった。
「どうしたんだ」
眉根を寄せながら顔を覗き込んできたのは、アルフレッドだった。訓練が終わってすぐに探しに来てくれたのか、まだ訓練着を着たままだ。
「魔力暴走だって?朝から発散してまだ足りないのか」
呆れたように笑いながら、ガクガクと震え続けるエラの体を抱き起こすと、アルフレッドは持ってきた外套をエラに巻き付け、上から抱きしめた。
異性に抱きしめられるという経験が無い。生まれて初めての経験だったが、今はそれどころではない。与えられる温度を必死に求めた。体を摺り寄せ、優しく抱きしめてくれるアルフレッドの背中に腕を伸ばす。寒くて堪らない。本当は、とても心細かった。
「意外と積極的とか揶揄うと凍らされるんだろうな…」
口に出している時点で駄目だ。お望みとあらばあとで幾らでも凍らせてやるのだが、今はそれどころでは無い。一度落ち着いた筈なのに、どうして朝よりも酷くなるのだろう。
寒くて堪らないし、回る視界に気分が悪い。吐き気すら覚える眩暈が辛くて堪らず、ついにエラの目から涙が零れ落ちた。
腕の中にいる女が突然泣き出したせいか、アルフレッドが珍しく慌てだす。何に謝っているのか、只管「ごめん」と繰り返しながら溢れては流れて行く涙を袖で拭ってくれた。
「俺は魔力とか魔術とかよく分からないけど、発散すれば収まるんだろう?また酷くなったなら、もう一度発散してみれば良い」
やってみろと言うが、友人ごと凍らせてしまうかもしれない状況で、はいそうしますと魔術を使う気にはなれない。真面目な顔で早くしろと急かされても困るのだ。ぶんぶんと首を横に振ったことで、魔術の制御が下手な事を思い出したのか、アルフレッドはエラを落ち着かせるようにゆるゆるとエラの頭を撫でながら静かに語り出した。
「前にグレース様が言っていたんだ。お前は魔術の事は分からないだろうけれど、魔術というのは練度を上げれば楽しい事が出来るんだって」
巨大な柱を作るか、凍り付かせるしか出来ないこの力で、どんな楽しい事が出来ると言うのだろう。そもそも、国内で随一と謳われる王妃と同じ括りに入れないでいただきたい。そう抗議したくとも、今のエラは必死に寒さと眩暈に耐えるしかないのだけれど。
「体の中を流れる魔力をイメージして、指先からゆっくり外へ流すんだって。流れ出た魔力が形を持って、それがどんな形なのかをイメージする。そうすると、攻撃するだけじゃない、人々を楽しませるような事だって出来るんだって言ってた」
義理の母とは微妙な距離感だろうに、随分と微笑ましいエピソードを聞いた様な気がする。昔遠くから一度見た、儀式用の衣装に身を包んだ王妃が、水の精霊へ捧げる舞を踊りながら自身の魔術で水の花を咲かせていたあの姿を思い出す。なんて美しいのだろうと、何度も拍手をした覚えがあった。
あの花はなんという花だったのだろう。丸い花びらが印象的な、あの花は。水で出来ていたから、本当にある花なのかすら分からない。もしも、あれが氷で作れたのなら。少しは王妃のような、優秀な魔術師になれるだろうか。もしそうなったなら、王家に囲われることなく、好きに生きていけるのだろうか。
こんなに苦しい思いをしなければいけないのなら、こんな力なんていらない。大嫌いな白銀と共に、家も力も全て捨てて何処かへ逃げてしまいたかった。
好きで白銀を持って生まれたわけじゃない。
好きでこんな力を手に入れたわけじゃない。
望んでなんていない。もっと平凡で、変わり映えのしない、退屈を恐れるような生活をしてみたかった。
「ほら、エラなら出来るからやってごらん。そのままいたって苦しいだけなんだろ?」
白銀も魔力も持たないアルフレッドが羨ましくなった。勿論、彼には彼の抱えていたくない事情がある。それはよく分かっているのに、どうして自分だけという理不尽な怒りが頭の中を駆け巡った。
どうして、こんなの要らないのに、何で私が。望んでなんていない、自由にしてほしい、好きに生きたい。どうしてそれを許してくれないの。どうして、大嫌いな王家の一員に抱きしめられているの。どうして、こんなにも居心地が良いの。
何も考えたくない。考えれば考える程、苦しくて堪らなくなるからだ。怒りと困惑と、寒さと眩暈と吐き気に耐えられなくなり、エラは身体の中に溜まる「何か」を外へと吐き出した。
先程のアルフレッドの言葉を借りるのなら、「溜まっていた魔力を背中から外に放出するイメージをした」とでも言えば良いのだろうか。ただ、友人を凍らせずに力を放出したいだけだった。
「凄い…」
空気が冷え切って行くのが分かる。背後でパキパキと音を立てているのが、自分が作り出した氷なのだという事も、頭の片隅で分かっている。まだ収まらない寒気を体の中から追い出したくて、エラは泣きながら何度も同じ事を繰り返す。
花がどうだとか、今はそんな事どうだって良い。どうせ考えたところで、魔術を上手くコントロール出来ないのだ。花など作れるはずが無かった。
「う、うー…!っう、ぐ…」
「もう少し可愛く泣けないのかお前…」
「煩い!王家なんか大嫌いだ!私はエラであって月なんかじゃない!」
わあわあと喚き散らしても、アルフレッドを困らせるだけ。そんな事分かりきっているのに、口をついて出てくる文句は止まってはくれなかった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を異性に見られるのは恥ずかしかったが、掛けられた外套を頭から被って隠す事にした。元より、アルフレッドはしっかりとエラを抱きしめているせいで、泣いている顔は見えないのだが。
「皆、大嫌い」
ぽつりと零した言葉に、エラを抱きしめるアルフレッドの腕に力が籠る。普段ただの問題児なエラしか見て来なかったが、思っていたよりもエラが弱く、脆い少女なのだと思うと、どうしたら良いのか分からなかった。
「俺は、エラが好きだよ」
ぎゅうとエラの体を抱きしめ、肩に顔を埋めたまま、ぼそりと言葉を零す。
「皆大嫌いでも良いから、俺とザックは好きでいて」
全部を拒絶して、独りぼっちは寂しいから。ただそういう意味を込めての言葉だったのだが、年頃の少年にとって異性に向けて言う「好き」という言葉は、何となく気恥ずかしいものがあった。
その気恥ずかしくなる言葉をどう思っているのか分からないが、腕の中に納まる少女は何の反応も示さない。
「エラ?」
泣き疲れなのか、それとも充分に魔力を発散できたせいなのか、規則正しい呼吸を繰り返しながら、涙で濡れた顔の少女は眠っていた。氷漬けになった森の中で眠れるとは、どんな神経をしているのだろう。
仮にも年頃の二人が異性同士で、しかも密着している状態であるというのに、警戒心の欠片も抱かないとは如何なものか。言いたい事は色々あったが、眼前に広がる恐ろしく巨大な氷の壁に、アルフレッドは溜息を吐いた。
「もっと普通の女の子だったら良かったのに」
ぽつりと呟いた少年の声は、冷たい森の中に静かに吸い込まれていった。
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