第5話 不倫の噂
「あの人、
また指示書に変更があり、待機時間になったときでした。いつも通りみんなでお喋りタイムです。
組み付け作業者に菊池さんという、綺麗な女の人がいました。年齢は恐らく五十代、綺麗なお顔で喋り方も上品で、お召し物もおしゃれな方です。
菊池さんはエリート間接部門にいたのですが、なぜ現場に配属になったのか誰も知りませんでした。
「間接部門にいたとき、上司と不倫してたらしいよ。しかも県外で会ってるところを見られたんだって」
「えー、それで女のほうが飛ばされたんだ」
「だからあんなに綺麗なのに独身なんだ」
女子社員は口々に言っています。菊池さん、確かにあんなに綺麗で独身なら、男は放っておかないかもしれません。菊池さんとは少し、話したことがあります。
菊池さんはお洒落な飲食店を知っているし、爪にはネイルを施しています。喋り方も可愛らしくて、家ではワインを飲んでいるそうです。おつまみはチーズだと言っていました。イメージ通りです。
菊池さんがいた間接部門は人事課というところで、美女だけが配属されるという課です。女の園で女の闘いが繰り広げられていたと思われます。仕事量も、なかなかのボリュームだと聞いています。
仕事と同僚のストレス、そのなかで男遊びをしたくなる気持ちが、分かる気がします。今の私なら。仕事量もですが、人間関係が一番面倒だと思うからです。
でも不倫はいけません。県外に行ってもバレるんですから。特に社内不倫の噂は絶えません。絶対に、バレるんです。バレなくても、もちろんやってはいけないことです。
こちらはルールと規律に沿って仕事を進めます。それに準じない人には声をかけなくてはなりません。はい、と素直に聞く人ばかりではありません。
私は作業者と上司と間接部門の担当者全員と関わります。ときに人の悪意に触れることもあります。言葉や態度で攻撃されることもあります。それも仕事の一部なのです。
そんななか、柏木さんは唯一のオアシスでした。
〇
今日は急遽、棚卸しをすることになりました。誰がどの部品を担当するか、割り振りをしました。チーフと相談して、比較的仲の良い人をペアにしました。
柏木さんは来たばかりなので、特に仲の良い人がいませんでした。なので、同じく来たばかりの
棚卸しが終わり、また待機時間が生じました。私も特に今はやることはありません。チーフも作業者もお喋りタイムになっていました。
最近人に疲れてきたので、みんなとお喋りという気持ちにはなれませんでした。散歩でもしてこよう、そう思い廊下に出ました。
「小川さん」
休憩所近くに来たら、柏木さんに声を掛けられました。どうしたのでしょう、険しい表情をしています。
「寺内さんと棚卸し、やりづらかったです。あの人、俺とは合わないです。人選ミスですよ」
いつも笑顔の柏木さんが、口をとがらせています。なんでも寺内さんが話し好きで、喋ってばかりで棚卸し作業がはかどらなかったそうです。
私は全部品のデータ集計をしていて気づきませんでした。人間関係が一番面倒だと分かっていたのに集計ばかりに目が行き、そこに気を配れませんでした。
「ごめんなさい、私の
私は頭を垂れて謝りました。
「……小川さんのミスなの?」
「はい……私が柏木さんと寺内さんをペアに決めました」
顔を上げられません。本当に、申し訳ない気持ちです。
沈黙が続きました。どちらが先に、言葉を発するのでしょう。そう思っていたら、体を引っ張られました。
「これでチャラね」
私は柏木さんにハグされていました。けれどもそれは一瞬でした。
私と体を引き離したあと、柏木さんは笑顔で私を見つめました。
とてもドキドキしました。誰かに見られたらどうするのでしょう。
そう思っても、私は周りを見ようとは思いません。柏木さんの目を見つめ続けるばかりでした。
「それじゃ」
少し分が悪そうに、照れたように笑いながら、柏木さんは去ってゆきました。
触れたい。もっと触れたい。柏木さんに触れたい、触れられたい。瞬間的に思いました。
けれども、触れてはいけない。
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