情緒にして暮れなずむのであれば。啼く鹿。

エリー.ファー

情緒にして暮れなずむのであれば。啼く鹿。

 山の中を歩いていると、自分の立っている場所を再確認したくなる。

 どこにいるのか、何をしようとしているのか。

 方向というものの定義すら見失う。

 時間を大切にしておきたいのに、自分の手から一秒が、一分が、一時間が零れ落ちていくような感覚。

 でも。

 悪くない。

 それが山の中で自然というものを感じるということなのだ。

 私一人しかいないから、今日という日の歴史が静かに積みあがっているのは言うまでもない。遠ざかる獣道に、自分の匂いが付いたことを確信するような月日が必要なのだ。

 珈琲飴を舐めた。

 美味しかった。

 人工的であればあるほど、興奮してしまう性癖である。控えめに言って、着色料と保存料が、私を絶頂させてくれる。

 遠くに首を吊ろうとしている人が見えた。

 崖の所の、木。

 木が可哀そうだ。

 あんなに重いものをぶら下げなければならない。

 止めるべきか。

 いや、面倒だ。

 私は川の近くで見つけた自分よりも一回り大きい岩に座った。少しだけ湿っている。雨が降るかもしれないので、用心だけはした。

 季節は夏だったか秋だっか。忘れてしまった。自然というものの中に身を置くと、細かい情報が入ってこなくなる。

 自分が、薄気味悪い何かに、変わっていく。

 邪な感情だけが私を自由にしてくれる。

 もし、ここに誰かと繋がるための手段があったら台無しなのだ。こうして、いつでも死ねるという時間が大切なのである。熱い珈琲はないので火傷ができない。ナイフがないので首を切ることができない。マッチのライターもアルコールランプもバーナーもないので焼身自殺もできない。

 誰の目にも触れていない時間が過ぎているので。

 死んでいることと、そんなにかわらない。

 会話をしたくなるが、ここは我慢しなければならない。この孤独を味わって、いずれ訪れる死までの準備を行うのだ。メモ帳の端に書き込んだ、自分宛の遺書を丁寧に読み込むように寿命を消費する。

 こうでなければならない。

 自己陶酔の先に見える自分の墓に何を書くべきか、記すべきか考えなければならない。

「田所か」

 後ろから野太い声が襲ってきた。

 しかし、私の心が揺れたとしても、それは身体的な震えにはならなかった。

 振り返ることはしない。

 聞こえているし、言葉は伝わっている。

「何でしょうか」

「警察だ」

「だから、何の御用でしょうか」

「ヒエゼンビルの大規模な火災があった」

「知っています」

「死者だけでも」

「数百人ほど、だそうですね」

「詳しく聞かせてもらおうか」

「それは、優しい言葉なだけですか」

「お前、犯人だな。放火したな」

「はい」

 田所という名前は二年前に捨てたものだ、と説明しようかと思ったがやめた。どうせ、理解はしてもらえないだろう。あくまで、日記に書いて自分に宣言したようなものだし、詰めても仕方ない。

「よく燃えましたよ」

「あぁ、大惨事だ。令和の三大凶悪事件に入ると言われている」

「いえ、燃えたのはビルではありません」

「何が言いたい」

「私の心がね。つける前から燃えましてね」

 山が鳴っている。

 鹿の代わりに烏が大量にやって来て、空を埋め尽くす。真夜中のようだ、とは思わない。黒く塗ろうとしても青い脅迫によって、無意味に散っていく。

「捕まえてください。飽きました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

情緒にして暮れなずむのであれば。啼く鹿。 エリー.ファー @eri-far-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ