第5話 官能作家
ベットの中で寝そべってスマホをいじっていたら、横に寝ていた彼がそれをのぞき込んできた。
「何してるの?」
「いまの衝動を書き留めておこうと」
「どれどれ、文学の先輩に見せてみ」
「いやですよ、あなただってネタ帖見られるの嫌でしょ? 昔、あなたの部屋でそんなことしていたら……」
「隠し事されるの、好きじゃないな」
彼が僕の頭を愛おしそうに撫でる。
少しため息をすると、彼が言った。
「聞いていいのかわからないが……。こないだの短編、中年の男性作家と若い男の不倫物。あれは、私との……」
「そうですよ。いやだったですか?」
「いやというか……。物書きの業を感じたんだ」
「業?」
「フィクションにしろノンフィクションにしろ、物書きは自分が体験したことしか書けない。想像ですら現実の延長だ。そんな自分を世間に切り売りし、どうか見てくださいと叫びながら自慰にふける。そんないやしさが物書きの業だよ」
「でも、僕はそれが好きですよ」
「私はそういうお前が好きだよ」
「愛されてますね、僕」
「嫉妬だよ」
唇を奪われる。彼の舌と僕の舌が唾液の糸を引き、いやらしく絡んでいく。その触感が僕の体を深く高く高揚させていく。
彼は僕の唇を手放すと耳元で静かにささやく。
「唇のあいだをたどっていった。二度三度行きつもどりつした。唇の外側が乾き気味だったのに、中のしめりが出てきてなめらかになった」
(川端康成『眠れる美女』)
僕はくすりと笑う。
ああ、この人のことがどこまでも欲しいな。彼の才能と身体をどこまでも。
「持て余すほどの欲情はいま生まれたのではなくて眠っていただけだと知り、砂地から水辺へ駆けるように落ちていく」
(島本理生『ナラタージュ』)
僕が美しいと感じた濡れ場の一節を言い返す。彼もまたくすりと笑った。私を抱き寄せ、耳元に舌に這わせる。
「うるおいのある唇や滑かな舌の端が、くすぐるように舐めていく奇怪な感覚は恐ろしいという念を打ち消して魅するように私の心を征服していく」
(谷崎潤一郎『少年』)
彼に声を出させられ、言葉が途切れ途切れしか聞こえなかった。くやしい気分になり僕は喘ぎながら語る。
「何もかも私になればいい。何もかもが私に溶ければいい。私の中に入って私のことを愛せば良かったのに。」
(金原ひとみ『蛇とピアス』)
僕は彼を迎え入れようと腰を浮かす。僕は彼の全部が欲しくなり、彼の身体に懇願する。やがてそれがなされ、彼の切ない顔に僕は彼の奥さんの顔をちらりと思い出し、勝利の暗い愉悦を感じた。
作家たちがさらけ出した官能のなかを僕らはたゆたっていく。それは淫靡で享楽的でふしだらだ。人が目を背けるほどの。やがて世界はそれを嫌でも知ってしまうはずだ。僕らの筆がそうさせるから。
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