第33話 迎えと噂

 夜中に、トラウベの町にあるベッカー家の別宅に侵入するのは、難しいことではなかった。

 もう着慣れて、こちらの方が落ち着くようになってしまった、くすんだ緑色の軍服を着て、モニカ、ステファン、アルノー、イレーネの四人は屋敷の柵を超えた。一応、高さ3m近くある柵なのだが、モニカの花弁の結界を階段代わりにすると、さほど苦労することなく登れた。

 そのまま屋敷に向かうと、モニカは南側に面した窓を眺め、やがて一つを指差した。


「二階のあの部屋だと思います」


 ここまで来ると、モニカの独壇場である。他の三人は付いて行くだけだ。

 モニカはここでも結界を階段代わりにして登り、そっと窓から部屋の中を覗き込んだ。見覚えのある姿を見つけると、下の三人に合図を送る。


 コンコン、と窓をノックすると部屋の主は簡単に窓を開けた。


「……モニカ、どうしてここに」


「来たかったから来たんです。それだけです」


 モニカはオリヴァの様子を窺った。寝間着用のローブを着て、困惑している。部屋には他に人はいないようだ。


「隊に戻って、隊長に合流しましょう。僅かでも戦力になるはずです。それとも、あなたの目指したいものは、父親に反対されたぐらいで諦めてしまえるのですか」


「僕が戻っても、大したことはできないよ」


「私だって、怪我した時は、自分の無力さを痛感しました」


 最近ようやくまともに動ける程度に回復したモニカは、強気だった。


「でもそこで諦めてはいけないんです。一人でも多くの味方がいた方が、隊長だってきっと喜んでくださいます。戦いましょう」


 そう言いながらも、モニカは心の中で、戦場に行くことを決めた本当の理由を思い出していた。



 モニカは物心付いた時から孤児だった。そんな子供は、街では掃いて捨てるほどいた。小さな仕事をして、何とか生き延びていた。いつもお腹が空いていた。生きることだけが目的で、他は目に入らなかった。

 そんな彼女が夕暮れ時に道を歩いていると、後ろから馬車が走って来て、轢かれそうになった。馬を操っていた御者は怒ったが、中に座っていた少年が、それをやめるよう言った。少年は馬車から降りて、淑女に対するのと同じように、モニカに手を差し出した。


『大丈夫?』


 それがオリヴァだった。以来、彼の温情で、モニカはベッカー家のメイドとして働くようになった。



「私はあなたが、この戦いで何を手に入れるか見たいんです」

(あなたに拾われた身として、お坊ちゃん育ちのあなたが何処まで行けるかを見届けたいんです)


 小さな頃からモニカは、世の中に希望などないと思っていた。生まれ付きの地位や財産、才能があって、努力しても越えられない壁がある。しかし、オリヴァが無邪気に夢や理想を語るのを見ると、全てに恵まれた男の心をへし折ってやりたいと思うと同時に、彼に付いて行きたいとも思うのだ。


(この世界に希望があるというなら、それを私に証明してください)


 声なき言葉は胸に仕舞い込んで、今度は自分から手を差し出した。



 モニカの言葉に、オリヴァは大きく心を動かされたようだった。


「――わかったよ」


 オリヴァはそれだけ言うと、ベッドの下から背嚢を引っ張り出してきた。没収されなかったのか、それともこっそり荷物に混ぜ込んだのだろう。動物の皮で作られたそれを開けると、替えの軍服が出て来る。


「僕も大概たいがい諦めが悪いな。あの血塗れの戦場に、自分から行くなんてね」


 ルディの命を飲み込んだ戦争に、終わりをもたらす為に行くのだ。



 第五師団の参謀として働いていたナハトは、与えられた自室で頭を抱えていた。ヴァルヌス要塞を取り返した後も、いくつかの小規模な戦いで指揮を執り、勝利へ導いた。その功績で中尉に昇進したのは良いが、その頃から兵士達の間で噂が目立って来た。やれ、ナハトは少将のお気に入りだの、毎晩ベッドに連れ込まれているなど、本人がいない所で喋っているはずなのに、自分は知っている。


「軍隊っていうのは、男所帯だし、楽しみも少ないから、そういう話が出やすいのは知ってたけど」


 昔のジークムントにいた頃には、みんな気心が知れた少人数だったから、そんな噂など聞かなかったが、こうして自分が実際に体験するとなかなか辛い。しかし自分から配属替えを申し出たら、逃げたと思われるだろうし、フェリクスを置いていくのも気掛かりだ。実際、ナハトよりまともに計画を立てられる人材は、第五師団にいなかったのだ。


「もう少し我慢するか……」


 人の噂も七十五日。しばらくすれば落ち着くだろう、とナハトは思った。実際は、その前に事態が急変するのだが。



 同じ頃、タークも仏頂面で悩みを抱えていた。散々考えていたのだが、とうとうエルナに話すことにした。


「あのさ、お前」


「何?」


 エルナは、いつもより歯切れが悪いタークを訝しむように答えた。


「俺をずっと護衛にしとくの、やめないか?」


「は?」


 エルナにとってはタークは、軍の中で最も信頼できる人材、いや人の形をした道具だ。


「軍の内部で噂が飛び交ってる。俺とお前が恋人同士だってな」


「こいび……!」


 驚きのあまり、エルナは口をパクパクさせた。


「夜も昼も警護してりゃ、そりゃ噂も立つよな。他にも多少は信頼の置ける兵はいるんだろ? たまにはそっちに替えてくれ」


「それはできるけど……」


「こんなこと言いたくねえが、女が結婚前に変な噂が立つと、面倒だぞ」


「私が男だったら、大したことでもないのに」


 エルナは長い赤髪を弄っていた。久し振りに、男尊女卑の弊害を感じたらしい。


「それと、俺も実戦に出たい。近頃体動かしてないから、鈍りそうだ」


「そっちが目的だったりしない?」


「両方だよ。あと、ついでに一つ」


 タークは、問題が解決したついでに、もう一つの話を始めた。


「何かしら?」


「お前、今の戦況をどう思う? 北から南までずいぶん戦線が広がり過ぎてないか」 


「そうね。兵力はこっちの方が上なんだから、数で押すのは間違ってないと思うんだけど」


「あの軍人共は、何処か一箇所穴が開けばいいと考えてるんだろう。そうすれば、戦争が早く終わるからな。ここで問題だ。どうしてあいつらは急いでいるんだと思う?」


 エルナはしばらく考えた末に答えた。


余所よその国で、冬に戦争をやるのが嫌だからかしら?」


 タークは頷いた。やはり元々頭の良い女性なのだ。


「恐らくそうだろう。他国は勝手がわからないし、兵の士気も下がるし、野宿で食料を探しにくくなる」


「最近は補給部隊への攻撃が止まってるらしいけど」


「その理由は、今の俺達にはわからないだろ」


 エルナは考え込み始めた。


「いいか。今年最初の雪が降ったら、戦争は終わりだ。誰が反対しようと全軍引き返せ。軍の中に余計な敵を作るな」


「わかったわ」


 タークが念押しするとエルナは頷き、ついで口を開いた。


「私もあなたに言っておきたいことがあるの。いいかしら」


「いいも何も、今のお前は俺の契約者だ。必要なら何でもやるぞ」


「最近、ヴァルヌス要塞付近の動きがおかしいの。フォルクバルドに取り返されちゃったのはまあいいんだけど、シルフやタンネの近くでも、急に敵兵が出て来て交戦になって、しかも必ず負けて、あっちはさっさと姿をくらます。まるでこっちの動きが先読みされてるみたい」


「誰か有能な奴が入ったのかもな。でもすぐ帰るってことは、守りの人数が不十分なんだろ」


「確かめられるかしら。できたら潰しておきたいのだけど」


「やってみるしかないな」


「次の軍議に提出してみるわ。目標は、ヴァルヌス要塞よ」

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