第12話 闇の中の本当の自分
洗濯室は、もうもうとする湯気が立ち込めていた。
「ナハト、そっちはもう干しちまってくれ」
「はい」
アイロンをかけていた女性に言われて、ナハトは洗ったばかりの洗濯物を籠に詰めて持ち上げた。
庭に張り渡した紐にシーツを掛けていく。いつ襲撃があるかわからない状況でも、日常の営みは続いていた。
「いい天気……」
ナハトは空を見上げた。秋の青空は高く、冬に向けて澄んでいく。
「このまま何も起こらなければいいのに……」
そうはならないことは、百も承知だった。
城塔の上で、一人の男が単眼鏡を覗いていた。ヴィリー族の青年で、名前をゲオルクという。
「見張りを置くようになったのはいいが、暇だな」
ぐるぐると辺りを見ていると、首都の方の空がきらりと光った。
「――ん?」
体長3mはありそうな鋼鉄の鳥が凄まじい速度で、こちらに向かって来ていた。
ゲオルクは慌てて、近くの鐘に走り寄った。
「敵襲ー! また鳥が来たー!」
鐘の音に気付いたナハトは走って、城の一室に滑り込んだ。
「フォルカーさん、状況は?」
「あんまり
フォルカーは、単眼鏡で首を叩きながら答えた。近くにはエドアルトもいる。
「何人かで物陰から攻撃してるんだが、今回は跳ね返されない分、硬い」
鋼の怪鳥は、口から光線を出して、周囲を破壊していた。ナハトにも見覚えがある鳥だ。エルマーが使う
「どうする?」
「通常攻撃では無理でしょうね……」
自分にターク程の魔力量があったら、とふと思ったが、慌てて首を振った。いない人間のことを考えてどうする、と自分を
「マリーは?」
彼女も、自分よりは魔力量が上のはずだ。ナハトさえ攻略法を知らないアイゼンに勝つのは難しいだろうが。
「こっちに向かってるとは思うが、離れた場所にいたみたいだな。まだ来ない」
ナハトは、自分の手の上に、使い魔を呼び出した。
「……ハティ」
〈駄目〉
用件を言う間もなく拒否される。
〈お前は自分の立場をもっと考えろ。安易に
「そんなのわかってるよ。わかった上でやってるんだよ」
〈お前がとっとと報告してりゃ、頭領以外は死ななかったかもな〉
「……っ」
確かに、他の面々が減刑された可能性はある。でもそれは仮定の話に過ぎない。今必要なのは、争いを止める力だった。
「前から思ってたけど、君って何なの? どうして僕の魔力に干渉できるの?」
ナハトとて、闇属性魔法は普通使えないのは知っている。でもハティは、『自分が手を貸せば、お前にはその魔法が使える』と教えたのだ。そして今、ナハトがアイゼンを止めるには、魔法を無効化する闇属性魔法くらいしか思いつかなかった。
ハティは、何も言わずに黙っている。
「もういいよ。僕一人でもできるはずなんだ」
〈馬鹿、やめろ〉
ナハトが
「大丈夫なのか?」
「さあ……」
事情を知らないフォルカーとエドアルトは、ナハトが走っていくのを、ただ見送るしかできなかった。
ナハトは、アイゼンに程近い城壁の裏に潜んだ。この距離だと、アイゼンに視認されるかもしれない。そうするとエルマーに見つかる可能性がある。しかしあの魔法を一人で使ったことがなかったから、飛距離が何処まで出るかわからなかった。
(にしても、何か忘れてる気がする)
脳裏に引っ掛かった何かを振り払うように、ナハトは呪文を唱え始めた。
「〈見よ、終末がやって来る。生ある者に
両手の間に、黒い霧状のものが集まって来る。それは一本の槍の形を取った。
「……っ!」
ナハトは焦った。形状を留めておけない。黒い槍は縁がもろく、時々崩壊しては再生する。しかも自分の頭がぐらぐらして、目が回る。それでも、近くで見ているはずのハティは敢えて無視した。ここで援助を乞うのは、己のプライドが許せなかった。
ビシッと首下で亀裂が入る音が聞こえた。ナハトは魔石の色が暗くなっている事実を、唐突に思い出した。けれどもう、止まれなかった。走っているわけでもないのに、息が切れだした。これ以上詠唱を続けるとまずそうだ。
視界が覚束ない中、不安定な槍を、怪鳥に向かって投げつける。
幸運なことに、アイゼンは的として十分に大きかった。回避する間もなく、槍に串刺しにされる。刺さった部分から、身体の崩壊が始まった。
〈お前ともここでお別れか。随分呆気ない幕引きだな〉
ハティの声を遠くに聞きながら、ナハトは床に崩れ落ちた。
〈でも、湿っぽい別れは嫌いだから、これで良かったのかもしれないな〉
首飾りの魔石は真っ黒に染まって、砂のようにさらさらと零れ出していた。
*
エッシェの街は、城より下、山の
「隊長、アイゼンが倒されました。出すのが早過ぎましたね。それとナハトが一瞬見えたような……」
「本当に予想外だ……」
共に馬に乗って進むエルマーの言葉に、ユリアは奥歯をギリリと噛み締めた。
「早急に、エッシェ城を攻め落とす!」
*
ナハトの意識は、暗い闇の中を漂っていた。
(真っ暗で静かだな……浮かんでいるのか沈んでいるのかもわからない)
その時、遠くから声が聞こえた。
(呼んでる? 呼ばれてる?)
声のする方に手を伸ばす。瞬間、様々な記憶が駆け巡った。
この世界なんて滅んでしまえと泣いていた少女。
誰も信じられないのに、理想の世界を描いてしまった青年。
優しかったのに、孤独だった王様。
会ったはずのない、けれど懐かしい沢山の人々が浮かんでは消える。自分から去っていく彼らを引き留める術を、かつての自分は持っていなかった。
(思い出した。僕が本当は何だったのか)
「ナハト! ナハト!」
(それは僕の本当の名前じゃない。僕の名前は……)
反論しようとした瞬間、視界が切り替わった。ぼんやりと見えたのは、エッシェ城の古ぼけた天井だ。
「しっかりしろ! 暴走してるぞ!」
フォルカーの焦った声が聞こえた。
「ぼうそう……? 何が?」
「お前だよ! 部屋の中なのに、真冬みたいになってんぞ!」
「暴走、なんてしたことない……」
“暴走”というのは、魔力制御の下手な魔力持ちに時々ある現象だ。川が氾濫したように、自分の魔力を周囲に放出してしまう。ナハトの基本属性は氷だから、部屋の温度が下がっているのだろう。
段々と意識がはっきりしてきて、辺りを見回すと、エドアルトとマリーが寒そうに体を震わせていた。マリーが魔法で熱を起こそうとしているが、上手くいっていない。フォルカーもどうしたらいいのかわからなかったらしく、横になったナハトを必死で揺さぶって起こそうとしていたらしい。
状況を把握したナハトは、魔力を抑え込み始めた。闇属性と違って、氷属性の扱いには慣れている。
「……あの鳥は?」
「一撃で倒したよ。お前、本当にすごいな」
ナハトはほっとして首下に手をやった。しかし、首飾りの感触がない。
「あれなら、勝手に外れたよ。石も砕けちまったし」
フォルカーの視線の先を見ると、床の上に、見慣れた首飾りが役目を終えたように落ちていた。どういう原理か知らないが、闇属性の魔法を制御しようとしていたのだ。生者が作った呪具では、いずれ限界が来るのは明らかだった。それが今だったというだけだ。
(ハティは全部知ってたんだな。あれ以上使うと壊れることも)
けれど、この世界の意思も尊重すると言っていたから、ユリアの意向に背いて、闇属性魔法が使えるようにしてくれたのだろう。あの言葉の真意がわかった今だからこそ、彼の優しさがようやく理解できた。闇こそが、ナハトの本質なのだから。
(ファミリアってすごいな。本当に心があるみたいだった)
部屋の温度は元通りになっていた。まだ体は動かしにくかったが、瞬きすると、涙が零れた。
(ごめんね、最期にお別れも言えなかった)
ユリアとナハトの間で板挟みになっていたであろう、あのオレンジ色の獣のために出来ることは、もう何もなかった。
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