第九幕


 第九幕



 西ヨーロッパ最大の国土を誇るフランス共和国の最南端に位置し、東のイタリア共和国と国境を接するアルプ=マリティーム県の県都、ニース。そんなニース郊外の地中海沿いに建造されたコート・ダジュール国際空港に、駱駝色のトレンチコートに身を包む始末屋は降り立った。

「まさか昨日の今日で、またしてもこの地に舞い戻って来る事になるとはな」

 数多の観光客や地元民達で賑わうロビーを足早に縦断しながらそう言った始末屋は、やがて正面玄関の自動ドアを潜ってコート・ダジュール国際空港のターミナルビルを後にすると、遥か頭上から燦々さんさんと降り注ぐ初夏の地中海の陽光の下へとその身を晒す。

「さて、と」

 ターミナルビルを後にした始末屋はそう言って小首を傾げつつ、周囲をぐるりと見渡しながら、暫し逡巡して止まない。何故なら温暖で風光明媚なこの地からモナコ公国のホテルハイエロファント・モナコまで、果たしてどう言った手段でもって移動すべきか、未だ決めかねているからである。

「昨日と同じ海岸沿いを走る長距離バスか、徒歩か、それとも何某なにがしかの車輛を今からでも調達すべきか。この時間ならどの移動手段を選んだとしても、陽が傾く前にモナコ公国まで辿り着けるだろう」

 まるで独り言つようにそう言って今後の方針に一定の目途を立てた始末屋は、ターミナルビルの周囲を行き交う空港の利用客達と歩調を合わせる素振りも無いままに、長距離バスの停留所の方角へと一旦足を向けた。すると次の瞬間、車道と歩道を隔てる縁石を乗り越えながら大きな鉄の塊がこちらへと突っ込んで来るものの、彼女は未だそれに気付いていない。

「!」

 その大きな鉄の塊、つまりハーレーダビッドソン社が製造するサイドカー付きの大型アメリカンバイクが、てらてらと黒光りする巨体に積まれた排気量1450ccの空冷エンジンを唸らせながら始末屋をね飛ばした。およそ100km/hにも達する結構な速度でもって、一切ブレーキも掛けぬまま背後から突っ込んで来た大型バイクにね飛ばされた始末屋の身体はごろごろと路面を転がり、やがて長距離バスのバスポールに顔面から激突した事によってようやくその動きを止める。

「始末屋はん、死にはりましたやろか?」

「死にはったんちゃいますの?」

「せやけど芸妓はん、始末屋はんのお身体の頑丈さと言ったら、うちら『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターの界隈でも有名どすえ?」

「ほんまに舞妓はんったら、心配性でありんすなぁ。せやったらもう一度、今度はしっかりとき殺してみはったらどないやろか?」

 大型バイクとそのサイドカーに乗った二人の日本人女性が雅やかな京言葉でもってそう言って、彼女らがね飛ばした始末屋が死んだかどうかを協議した。ちなみに大型バイクに乗っているのが白塗りの水化粧を施し、振袖の着物を着て桃割れの日本髪を結った舞妓であり、サイドカーに乗っているのが同じく水化粧を施して詰袖の着物に島田髷の日本髪を結った芸妓と言う、およそハーレーダビッドソン社の製品に似つかわしくない事この上無いような場違いな二人組である。

「……誰だ、貴様らは?」

 すると彼女らが乗る大型アメリカンバイクによってね飛ばされた始末屋がそう言って、長距離バスのバスポールに激突した際に強打した顔面を擦りながら立ち上がるなり、疑義を呈した。

「ほらほら、よう見ておくんなはれや、芸妓はん。やっぱりお身体が頑丈な事で知られる始末屋はんは、あの程度の事では死んでくれはらへんみたいどすえ?」

「せやなぁ、ほんまに難儀どすなぁ。もっと簡単に死んでくれはったら、うちらとしても大助かりなんどすけどなぁ」

 やはり雅やかな京言葉でもってそう言って舞妓の言葉に同意しつつ、だらりの帯結びにこっぽりを履いた芸妓はサイドカーに乗ったまま、手にした三味線を艶やかに掻き鳴らす事によって和の心を演出して止まない。

「おい、そこの奇妙な格好の二人組よ。貴様らは一体どこの誰なんだと、あたしは聞いているんだが?」

 始末屋が若干キレ気味にそう言って重ねて問い質せば、大型アメリカンバイクとそのサイドカーに乗った芸妓と舞妓は艶やかな三味線の音色をBGMにしつつ、ようやく彼女らの素性を明かす。

「これはこれは、申し遅れてしもて、堪忍なぁ。うちらは京の歴史と伝統を今に伝える執行人エグゼキューターを自称してはる、あたしが姉の芸妓どすえ」

「そしてあたしが、妹の舞妓どすえ」

「二人揃って、道路交通法違反姉妹の『轢き逃げ★シスターズ』どすえ」

「どすえ」

 最後に妹の舞妓がそう言って名乗り終えるのとほぼ同時に、姉の芸妓もまた三味線を掻き鳴らし終えてバチを置き、どうやら実の姉妹の執行人エグゼキューターらしき『轢き逃げ★シスターズ』の二人は自らの素性を明かし終えた。

「その『轢き逃げ★シスターズ』とやらである貴様らに尋ねるが、如何に同じ組織に所属する執行人エグゼキューター同士とは言え、いきなり見ず知らずの赤の他人を背後からね飛ばすとは随分な挨拶じゃないか?」

 始末屋が皮肉交じりにそう言って問い質せば、問い質された芸妓と舞妓の二人は着物のたもとでもって口元を隠しながら、くすくすと上品で雅やかな仕草を崩さぬまま彼女を嘲笑う。

「あらあら、始末屋はんったら、己が『禁忌破り』の人でなしやっちゅう事をすっかり忘れてしもてるんとちゃいますの?」

「ほんまやなぁ。うち、そんな『禁忌破り』の人でなしみたいなお人なんかとは、よう口も利いたないわ」

 上品でありながらとげのある京言葉でもってそう言って、くすくすと彼女を嘲笑うばかりの『轢き逃げ★シスターズ』の二人の姿に、冷静沈着を旨とする筈の始末屋も苛立ちを募らさざるを得ない。

「そうか、成程。どうやら貴様ら姉妹は二人とも、あたしの手斧の前に露と消えたいらしいな」

 やはり若干キレ気味にそう言った始末屋は、彼女の身を包む駱駝色のトレンチコートの懐から左右一振りずつの手斧を引き抜き、眼の前の獲物の元へと歩み寄りながら臨戦態勢へと移行した。すると舞妓は排気量1450ccの空冷エンジンを激しく空噴かしさせると、次の瞬間、艶やかな芸妓の三味線の音色をBGMにしつつハーレーダビッドソン社製の大型アメリカンバイクを急発進させる。

「始末屋はん、うちら姉妹の愛車の餌食となりはって、死ねどす」

「死ねどす」

 三味線の音色と共にそう言った芸妓と舞妓を乗せたサイドカー付きの大型アメリカンバイクは、始末屋目掛けて猛烈な速度でもって突進するものの、彼女はこれを素早く身を翻しながら回避してみせた。しかしながら大型アメリカンバイクは速度を落とさぬまま急旋回したかと思えば、今度は無防備な背後から、やはり始末屋目掛けての猛突進による追撃を敢行する。

「ぐっ!」

最初の回避行動によって崩れた態勢を立て直す間も無いままに、無防備な背後からの追撃によって再びね飛ばされてしまった始末屋がそう言って、ごろごろと路面を転がりながら苦悶の声を上げた。そしてそんな始末屋の身の丈210cmにも達する大柄な身体を、芸妓と舞妓を乗せたハーレーダビッドソン社製の大型アメリカンバイクとサイドカーは、やはり速度を一切落とす事無く『轢き逃げ★シスターズ』の名に恥じぬ轢きっぷりでもって轢き潰す。

「これでどないだすやろか、始末屋はん? そろそろいい加減に観念しぃはって、潔う死にはったらええんとちゃいますの?」

「ちゃいますの?」

 始末屋を轢き潰した芸妓と舞妓は一旦大型アメリカンバイクを停車させてからそう言って、潔く死を受け入れるよう勧告するものの、そんな彼女らの言葉に軽々に従うほど始末屋は馬鹿ではない。

「ふざけるのも大概にするんだな、この京都くんだりからやって来たような、田舎者風情どもめが。所詮バイクが無ければ何も出来ないような貴様らごとき三下の執行人エグゼキューターは、あたしの手斧の前では無力であると言う揺るぎない事実を、その白塗りの顔と身体に思い知らせてやった上で地獄に送り込んでくれる」

 おもむろに立ち上がった始末屋が、彼女の必殺の得物である左右一振りずつの手斧を構え直しながらそう言って啖呵を切れば、芸妓と舞妓の二人は怒髪天を突く勢いでもって怒りを露にする。

「な、なな、ななな、なんちゅう事を言うてくれはりますの、このお人は! いいい言うに事欠いてうちら姉妹が田舎もん風情やなんて、人を馬鹿にしはるにも程があるっちゅうもんどすえ?」

「せやせや、芸妓はんの言うてはる通りや! うちら姉妹は生まれた時から京都祇園の置屋に籍を置いてはる、当代きっての都会っ子に間違いあらしまへんのやさかい、いけずな事は言わんといておくれやす!」

 口々にそう言って怒りを露にするばかりの芸妓と舞妓の口振りから察するに、どうやら彼女ら『轢き逃げ★シスターズ』の二人は始末屋から三下呼ばわりされた事よりも、むしろ京都出身の自分達が田舎者扱いされてしまった事の方が逆鱗に触れざるを得ない事実であったらしい。

「ほう、どうやら図星だったらしいな。やはり貴様らは、京都くんだりからやって来た田舎者だ」

 始末屋が改めてそう言って挑発すれば、京都を日本一、いや、世界一の大都会と信じて疑わない芸妓と舞妓の怒りは勢い頂点に達する。

「もう許しまへんえ、始末屋はん! あんたはんのその大きな身体をうちらの愛車のタイヤで轢いて轢いて轢き潰しはって、京野菜と一緒にお出汁で炊いて肉団子の炊いたんにしたるやさかい、覚悟おし!」

「覚悟おし!」

 雅やかな京言葉でもってそう言って啖呵を切った芸妓と舞妓の二人は再び排気量1450ccの空冷エンジンを激しく空噴かしさせると、三度みたび始末屋をね飛ばすべく、ハーレーダビッドソン社製の大型アメリカンバイクを急発進させた。勿論言うまでも無い事ではあるものの、サイドカーに乗った芸妓は手にした三味線を殊更艶やかに掻き鳴らし、京の歴史と伝統に裏打ちされた和の心を演出する手を休めない。

「死ねどす!」

「死ねどす!」

 二人で声を揃えながらそう言って、死を宣告してはばからない『轢き逃げ★シスターズ』の芸妓と舞妓を乗せたサイドカー付きの大型アメリカンバイクは、彼女を亡き者にすべく始末屋目掛けて猛突進を敢行した。

「ふん!」

 しかしながら大型アメリカンバイクのてらてらと黒光りする巨体の先端が始末屋の身体に触れんとした、まさにその刹那。そう言って上空へと跳躍した始末屋が、こちらへと突進して来るその大きな鉄の塊をひらりと飛び越えたかと思えば、すれ違いざまに舞妓の脳天を手斧の切っ先でもって叩き割る。

「どすえ!」

 脳天を垂直方向に真っ二つに叩き割られてしまった舞妓はかっと眼を見開き、真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿を周囲に巻き散らかしながらそう言って、京言葉による断末魔の叫びと共に絶命した。そして彼女が運転するサイドカー付きの大型アメリカンバイクは制御を失うと、結構な速度を維持したまま軌道を外れて横転し、ごろごろと路面の上を転がってからようやく停車する。

「舞妓はん! ああ、舞妓はん! しっかりしておくれやす! うちを残して、勝手に死にはったらあきまへん!」

 横転したサイドカーの車体の下から這々ほうほうの体でもって這い出た芸妓がそう言って、彼女の傍らに力無く横たわる舞妓の身体をがくがくと激しく揺さぶった。しかしながら幾ら揺さぶってみたところで、脳天が完全に真っ二つに叩き割られてしまっている人間が生き返る筈も無く、ぱっくりと口を開けた彼女の頭蓋の内側から薄灰色の脳髄がぼろりと零れ落ちて路面を転がる。

「おのれ、よくも舞妓はんを! うちの大事な大事な、たった一人の掛け替えの無い実の妹を、こないな姿にしてくれはってからに! 許しまへん! 始末屋はん、うちは何があろうと絶対に、あんたはんを許しまへんえ!」

 涙ながらにそう言って恨み骨髄に徹すとでも表現すべき恨み節を口にした芸妓は、手にした三味線のさおの先端部分、いわゆる天神の部分を糸が張られたさおからおもむろに引き抜いた。すると引き抜かれた天神を柄、さおを鞘とする、刃渡りおよそ20cm余りの鋭利な白刃が姿を現す。どうやら彼女の三味線はどこにでもあるような只の三味線ではなく、その内部にいざと言う時のための近接戦闘用の刀身が隠された、仕込み杖ならぬ仕込み三味線であったらしい。

「覚悟おし!」

 そう言った芸妓は仕込み三味線の柄尻をだらりの帯が巻かれた腰に当てながら、まるで任侠映画に登場するヤクザの鉄砲玉さながらに、実の妹の仇である始末屋目掛けて切り掛かる。

「舐めるな!」

 しかし当然の事ながら、素人同然の芸妓の攻撃を始末屋が喰らってしまう筈も無く、そう言った彼女はこちらへと駆け寄って来る芸妓の頭部を今度は水平方向に真っ二つに叩き割った。

「どすえ!」

 やはりそう言って京言葉による断末魔の叫びを上げながら、絶命した芸妓の身体は仕込み三味線の柄を握ったままその場に崩れ落ちると、始末屋の手斧によってね飛ばされた彼女の頭部の上半分だけが薄灰色の脳髄と共に路面を転がる。

「まったく、京都くんだりの田舎者のくせに欲に眼が眩んでこのあたしに挑み掛かって来るとは、身の程知らずな奴らだ」

 芸妓と舞妓の姉妹、つまり『轢き逃げ★シスターズ』の二人を始末し終えた始末屋はそう言いながら、彼女の必殺の得物である左右一振りずつの手斧を駱駝色のトレンチコートの懐へと仕舞い直した。そして彼女ら三人を遠巻きに取り囲む、空港の利用客からなる野次馬達の視線を気にする素振りも見せぬまま、芸妓と舞妓の死体を踏み越えた始末屋は横転していたハーレーダビッドソン社製のサイドカー付きの大型アメリカンバイクを引き起こす。

「ちょうどいい。借りて行くぞ」

 足元に転がる芸妓と舞妓の死体に向けてそう言った始末屋は、まるで最初からそれが彼女の所有物であったかのような手慣れた所作でもって、たった今しがた引き起こしたばかりのサイドカー付きの大型アメリカンバイクに颯爽さっそうまたがった。そしてイグニッションキーを回して排気量1450ccの空冷エンジンを始動させると、タイヤを東の方角、つまりモナコ公国の方角へと向けると同時にコート・ダジュール国際空港の敷地から退避し始める。

「この調子なら、モナコ公国に到着するのは午後2時頃か」

 やがて『轢き逃げ★シスターズ』の二人から一方的に拝借したハーレーダビッドソン社製のサイドカー付きの大型アメリカンバイクを駆りつつも、スマートフォンでもって現在の時刻を確認すると同時に、コート・ダジュール国際空港の広大な敷地を後にした始末屋は独り言つようにそう言った。そして空港の北端に接する国道M6098号線に合流したかと思えば、温暖な初夏の地中海の海岸沿いを、駱駝色のトレンチコートの裾をばたばたと激しく風になびかせながら疾走し続ける。

「それにしてもアイーダ・サッチャーの奴め、一体全体何を意図した上で、このあたしに『禁忌破り』の濡れ衣を着せたと言うんだ?」

 法定速度を遥かに超える速度を維持しながら国道M6098号線を疾走し、モナコ公国の市街地の中心部に建つホテルハイエロファント・モナコを目指しつつ、大型アメリカンバイクにまたがる始末屋はそう言って小首を傾げざるを得ない。何故なら孤児同然の身の上で生まれ育ち、裏稼業のならず者として生きる彼女には、まともな感性の持ち主である筈のアイーダ・サッチャーの思考ロジックや価値観を容易に理解する事が出来ないからである。

「ん?」

 やがて国道M6098号線を来た道を引き返すような格好でもって東進し続け、モナコ公国との国境線まで残り4km余りのエステルキャップを右手に臨む頃、不意に異質な存在を見咎めた始末屋はそう言って眼を凝らした。すると彼女の進行方向の車道のど真ん中に、デジタル迷彩模様の戦闘服とフルフェイスのガスマスクでもって全身を隙間無く包み込んだ人影が、ぽつんと一人ぼっちで突っ立っているのが見て取れる。

「あれは……」

 そう言って始末屋が訝しんでいる間にもその人影との距離はみるみる縮まり、遂に両者がすれ違おうとした、まさにその瞬間。戦闘服とガスマスクの人影が緩慢な足取りでもってふらりとこちらへと歩み寄り、始末屋を乗せた大型アメリカンバイクに付随するサイドカーと正面衝突してしまった。

「!」

 正面衝突してしまったサイドカーの車体が見るも無残に押し潰され、その車体を形成するステンレス製の骨格フレームがまるで飴細工の様にぐにゃりとひしゃげると、本体である大型アメリカンバイクから耳障りな破断音と共にぎ取られる。しかしながら正面衝突された方の人影はと言えば、優に100km/hを超える速度でもって鉄の塊が衝突したにもかかわらず、さながら足から根が生えているかの如くその場に突っ立ったまま微動だにしない。

「くっ!」

 サイドカーがぎ取られた際の衝撃でもってバランスを崩した大型アメリカンバイクは前後のタイヤを横滑りさせながら、あわや横転し掛けるものの、そう言った始末屋はハンドルとブレーキペダルをぎゅっと固く握り締める事によって瞬時に態勢を立て直してみせた。そしてどうにかこうにか停車した大型アメリカンバイクにまたがったまま、背後を振り返った彼女は路上に突っ立っている戦闘服とガスマスクの人影の正体を看破する。

「まさか、よりにもよって『ザ・シング』の連中まで出張って来たのか!」

 そう言って驚くばかりの始末屋の言葉通り、彼女の視線の先で突っ立っている人影の正体はソリッド、リキッド、ガス、プラズマの四人からなる闇の集団『ザ・シング』の一人であると同時に、裏稼業のならず者達の間では『不動の固体』としておそれられるソリッドその人に相違無い。

「……」

 やがてたっぷり数秒間もの時間を掛けながら、デジタル迷彩模様の戦闘服とフルフェイスのガスマスクでもって全身を隙間無く包み込んだソリッドは、無言のままゆっくりとこちらを振り向いた。しかしながらガスマスクの向こうの彼の表情をうかがい知る事は出来ず、むしろ仲間内でまことしやかに囁かれている流言飛語によれば、『ザ・シング』の四人の戦闘服の中身が本当に生きた生身の人間なのかどうかすらも定かではない。

「……」

 やはり無言でこちらを向いたまま、停車した大型アメリカンバイクにまたがる彼女の後方50mばかりの位置に突っ立ったソリッドは、ゆっくりと手を挙げながら前方の始末屋を指差した。すると今までどこに隠れていたと言うのか、ソリッドの背後からもう一人、国道M6098号線の路面に落ちる彼の影の中から更にもう一人の戦闘服とガスマスクの人影が姿を現す。

「糞っ、ヤバい! 奴ら本気だ!」

 冷静沈着を旨とする彼女にしては珍しく、そう言って悪態を吐いた始末屋は大型アメリカンバイクのタイヤを進行方向に向け直すと、発車と同時にアクセルを限界まで開放して一気に加速した。

「さすがにあたし一人で奴ら『ザ・シング』の四人全員の相手をするのは、こちらに分が悪過ぎる」

 加速する大型アメリカンバイクにまたがった始末屋が、やはり彼女にしては珍しくそう言って、駱駝色のトレンチコートの裾を風に靡かせながら弱音を吐くのも無理は無い。何故なら闇の集団『ザ・シング』は『大隊ザ・バタリオン』に所属する全ての執行人エグゼキューター達の中でも最強クラスの一角を担っており、如何に始末屋が百戦錬磨の女丈夫とは言え、彼ら全員を相手にするのは荷が重いと言わざるを得ないからである。

「とにかく、今は奴らから逃げ切るしかないな」

 始末屋はそう言いながら、手元のバックミラーにちらりと視線を移し、背後の様子を確認した。すると『流動の液体』としておそれられるリキッドが、まるで頭上から流れ落ちる滝の水の様に、にわかには信じ難い程の速度でもってこちらへと這い寄って来るのが眼に留まる。

「糞っ! やはりそう簡単に、逃がしてはくれないか!」

 始末屋はそう言って再び悪態を吐くものの、その間にも戦闘服とガスマスクに身を包むリキッドは、こちらへと這い寄る手と足を止めはしない。そして遂に彼女を乗せた大型アメリカンバイクに追い付くと、相棒の一人であるソリッドと同じくリキッドもまた無言のままこちらを見据えながら、今まさに始末屋に襲い掛かからんと身構える。

「させるか!」

 すると始末屋はそう言って、右手は大型アメリカンバイクのハンドルを握ったまま、駱駝色のトレンチコートの懐から取り出した手斧でもってリキッドに切り掛かった。彼女が左手一本で振るう手斧の丹念に研ぎ上げられた切っ先が、こちらへと迫り来るリキッドの喉元を的確に捉えて切り付ける。

「?」

 しかしながら的確にリキッドの喉元を捉えたにも拘らず、まるで流れる水か何かを切り付けでもしたかのように、手斧を握る始末屋の左手には手応えらしき感触が微塵も伝わって来ない。いや、それどころか彼女に切り付けられた筈のリキッドは、自らの喉元に突き立てられた手斧の刀身とその柄を這い上る事によって、始末屋を抹殺もしくは捕縛せんと試みる。

「ちぃっ!」

 始末屋は舌打ち交じりにそう言って、左手で握る手斧を、彼女がまたがる大型アメリカンバイクの進行方向とは逆の方角へと放り捨てた。放り捨てられた手斧と共に、その柄を這い上っていたリキッドもまた国道M6098号線の路面を転がって、後方へと姿を消す。とは言え当然の事ながら、ソリッドとリキッドの二人を一時的に遠ざける事に成功したからと言って、これで闇の集団『ザ・シング』の追跡から逃れ得た訳ではない。何故なら間髪を容れる事無く、新たな刺客の一人が、今度は始末屋の頭上から襲い掛かったからである。

「ん? 何だ?」

 不意に上空から燦々さんさんと降り注ぐ初夏の西ヨーロッパの陽光が遮られ、何某なにがしかの物体が落とす薄ぼんやりとした影の中へと突入した始末屋は、そう言ってついと頭上を振り仰いだ。

「!」

 すると振り仰いだ頭上には、やはりデジタル迷彩模様の戦闘服とフルフェイスのガスマスクでもって全身を隙間無く包み込んだ新たな人影が、さも当然とでも言いたげに宙に浮きながらこちらを追跡していたのだから驚かざるを得ない。そしてその人影は始末屋がまたがる大型アメリカンバイクのフロントカウルの上に、さながら風に舞う木の葉か鳥の羽毛の様に全く質量を感じさせぬまま降り立ったかと思えば、ハンドルを握る彼女の両のまなこをジッとガスマスク越しに覗き込む。

「糞っ! ソリッドとリキッドだけでも手一杯だと言うのに、ガスまで相手にしろと言うのか!」

 そう言って三度みたび悪態を吐いた始末屋の言葉通り、彼女の眼前の大型アメリカンバイクのフロントカウルの上に降り立った第三の人影こそ、やはり裏稼業のならず者達の間では『漂動の気体』としておそれられるガスに他ならない。

「……」

 フロントカウルの上のガスはしゃがみ込んで始末屋と視線の高さを合わせると、無言のまま、こちらに向けてゆっくりと手を伸ばし始めた。

「ええい、失せろ!」

 始末屋は苛立ち紛れにそう言いながら革手袋を穿いた手を何度も何度も振り払い、眼前のガスをフロントカウルの上から排除しようとするものの、彼女の手は彼の身体をすり抜けてしまうばかりでまるで手応えが無い。そしてそうこうしている内に、こちらが振り払おうとする手はすり抜けてしまうにも拘らず、ガスがこちらに向けて伸ばした彼の手は悠然と始末屋の喉元を捉える。

「……」

 すると無言のまま始末屋の喉元を捉えたガスは手慣れた仕草でもって、やはり彼女の両のまなこをジッとガスマスク越しに覗き込みながら、眼の前の獲物を絞殺せんと始末屋の首を締め上げ始めた。

「ぐはっ……」

 首を締め上げられた始末屋は呼吸が出来ずにそう言って悶え苦しみながら、気道と頸動脈を圧迫し続けるガスの手をどうにかして振り払おうと奮闘するものの、どれだけ足搔いたところで彼女の手はガスの身体をすり抜けてしまうのだから如何ともし難い。

「……」

 そして遂に、肺胞と脳髄から新鮮な酸素が失われつつある始末屋の顔が鬱血してどす黒い赤褐色に変貌したかと思えば、彼女は意識を失った。すると意識を失うと同時にハンドルを握っていた手からもまた握力が抜け去り、始末屋がまたがる大型アメリカンバイクは国道M6098号線を疾走しながらコントロールを失うと、徐々にバランスを崩しながら横転する。

「!」

 バランスを崩したハーレーダビッドソン社製の大型アメリカンバイクが国道M6098号線のセンターラインを越えて横転し、意識を失った始末屋の身体が結構な速度を維持したまま路上へと投げ出されれば、彼女の首を執拗に締め上げ続けていたガスもまたその手を放して再び空中へと退避せざるを得ない。

「……げほっ! げほっ! がはっ! がはぁっ!」

 ガスが手を放した事によって、路上へと投げ出された始末屋は初夏の陽光で熱された路面に何度も何度も身体を打ち付けてからようやく意識を取り戻し、そう言って激しく咳き込みながら深呼吸を繰り返した。そしてその場に這いつくばったまま乱れ切った呼吸を整え直す事に尽力すれば、そんな彼女の眼前に、第四の人影が立ちはだかる。

「起キロ、始末屋ヨ」

 頭上からそう言って、まるで合成音声の様に抑揚の無い平坦かつ機械的な声でもって名指しされた始末屋は、国道M6098号線の路面に這いつくばったままゆっくりと顔を上げた。するとそこには、やはりデジタル迷彩模様の戦闘服とフルフェイスのガスマスクでもって全身を隙間無く包み込んだ第四の人影が、路面からおよそ1mばかり浮き上がった状態で宙を漂いながら彼女を見下ろしているのが眼に留まる。

「……さては貴様、プラズマだな?」

 咳き込みながらそう言って第四の人影の正体を看破してみせた始末屋の言葉通り、それは闇の集団『ザ・シング』のリーダーであると同時に裏稼業のならず者達の間では『遊動の電離気体』としておそれられる、プラズマであった。

「ソウダ、コノ私コソガ、プラズマダ。始末屋ヨ、我々『ザ・シング』ハ『禁忌破リ』デアルオ前ヲ抹殺スベク、ワザワザコンナ辺鄙ナ場所マデヤッテ来テヤッタノダ。感謝スルガイイ」

 やはり合成音声の様に抑揚の無い平坦かつ機械的な声でもってそう言ったプラズマの身体は、まるで1980年代にサイケデリックなインテリアの一種として一世を風靡したプラズマボールの様に放電しながら、怪しい薄紫色に光り輝いている。

「感謝するがいいとは、随分と人を見下した、偉そうな物言いじゃないか。さすがは『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューター達の中でも最強クラスの一角を担うだけあって、やはり貴様らは、あたしらの様な下々の者達とは口の利き方が違うらしい」

 その場に這いつくばったままの始末屋は皮肉交じりにそう言うが、人としての感情を持たないプラズマと、彼の背後に居並ぶ残り三人の『ザ・シング』の面々は一向に動じない。

「サア、始末屋ヨ。覚悟セヨ」

 怪しい薄紫色に光り輝きながらそう言ったプラズマが、彼の足元に這いつくばる始末屋の頭頂部目掛けて手を伸ばし、その放電する手による接触が死を意味する事を彼女は直感的に理解した。

「待て、プラズマ! その手で触れる前に、あたしの話を聞け!」

 しかしながら始末屋がそう言えば、プラズマは一旦、その手を止める。

「話ダト? コノ期ニ及ンデ、一体、何ノ話ダ?」

「あたしは依頼人であるヴィロ王子を殺してはいないし、決して『禁忌破り』などではない! 全てはアイーダ・サッチャーがあたしに着せた、濡れ衣だ!」

「ホウ? 濡レ衣ダト? ソノ証拠ハ、ドコニアル?」

「その証拠となるヴィロ王子のスマートフォンを手に入れるため、あたしはこれから、モナコ公国へと再び足を踏み入れる。もし仮にあたしが『禁忌破り』なら、わざわざ犯行現場に戻って来る理由は無い筈だ。違うか?」

 始末屋がそう言って問い掛ければ、プラズマは残り三人の『ザ・シング』の面々、つまりソリッド、リキッド、ガスと相互に目配せし合い始めた。どうやら彼ら四人は、言葉にせずとも互いの意思疎通を可能とする、独自のコミュニケーション技術を確立しているものと思われる。

「成程、始末屋ヨ、オ前ノ言イ分ハ理解シタ。ダガシカシ、口デハ何トデモ言エル。確カナ物的証拠ガ無ケレバ、我々ハ納得シナイ」

「だからこそ、あたしはこれから、モナコ公国でアイーダ・サッチャーを問い詰める。貴様ら四人も物的証拠が無ければ納得しないと言うのなら、それに同行するんだな。その上で、今回の一件の真偽の程を改めて見極め、あたしを『禁忌破り』として抹殺すべきか否かを判断するがいい」

 半ば苦し紛れにそう言って始末屋が提案すれば、その提案を耳にした『ザ・シング』の四人は互いに目配せを再開し、何やら無言で議論を交わし合っている様子であった。そしてたっぷり一分間ばかりも議論を交わし合った末に、ようやくプラズマは、四人を代表して結論を口にする。

「ソコマデ言ウノナラ、同意シテヤラナイ事モ無イ。コレカラオ前ニ同行シ、果タシテオ前ガ本当ニ『禁忌破リ』カ否カ、見極メテヤルトシヨウ。感謝スルンダナ、始末屋ヨ」

「ああ、不本意ではあるが、今は貴様らの決定に感謝してやる」

 若干ながら口惜しげにそう言った始末屋は這いつくばった状態からようやく立ち上がり、国道M6098号線の路面に身体を打ち付けた際にこびり付いた泥や砂埃と言った汚れを駱駝色のトレンチコートから払い落すと、横転したハーレーダビッドソン社製の大型アメリカンバイクを軽々と引き起こしてみせた。そして引き起こされた大型アメリカンバイクにまたがってからモナコ公国の方角へとタイヤを向け、イグニッションキーを回して排気量1450ccの空冷エンジンを再始動させれば、その様子を傍観していたプラズマが改めて彼女に要請する。

「ソレデハ始末屋ヨ、オ前ガ濡レ衣ヲ着セラレタト言ウ事実ヲ証明スル物的証拠ノ在リ処マデ、我々ヲ案内スルガイイ」

「貴様に言われずとも、案内してやるさ」

 プラズマの要請に対してそう言って返答した始末屋は、一路アイーダ・サッチャーが居る筈のホテルハイエロファント・モナコを目指しつつ、彼女がまたがる大型アメリカンバイクを急発進させた。するとそんな始末屋の背中を追うような格好でもって、闇の集団『ザ・シング』の四人もまたモナコ公国の方角へと舵を切る。

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