第八幕
第八幕
麗らかな初夏の陽射しに照らされたノール高速道路を徒歩でもって渡り切り、やがて始末屋は、パリ郊外に在るシャルル・ド・ゴール国際空港の第2ターミナルビルへと辿り着いた。
「ふう」
言わずもがなそう言って一息吐いた始末屋が辿り着いたこの空港は、第一次及び第二次世界大戦で活躍した軍人であると同時に、第十八代フランス共和国大統領としての職務を全うする政治家でもあったシャルル・ド・ゴールにちなんで名付けられた、世界有数にしてフランス共和国最大の国際空港である。
「さて、と。券売機はどこに……ああ、あそこか」
そう言った始末屋は数多の利用客でもって賑わうターミナルビルのロビーを足早に縦断し、航空会社の自動券売機の前まで移動すると、その券売機でもってコート・ダジュール国際空港が在るニース行きの航空券を購入した。そして空港内をぶらぶらとそぞろ歩きながら暇を潰していると、やがて彼女が搭乗すべき旅客機の搭乗開始時刻の到来を告げる館内アナウンスが耳に届いたので、始末屋はターミナルビルの三階に位置する搭乗ゲートの方角へと足を向ける。
「どうぞお客様、快適な空の旅を、心行くまでお楽しみください」
ややもすれば
「皆様、当機はまもなく離陸いたします。シートベルトの着用を、もう一度お確かめください。三歳未満のお子様は、膝の上でしっかりとお抱きください。一人でお座りのお子様のシートベルトも、保護者の方が、併せてお確かめください」
そうこうしている内に流麗な若い女性の声でもってそう言った機内アナウンスに引き続き、始末屋とその他数多くの乗客達を乗せた旅客機はシャルル・ド・ゴール国際空港の滑走路上をぐんぐん加速すると、ニース郊外のコート・ダジュール国際空港を目指して離陸した。離陸した旅客機は見る間に高度を上げながら大気を切り裂いて上昇しつつ、地表から遠ざかれば、やがて眼下に広がるパリの街はまるで米粒か豆粒の様に小さくなって視界から消え失せる。
「お客様、何かお飲み物をお持ちいたしましょうか? 温かいコーヒーに紅茶、ビールにワイン、それに冷たいシャンパンも取り揃えております」
するとシャルル・ド・ゴール国際空港の滑走路から離陸した旅客機が高度10000mを維持しながら水平飛行へと移行すると、若い女性の
「あたしは、酒の類は一滴も飲まん。代わりに新鮮で温かい
問い掛けられた始末屋がそう言って命じれば、一旦ギャレーへと移動してから大きなビアマグに注がれたホットミルクと毛布とアイマスクを手にしつつ再び姿を現した
「お待たせいたしました、お客様。どうぞごゆっくり、安らかな睡眠をご満喫なさいます事を、心よりお祈り申し上げます」
「ああ、ご苦労」
そう言った始末屋は若い女性の
「……」
ビジネスクラスのフルフラットシートの上でその身を横たえてからものの数分と経たぬ内に、航空会社のロゴマークが染め抜かれた毛布に包まったまま、始末屋はすうすうと穏やかな寝息を立てながら眠りに就いた。するとそんな彼女の脳裏に、まるで故事成語で言うところの『胡蝶の夢』を連想させるような夢とも現実とも区別がつきかねる、かつて体験した筈のアルファジリ共和国での出来事の記憶が蘇る。
「開けろ! ファハリ大統領よ、お前はもう、我らが反政府軍の突撃部隊によって完全に包囲されている! 今すぐこの扉を開けて投降し、法廷の場に於いて、公平公正に裁かれるがいい!」
東アフリカの小国、アルファジリ共和国の首都ジュアの中心部に建つパッラーディオ様式の建造物、つまり広壮かつ豪奢な造りの大統領府の最奥に位置する執務室へと続く厚く重く頑丈な扉をどんどんと激しく叩きながら、カーキ色の戦闘服に身を包んだ一人の黒人男性がそう言って投降を勧告した。
「糞っ、駄目か! 往生際の悪い奴め!」
しかしながら扉の向こうに居る筈のファハリ大統領は彼の執務室に引き篭もったまま投降勧告を無視するつもりなのか、いつまで経ってもその執務室へと続く扉が開く気配が無い事に落胆した黒人男性は溜息交じりにそう言って、天を仰ぎながら
「どうしたと言うんだ、アビンボラ上級大尉よ。さっきから随分と
するとそう言ってアビンボラ上級大尉、つまり扉の向こうのファハリ大統領に投降を勧告していた黒人男性を名前と階級でもって名指ししつつ、褐色の肌の大女が数名の武装した男達を背後に従えながら姿を現した。そしてその身の丈が210cmにも達する褐色の肌の大女こそ、言わずもがな、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋その人に他ならない。
「おお、始末屋か! いい所に来てくれた! 今から俺と一緒に、この扉をぶち破るのを手伝ってくれ!」
カーキ色の戦闘服に身を包むアビンボラ上級大尉がそう言って協力を要請すれば、要請された始末屋は一歩前に進み出る。
「なんだ、大統領の奴め、援軍が到着するまで籠城するつもりか。そう言う事なら、是非も無い。この程度の扉など、貴様らと一緒に力を合わせるまでもなく、あたし一人だけの力でもって蹴り開けてくれる」
そう言った始末屋は、アルファジリ共和国の大統領府のファハリ大統領の執務室へと続く扉の前まで進み出てから立ち止まり、その長く逞しい脚を上げて前蹴りの予備動作へと移行した。
「ふん!」
そして気合一閃、鼻息も荒い掛け声と共に始末屋が渾身の前蹴りを叩き込めば、何者をも拒絶する筈の扉はみしみしと音を立てながら
「ふん! ふん! ふん!」
更に二度三度と繰り返し前蹴りを叩き込み続けた事によって、見る見る内に厚く重く頑丈な筈の扉はへし折れてひん曲がり、黄金色に輝く真鍮製のドアノブと
「ファハリ大統領、覚悟!」
すると蹴り開けられた扉の残骸をそう言いながら乗り越えて、アビンボラ上級大尉と数名の武装した男達、つまり反政府軍の突撃部隊の前線指揮官とその部下達が執務室の室内へと一気呵成に雪崩れ込んだ。
「!」
しかしながら次の瞬間、数発ばかりの高温高圧の
「何奴!」
アビンボラ上級大尉とその部下達から遅れること数秒後、ファハリ大統領の執務室へと足を踏み入れた始末屋がそう言って、左右一振りずつの手斧を構えて臨戦態勢を維持しつつ問い掛けた。彼女の足元では
「そう言うあんたこそ、どこの何者だ?」
するとファハリ大統領の執務室の中央やや壁よりに設置された、如何にも高価で頑丈そうなオーク材で出来た大きな執務机の手前に立つ一人の人物が、そう言って始末屋に問い返した。見ればその人物は光沢も鮮やかな超硬合金製の
「あたしの名は始末屋。非合法組織『
始末屋が左右一振りずつの手斧を構えながらそう言って名を名乗れば、超硬合金製の
「ほう? あんたがあの有名な、百戦錬磨の女丈夫で知られる始末屋か。ああ、申し遅れたが、私の名は『鉄の紳士』のサルダール。あんたと同じ非合法組織『
「何だと? 貴様が『鉄の紳士』の、あのサルダールだと? あたしが同業者から伝え聞いた話によれば、確か『鉄の紳士』のサルダールは『鉄の淑女』のアイーダ・サッチャーと常に行動を共にする、裏稼業のならず者らしからぬ
「ああ、確かにその通り、あんたの同業者からの伝聞とやらは事実に相違無い。しかしながら我が最愛の伴侶にして背中を預けるべき
「そうか、あの浪費家で女好きの大統領の馬鹿息子は祖国を捨てて、恥も外聞も無く亡命するつもりか。だとしたら、この執務室に居る筈の肝心要のファハリ大統領その人は、一体どこに姿を隠した?」
始末屋が手斧を構えながらそう言って問い掛ければ、問い掛けられたサルダールは顎を
「成程。反政府軍の手によって追い詰められた大統領はそこでぶるぶると震えながら身を隠すばかりで、サルダールよ、貴様がその大統領を守る最後の砦と言う訳か」
「……だとしたら、どうする?」
「決まっている。あたしはファハリ大統領を無傷のまま捕らえた上で裁きの場へと引き摺り出し、政権を転覆すべく力を貸せとの反政府軍の依頼を、貴様も良く知っているであろう『
「つまり、ファハリ大統領閣下を反政府軍の魔の手からお守りしろとの依頼を引き受けた私や私の妻のアイーダは、あんたとは決して相容れない仲だと言う訳だな?」
「ああ、その通りだ」
始末屋がそう言い終えるのとほぼ同時に、サルダールの身を包む
「遅い!」
しかしながらそう言った始末屋は、駱駝色のトレンチコートの裾を靡かせながら素早く身を翻し、こちらへと飛び来たる高温高圧の
「そのブリキの鎧の下の素っ首を、今この場で
回避と同時にそう言って啖呵を切りながら大理石敷きの執務室の床を蹴って跳躍した始末屋は、サルダールとの距離を一気に詰めると、左右一振りずつの手斧を振るって眼の前の獲物に切り掛かった。
「なんの!」
するとサルダールもまたそう言って回避行動へと移行し、その身を包む
「させるか!」
ところがそう言って更にサルダールとの距離を詰めた始末屋は、むざむざ
「ええい、小賢しい!」
「貴様こそ!」
大統領府の最奥のファハリ大統領の執務室の中央で、暫しそう言って互いを牽制し合いながら、始末屋とサルダールの二人は熾烈かつ苛烈な攻防戦を繰り広げた。始末屋の手斧の切っ先がサルダールの身を包む
「どうしたどうした、サルダールよ! 足が止まり始めたぞ!」
やがて常人ならばその動きを眼で追う事もすらも
「くっ!」
右腕を切断されたサルダールはそう言って苦悶の声を上げながら、一旦始末屋から距離を取るべく
「さあ、もう後が無いぞ!」
サルダールが
「糞っ! この黒んぼの大女め!」
「おいおい、一体何を言っている? 肌の色の黒さなら、あたしも貴様もさほど大差が無い筈だろう?」
そう言った始末屋は再び執務室の床を蹴って跳躍し、左右一振りずつの手斧を振り被りながら手負いの獲物との距離を一気に詰めると、右腕を切断された事によって戦意を喪失しつつあるサルダールに容赦無く切り掛かる手を止めない。
「ひっ!」
切り掛かられたサルダールは恐れ
「ぎゃあっ!」
そう言って短い悲鳴を上げたサルダールと始末屋の足元に、やはり右腕に続いて切断された左腕もまた八百屋の店先に並べられた大根か何かの様にごろりと転がり、彼の両腕の切断面からぼたぼたと滴り落ちた真っ赤な鮮血が大理石敷きの執務室の床をしとどに濡らす。
「さあ、サルダールよ、そろそろ年貢の納め時だ」
始末屋はそう言いながら、眼の前の獲物に
「ま、ままま待つんだ始末屋! 降参だ! 降参する! 私はもう、これ以上あんたと戦うつもりは無い!」
恥も外聞も無くそう言って無条件降伏と命乞いの言葉を口にするサルダールに、非情にも始末屋は最後通牒を突きつける。
「何? 降参だと? おい、まさか貴様、我らが誇り高き『
「ま、ままま待ってくれ! お願いだ、命だけは、命だけは助けてくれ! ここで私が死んだら妻であるアイーダが悲しむし、彼女は今、私達二人の初めての子供を身籠っているんだ! だから、頼む! 我が子の顔をこの眼で拝むまで、どうかお願いだから、殺さないでくれ!」
両腕を失ったサルダールは執務室の床に
「見苦しい生き恥を晒すな、サルダールよ。畏れ多くも
やはり非情にもそう言い放った始末屋は、絶望のあまり「そんな……」と言いながら項垂れるばかりのサルダールの身を包む
「!」
渾身の力でもって振り抜かれた手斧の切っ先が、断末魔の叫びを上げる間も与えぬままサルダールの素っ首を
「まったく、最後の最後につまらぬ命乞いでもって、せっかくの勝負に余計な水を差してくれる」
ふんと鼻を鳴らした始末屋は如何にも不満げな表情と口調でもってそう言いながら、返り血を切り払った左右一振りずつの手斧を、駱駝色のトレンチコートの懐へと仕舞い直した。彼女の足元にはその身を包む
「さて、と」
やがて気を取り直した始末屋が真っ赤なネクタイを締め直しながらそう言って、足元に転がるサルダールのばらばら死体から、執務室の中央やや壁よりに設置された執務机の陰へと視線を移動させた。
「ひっ!」
するとその執務机の陰に身を隠していた肥満体の黒人男性、つまりファハリ大統領がそう言って身を竦ませ、恐怖と戦慄の声を上げながら恐れ戦く。
「さあ、ファハリ大統領よ、貴様もまたそこに転がっているサルダール同様、年貢の納め時だ。勧告に従って大人しく投降し、反政府軍の手に落ちよ。生け捕りを依頼されたからには殺しはしないが、もし仮に抵抗するならば、腕の一本や二本は失う事にもなりかねんぞ?」
始末屋がそう言って恫喝交じりに投降を勧告しながら、執務机の陰でがたがたと震えるばかりのファハリ大統領の元へと歩み寄ろうとした、まさにその時だった。不意に彼女の耳に、絹を裂くかのような女性の悲鳴が届いたかと思えば、浅い眠りに就いていた筈の始末屋ははっと眼を覚ます。
「何だ?」
はっと眼を覚ました始末屋はそう言って、素早くアイマスクを放り捨てて毛布を跳ね除けると、ビジネスクラスのフルフラットシートから高度10000mの大空を飛行する旅客機の床へと降り立った。するとビジネスクラスの後方の、エコノミークラスの区画に居た筈の乗客達が悲鳴を上げながら彼女の脇を走り抜け、まるで恐ろしい何かから距離を取るかのような格好でもって狭い機内を逃げ惑っているのが眼に留まる。
「きゃあああぁぁぁっ!」
そして再びの悲鳴が始末屋の耳に届くのとほぼ同時に、エコノミークラスの区画からビジネスクラスの区画へと、一人の天を突くかのような巨漢が若い女性の
「し、ししし、しま、始末屋って奴は、お、おお、お、お前か? お前なのか? お前の事なのか?」
その天を突くかのような巨漢、つまり首から上が土佐犬のそれである半人半獣の大男はそう言って
「おい、そこの首から上が犬畜生の貴様、貴様が探している始末屋とは、このあたしの事だ」
そこで始末屋がそう言って歩み寄りながら名乗り出れば、首から上が土佐犬の半人半獣の巨漢は、おもむろにこちらへと眼を向ける。
「お、おま、お前が始末屋なのか? そうなのか?」
「だからたった今しがた、あたし自ら名乗り出てやったばかりだと言うのに、聞こえていなかったのか? さては貴様、外見だけでなく、脳味噌の容量と処理速度もまた犬畜生と同程度と見受けられる。いみじくも大男は総身に知恵が回りかねるとは、良く言ったものだ」
彼女自身もまた身の丈が210cmにも達する大女であるにも拘らず、そんな自分の事は棚に上げた始末屋は、
「しょ、しょりそくど? そうみ? お、お前は一体、さっきから何を言ってるんだ?」
「つまり、貴様は馬鹿だと言う事だ」
「な、何だと? お、おおお、おで、おで様が馬鹿だと言ったのか?」
ようやく自分が馬鹿にされている事を理解した巨漢はそう言って、土佐犬の顔を真っ赤に紅潮させながら怒り狂ったかと思えば、勢い余って鷲掴みにしていた若い女性の
「あ」
巨漢はそう言ってほんのちょっとだけ
「ま、まあいい! とにかく、お前が始末屋なんだな? そうなんだな?」
そう言って気を取り直した巨漢が、頭部が腐ったトマトの様に潰れてしまった
「そう言う貴様こそ、誰だ?」
「お、おおお、おで様の名は闘犬番長! ひゃ、百人力の
「闘犬番長だと?」
言われてみれば確かに、眼の前の首から上が土佐犬の巨漢の首には
「それで、その闘犬番長とやらが、一体このあたしに何の用だ?」
「き、ききき決まってる! おで様のこの手で『禁忌破り』であるお前を殺して、故郷に錦を飾るのだ!」
「ほう? しかし威勢がいい割に、貴様が殺すべきあたしの顔は満足に覚えてはいなかったようだな」
始末屋はそう言いながら、旅客機の床に転がる若い女性の
「う、うるさい、黙れ! 黙れ! 黙れ! ととととにかく始末屋、おで様がお前を殺してやるから、覚悟しろ!」
首に巻かれた化粧廻しの
「くっ……」
巨漢と大女による正面切っての力比べは、どうやらより一層身体が大きい闘犬番長に軍配が上がったらしく、次第次第に押し負けつつある始末屋がとうとうそう言って旅客機の床に膝を突いてしまった。常人離れした膂力を誇る筈の彼女が押し負けるとは、闘犬番長の膂力はその体躯の大きさに比例した、まさに野生の獣の生命力を
「ど、どどどどうした始末屋! おで様の力の前に、為す術も無いか!」
始末屋を半ば組み伏せてみせた闘犬番長がそう言って早くも勝ち誇り、やはり闘犬として知られる土佐犬らしく、口元から真っ白い
「糞っ!」
すると冷静沈着を旨とする彼女にしては珍しく口汚い悪態を吐きながら、手四つの体勢で組み合っていた手を振り
「成程、さすがは『バンカラ獣人』を自ら標榜するだけあって、その名に恥じぬ見事な力量だ。だがしかし、得物の一つも持たぬ徒手空拳のままの貴様が、このあたしの手斧の威力に耐えられるかな?」
若干感心しながらそう言った始末屋は、その身を包む駱駝色のトレンチコートの懐に両手を差し入れた。そしてその両手が懐から引き抜かれれば、そこには左右一振りずつの手斧が握られており、丹念に研ぎ上げられた鋭利な切っ先が旅客機の客室の間接照明の灯りを反射してぎらりと輝く。
「さ、ささささっきから黙って聞いてやってれば、お前は『禁忌破り』のくせに偉そうな口ばかり叩きやがって、
「ああ、貴様に言われずとも、掛かって行くさ」
まさに有言実行、そう言って啖呵を切った始末屋は旅客機の客室の床を蹴って跳躍すると、その手に握る左右一振りずつの手斧でもって、闘犬番長に切り掛かる事を
「ふん!」
跳躍した始末屋は鼻息荒くそう言うと、さながら彼女自身を鼓舞するかのような掛け声と共に大上段の構えから手斧を振り下ろし、その切っ先でもって闘犬番長の脳天を真っ二つに叩き割らんと試みた。しかしながら闘犬番長は、その毛深く野太い二本の腕を頭上で交差させながら頭部をガードする事によって、振り下ろされた始末屋の手斧の切っ先をいとも
「ちっ!」
手斧による必殺の一撃を弾き返されてしまった始末屋が、舌打ち交じりに後方へと飛び
「ど、どどどどうだ始末屋め、恐れ入ったか! お、おおお、おで、おで様の堅牢堅固な肉体の前では、そんな
一体全体どこでどうやって覚えて来たと言うのか、ついさっきまで『処理速度』や『総身』と言った単語の意味が理解出来なかった筈の闘犬番長は、その身にそぐわぬ『堅牢堅固』だの『
「闘犬番長よ、貴様、見掛けによらず随分と口が達者なようだが、勝ち誇ってみせるのはあたしを倒してからにするんだな」
そう言った始末屋は再び旅客機の客室の床を蹴って跳躍し、今度は必殺の得物である筈の左右一振りずつの手斧を交互に振るいながら、眼にも留まらぬ連続攻撃を眼前に
「無駄だ、無駄だ、無駄だ! そ、そそそ、そんな蚊に刺されたほどの痛みも感じないような生温い攻撃なんぞが、このおで様に通用するものか!」
しかしながらそう言って繰り返し勝ち誇ってみせる闘犬番長の言葉通り、始末屋が振るう手斧の切っ先は彼の身を包む長ランこそ切り刻みはするものの、肝心要の闘犬番長の生身の肉体そのものにはかすり傷、つまり浅い擦過傷程度のダメージしか与える事が出来ない。
「さあ、今度はおで様の番だぞ!」
するとそう言った闘犬番長がぎゅっと固く握り締めた拳を引いて腋を締め、腰をぐっと落として攻撃の予備動作へと移行したかと思えば、その巨体に見合わぬ速度による正拳突きを始末屋の腹部に叩き込む。
「ぐはぁっ!」
硬度、速度、それに重量の三要素、つまり破壊力を生み出す主たる要因の全てを兼ね備えた正拳突きをまともに喰らってしまった始末屋はそう言って、血反吐を吐くと同時に苦悶の声を上げた。そしてビジネスクラスの座席を薙ぎ倒しながら客室の端まで吹っ飛んだ彼女の身体は、旅客機の機体を支える柱に埋め込まれた大型液晶モニターに激突し、その配線の高圧電流でもって焼き焦がされ、ぶすぶすと煙を
「ど、どどど、ど、どうだ始末屋! おで様の必殺技、泣く子も黙る『闘犬パンチ』の威力は! この必殺パンチをまともに喰らって立ち上がった奴は、今の今まで、一人も存在しないんだからな!」
勝利を確信したらしい闘犬番長は声高らかにそう言って、やはり闘犬として知られる土佐犬らしく、口元から真っ白い
「成程、確かに必殺技を標榜するだけの事はある、凄まじい威力の正拳突きだ。その事実は、甘んじて受け入れよう。だがしかし、この程度の突き技を喰らった程度で立ち上がった者が一人も存在しないとは、さては貴様、さほど強い相手と戦った事が無い
「な、何だと? おおおおで様が、よりにもよって、
「ああ、そうだ、その通りだ。その証拠に、今こうしている間にも追撃を仕掛けようともしない詰めの甘さが、貴様の
始末屋が呼吸を整えながらそう言えば、勢い闘犬番長は怒りを露にせざるを得ない。
「う、ううううるさい、黙れ! 黙れ! 黙れ! そんな大口を叩いてみせるなら、今すぐおで様が、お前に
怒り心頭の闘犬番長は激しく地団駄を踏みながらそう言うと、再びぐっと腰を落として身構えてから始末屋目掛けて突進し、今度は相撲で言うところのぶちかましによる攻撃を試みた。しかしながら始末屋は、闘犬番長の頭上をひらりと飛び越えてこれを回避したかと思えば、彼の背後に回り込むと同時に闘犬番長の首に巻かれた化粧廻しの
「な、ななな何をするつもりだ!」
そう言って激しく困惑、もしくは狼狽する事しきりの闘犬番長の言葉には一切耳を貸さぬまま、始末屋は掴み取った化粧廻しの
「如何に堅牢堅固な肉体を誇る貴様でも、気道と頸動脈を圧迫されて新鮮な酸素と血液の供給を断たれれば、無事では済むまい」
そう言った始末屋は、常人離れした膂力を存分に発揮しながら、闘犬番長の首をぎりぎりと締め上げ続ける手を止めない。
「が……あ……あ……」
始末屋が彼の首を化粧廻しの
「あ……」
そして遂に、最後に短くそう言った闘犬番長は白眼を剥いて意識を失い、その場に崩れ落ちるような格好でもって昏倒したまま客室の床に突っ伏した。土佐犬のそれである彼の首から上の、だらしなく開け放たれた口元からは
「ふう」
やがて闘犬番長を仕留め終えた始末屋はそう言って一息吐くと、額に浮かぶ玉の様な汗の粒を、駱駝色のトレンチコートの袖で拭い取った。するとちょうどその時、流麗な若い女性の声による機内アナウンスが彼女の耳に届く。
「この飛行機は、およそ5分後にコート・ダジュール国際空港に着陸いたします。只今の時刻は午前11時ちょうど、天気は快晴、気温は27℃でございます。着陸に備えまして、皆様のお手荷物は離陸の時と同じように上の棚など、しっかり固定される場所にお入れください」
「やっと到着か」
機内アナウンスを耳にした始末屋はまるで独り言つかのようにそう言って、左右一振りずつの手斧を駱駝色のトレンチコートの懐に仕舞い直すと、ビジネスクラスの自分の座席へと座り直した。するとそんな彼女の座席の傍らに、闘犬番長の手によって無残にも頭部を握り潰されてしまった、若い女性の
「成仏しろよ、若いの」
やはり取り立てて何の感慨も無いままに、ぶっきらぼうな表情と口調でもってそう言った始末屋は、シートベルトを固く締め直して着陸の態勢へと移行した。そしておよそ数分後、彼女とその他大勢の乗客達を乗せた旅客機は、コート・ダジュール国際空港の第1滑走路へと緩やかに滑り込む。
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