第七幕


 第七幕



 やがて夜が明け、うっすらと白み始めた東の地平線の彼方から陽が昇り、今日もまたパリ郊外のスラム街の街並みが朝焼けに包まれると同時に始末屋は眼を覚ました。

「……」

 眼を覚ました全裸の始末屋はベッドの上で半身を起こし、枕元に放置されていた彼女のスマートフォンでもって現在の時刻を確認し終えると、硬く冷たい板敷きの床に素足のまま降り立って背筋を伸ばす。

「……もう朝か」

 そう言った始末屋は一糸纏わぬ全裸のまま彼女の活動拠点セーフハウスを縦断すると、下腹部を支配する便意と尿意に従って、まずはトイレへと足を踏み入れた。そして洋式便器の便座にどっかと腰を下ろすと同時に、驚くほど大量の大小便を、誰憚だれはばかる事無くぶりぶりと勢い良くひり出し始める。

「ふう」

 昨夜食べた寸胴鍋三杯分ものソーセージと野菜のスープの成れの果てである、太くて長い特大の一本糞をひり出し終えると、そう言って一息吐いた始末屋はトイレットペーパーでもって肛門とその周囲にこびり付いた糞便をしっかり拭き取ってから腰を上げた。そしてひり出した一本糞が大量の流水と共に下水管の彼方へと流れ去ったのを確認すれば、今度はトイレの隣のバスルームでもって熱いシャワーを浴び始める。

「……」

 無言のままシャワーを浴び終えた始末屋は蒸気がもうもうと立ち込めるバスルームから退出すると、バスタオルとドライヤーでもって褐色の肌に覆われた肢体と頭髪を伝い落ちる水滴を丹念に乾かしながら、今度は造り付けのクローゼットを開け放った。開け放たれたクローゼットの中には、彼女のトレードマークである黒い三つ揃えのスーツと真っ赤なネクタイ、駱駝色のトレンチコート、それに黒光りする革手袋と革靴が何着何足もぎっしりと収納されているのが眼に留まる。

「よし」

 クローゼットを埋め尽くす何着何足もの衣服の中からそれぞれ一着一足ずつを選び取った始末屋は、それらに袖を通し終えると同時にそう言って、臨戦態勢を整えた。着慣れたスーツとネクタイとトレンチコート、それに革手袋と革靴に身を包めば、まさに文字通りの意味でもって身が引き締まる思いであると言わざるを得ない。そして駱駝色のトレンチコートの懐におもむろに両手を差し入れ、やはり彼女のトレードマークの一つであると同時に必殺の得物でもある左右一振りずつの手斧を引き抜くと、その切っ先を虚空に向けて振りかざす。

「アイーダ・サッチャーめ、よりにもよってこのあたしに濡れ衣を着せた事を深く後悔しながら、首を洗って待っているがいい。必ずや貴様の素っ首を、このあたしの手斧でもってね飛ばしてくれる」

 次の瞬間、そう言った始末屋は丹念に研ぎ上げられた手斧の切っ先でもって、虚空に想い描いたアイーダ・サッチャーの虚像を素早く切り払った。そして再びトレンチコートの懐に手斧を仕舞い直すと、くるりと踵を返し、彼女の活動拠点セーフハウスの一つであるアパートメントの一室を後にする。

「おや、昨日の今日で、もう旅立たれるのかね?」

 アパートメントの敷地の内と外とを隔てる鉄扉を潜った始末屋に、その鉄扉の傍らに置かれた椅子に腰を下ろした痩せ衰えたロマ人の老婆が、膝の上に乗せた太った三毛猫の背中を撫でながらそう言って問い掛けた。

「ああ、今すぐにでも解決すべき、急ぎの用事が出来てな。ほら、これは向こう一年分の部屋代と、掃除の礼だ」

 そう言った始末屋は輪ゴムで縛った丸めた米ドル札の札束を、ほんの数束ばかりロマ人の老婆にぽいと投げ渡し、投げ渡された老婆はそれらの札束を上着のポケットに仕舞いながら感謝の言葉を口にする。

「毎度ありがとうございます、黒い肌のお嬢さん。今後ともご贔屓に。それじゃあお元気で、良い旅を」

「貴様こそ達者でな、ご老体」

 始末屋はそう言うと、その身を包む駱駝色のトレンチコートの裾を遠く地中海上空を吹き抜けて来た爽やかな夏風に靡かせながら、荒廃し切ったパリ郊外のスラム街から足早に立ち去った。そしてモナコ公国へと舞い戻ってアイーダ・サッチャーとの因縁に終止符を打ち終えるべく、まずはパリの空の玄関口とも言える、シャルル・ド・ゴール国際空港の方角へと足を向ける。

「タクシー!」

 やがて陰鬱かつ蕭々しょうしょうたる空気に支配されたスラム街を後にした始末屋は、黒光りする革手袋に包まれた右手を挙げながらそう言って、プレジダン・ヴィルソン通りを走る一輛のタクシーを呼び止めた。

「シャルル・ド・ゴール国際空港へと向かえ。急げ、大至急だ。ぐずぐずしていたら、その尻を蹴り上げるぞ」

 停車したタクシーの後部座席に乗り込んでシートベルトを締めた始末屋がそう言って命じれば、如何にも移民らしい面構えの運転手は、東欧訛りのフランス語でもって彼女に問い掛ける。

「なあ、お客さん? そんなに急いでるんだったら、この先の高速道路を利用しちまっても構わないかい? 勿論その場合、高速道路の通行料金は、お客さんに負担してもらうがね?」

「ああ、構わん。好きにしろ」

 始末屋がそう言い終えるのとほぼ同時に、エンジンを激しく唸らせながら急発車したタクシーは、彼女を乗せたままプレジダン・ヴィルソン通りを真っ直ぐ北上し始めた。そしてノール高速道路に合流すると、1998年に開催された第16回FIFAワールドカップの決勝戦の会場として名高いスタッド・ド・フランスを右手に臨みつつ、シャルル・ド・ゴール国際空港が在る北東の方角へと大きく舵を切る。

「お客さん、フットボールは好きかい?」

 すると初夏の西ヨーロッパの爽やかな陽光を浴びてきらきらと光り輝く立派な屋根に覆われた、荘厳な佇まいの全天候型多目的スタジアムであるスタッド・ド・フランスをちらりと一瞥しながら、タクシーの運転手がやはり東欧訛りのフランス語でもってそう言って始末屋に問い掛けた。

「いや、別に。あたしはフットボールはもとより、そもそもスポーツ全般に対して、取り立てて興味が無い」

 始末屋はぶっきらぼうな表情と口調でもってそう言うが、タクシーの運転手は彼女に構わず一人語りを始める。

「そうかい、そいつは残念だ! フットボールこそ神が人類に与え給うた、この世で最もエキサイティングな、極上にして至高のエンターテイメントなんだぜ? 実は俺は、こう見えてもウクライナの首都キエフの出身で、FCディナモ・キエフの熱心なサポーターの一人なのさ! だからお客さんも、もし良かったら俺らと一緒にスタジアムまで足を運んで、FCディナモ・キエフを応援してみないかい? ほら、これは俺からの、ささやかなプレゼントだ! 受け取ってくれよ!」

 そう言ったタクシーの運転手は、後部座席に座る始末屋に向かって、ぽんと何かを投げ渡した。投げ渡された始末屋がその何かを手に取ってみれば、それはFCディナモ・キエフの青と白のチームエンブレムと二つの黄色い星印が染め抜かれた、一枚のフェイスタオルである。

「どうだい? これでお客さんも、少しはフットボールとFCディナモ・キエフに関心を抱いてくれたかい?」

「ああ、そうだな」

 始末屋はそう言って、ぶっきらぼうな生返事と共に、投げ渡されたFCディナモ・キエフのフェイスタオルをトレンチコートのポケットに無造作に突っ込んだ。そしてパリの街を縦断するノール高速道路を、北東の方角に在るシャルル・ド・ゴール国際空港目指して走り続ければ、やがて始末屋を乗せたタクシーはジョルジュ=ヴァルボン州立公園へと差し掛かる。

「?」

 タクシーの後部座席に乗ったまま、緑豊かなジョルジュ=ヴァルボン州立公園の脇を走り抜けようとした始末屋は、とある異変に気付いて眉根を寄せた。何故なら決して地震に見舞われた訳でも突風が吹いている訳でもないのに、ノール高速道路沿いに林立する木々が、ざわざわと激しくざわめき始めたからである。

「おい、何だありゃ!」

 するとタクシーのハンドルを握るキエフ出身の運転手がそう言って、驚愕と困惑、そして恐怖と畏怖の声を上げた。そこで彼の視線の先に眼を向けると、ジョルジュ=ヴァルボン州立公園の敷地内に生えていた筈の木々が地面から根っこを引き抜くと同時に、まるで海底を這い進むたこか何かにも似た動きと共にこちらに向けて駆け寄って来るのが見て取れる。そして脚代わりの根っこを律動させながら歩く木々の一群が、ノール高速道路を走る車列を次々に薙ぎ倒し始めたかと思えば、遂には始末屋を乗せたタクシーもまたそれらの木々と激突してしまった。

「!」

 激突した歩く木々の一群によって弾き飛ばされ、空中でぐるぐると二回転してからノール高速道路の路面に叩き付けられるような格好でもって落着したタクシーの車内で、始末屋は手足を踏ん張って衝撃に耐え続ける。

「ふん!」

 やがて天地がひっくり返ってしまった状態のままルーフとボンネットを路面に接触させながら、ようやくその動きを止めたタクシーの後部座席のドアをそう言って強引に蹴り開けた始末屋は、シートベルトを外すと同時に車外へと這い出した。そしてぐるりと周囲を見渡せば、ノール高速道路を走っていた筈の数多の車輛が横転や反転を繰り返しつつそこかしこに転がって、人々は悲鳴交じりに逃げ惑い、ちょっとしたパニック映画さながらの様相を呈している。

「運転手よ、貴様もぐずぐずしてないで、早く逃げるがいい」

 ノール高速道路の路面に降り立った始末屋はそう言って、つい今しがたまで彼女が乗っていた、今は横転してしまっているタクシーの運転席を一瞥した。しかしながら、そこに居る筈の運転手からの返事は無い。

「おい、どうした?」

 返事が無い事を訝しんだ始末屋がそう言って、横転したまま動かないタクシーの運転席を覗き込めば、運転手はあらぬ方向に首が曲がったまま死んでいた。どうやらシートベルトを締め忘れた彼は、横転するタクシーの車内でもみくちゃにされながら、フロントガラスか何かに頭部をぶつけた際の衝撃でもって首の骨を折ってしまったものと思われる。

「成仏しろよ、FCディナモ・キエフのサポーターよ」

 やはり始末屋は、取り立てて何の感慨も無いままにそう言いながら、トレンチコートのポケットから取り出したFCディナモ・キエフのフェイスタオルでもってタクシーの運転手の顔をそっと覆ってやった。フェイスタオルに染め抜かれた、鮮やかな青と白のチームエンブレムと二つの黄色い星印が、タクシーの運転手に対するせめてものはなむけとなる事を願って止まない。

「やあやあやあ、そちらにられるあなた様こそが、かの有名な『禁忌破り』の始末屋さんでいらっしゃいますね?」

 するとそう言って彼女の名を呼ぶ声が背後から聞こえて来たので、タクシーの運転手を弔った始末屋が振り返れば、そこには一本の巨木が彼女の行く手を遮るかのような格好でもって立ちはだかっているのが眼に留まる。

「おやおやおや、始末屋さんときたら、どちらを向いておいででしょうか? あたしはそちらではなく、こちらに居るのですよ?」

 再びそう言った声が聞こえて来た正確な方角、つまり行く手を遮る巨木の樹冠の方角へと眼を向けた始末屋は、巨木の幹の先端部分に屹立しながらこちらを見下ろす一人の成人女性と視線を絡ませた。

「貴様、誰だ?」

「おっとっとっと、これはこれはこれは、あたしともあろう者がうっかり名乗り遅れてしまいました事を、心から謝罪させていただかないといけませんね? あたしはミス・フォトシンセシスと言う名の、しがない執行人エグゼキューターの一人で御座います。どうか今後とも、お見知り置きくださいませ」

 うやうやしいお辞儀と共にそう言った巨木の幹の先端部分に屹立する一人の成人女性、つまり西欧のお伽噺に登場する魔法使いが被っているような大きな花飾りが縫い留められたエナン帽を頭に被った緑色の肌の女性は、眼下の始末屋を見下ろしながら不敵にほくそ笑む。

「ミス・フォトシンセシス……あたしの記憶が確かならば、貴様は自ら率先して『光合成女史』を標榜して止まない、植物を自在に操ると言う噂の執行人エグゼキューターだな?」

「おやおやおや、音に聞こえた上位ランカーの執行人エグゼキューターである始末屋さんがあたしの事をご存知とは、感謝感激、光栄の至りに存じます。確かにあたしは植物を自在に操り、自ら『光合成女史』を標榜して止まない身ではありますが、決して天狗になっている訳ではない事をどうぞご理解ください」

 穏やかな口調でもってそう言った緑色の肌のミス・フォトシンセシスの足元では、彼女が屹立する巨木以外にも多くの木々や草花と言った植物群がまるで動物の様にざわざわと蠢き、その姿は小説や映画で有名な『指輪物語ロード・オブ・ザ・リング』の劇中に登場する木の巨人エント族を髣髴ほうふつとさせた。そしてどうやら、これらの木々や草花がまるで海底を這い進むタコか何かにも似た動きと共に移動する際の衝撃でもって、始末屋が乗っていたタクシーも含めたノール高速道路を走る車列が薙ぎ倒されてしまったと言う事らしい。

「さてさてさて、前置きはこのくらいにしておいて、始末屋さん、そろそろあなたにはこのあたしの手によって殺されていただかなければなりません。いみじくも『禁忌破り』の大罪人であるあなたを殺してその首を調整人コーディネーターに差し出せば、晴れて『大隊ザ・バタリオン』に於けるあたしの地位も、より一層の向上が確約されると言うものですからね?」

 樹上のミス・フォトシンセシスが不敵にほくそ笑みながらそう言えば、彼女から宣戦を布告される格好になった始末屋は、その身を包むトレンチコートの懐に自らの両手を差し入れた。そしてその手が引き抜かれたかと思えば、そこには左右一振りずつの手斧が握られており、アーカンサス砥石によって丹念に研ぎ上げられた鋭利な切っ先が初夏の西ヨーロッパの陽光を反射してぎらりと輝く。

「戯言を抜かすがいい、ミス・フォトシンセシスよ。たとえ貴様がどれ程の手練れであろうとも、百戦錬磨、常勝無敗を誇る執行人エグゼキューターとして知られたこのあたしに適うと思うなよ」

 臨戦態勢を整え終えた始末屋が、左右一振りずつの手斧を構えながらそう言って眼の前の『光合成女史』を挑発すれば、挑発されたミス・フォトシンセシスもまた黙ってはいない。

「おやおやおや、始末屋さんったら、随分と大口を叩いてくれるじゃありませんか? でしたら不肖ながらも、このあたし程度の執行人エグゼキューター眇々びょうびょうたる攻撃くらいの事は、まるで赤子の手を捻るかのように易々と手玉に取ってみせていただけるのでしょうね?」

 そう言ったミス・フォトシンセシスはそっと右手を挙げると、音も無く眼下の始末屋を指差しつつも、やはり穏やかな口調でもって「さあ、お前達、殺ってしまいなさい!」と配下の植物群に命じた。すると次の瞬間、彼女の足元の巨木とその他大勢の木々や草花の枝葉や根っこやつるが唸りを上げながらこちらへと飛び来たり、まるで意思を持った獣の群れの様に一斉に始末屋に襲い掛かる。

「くっ!」

 どうやら元々はノール高速道路の隣のジョルジュ=ヴァルボン州立公園の敷地内に植えられていたらしい、今はミス・フォトシンセシスによって操られている植物群による波状攻撃を前にした始末屋は、素早い身のこなしによってそれらの攻撃を回避しつつも防戦一方の窮地に立たされた。

「ほらほらほら、一体どうしてしまわれたのかしら? 始末屋さんったら、そんなに逃げ惑ってばかりでは、自らを百戦錬磨、常勝無敗を誇るとまで称した執行人エグゼキューターの名折れでしてよ?」

 ミス・フォトシンセシスがそう言いながら左右の手を巧みに振りかざせば、彼女の配下の植物群はまるで指揮者の指揮に従う楽団オーケストラの奏者さながらに攻撃を繰り出し続け、それを回避する始末屋は文字通りの意味でもって息吐く暇も無い。そして彼女らの死闘に巻き込まれまいと、たまたまその場に居合わせてしまった無関係な一般市民達もまた、悲鳴や怒号や罵声と共にノール高速道路の路上を散り散りになって逃げ惑うばかりである。

「ふん!」

 勿論始末屋とても只々逃げ惑っているばかりでなく、左右一振りずつの手斧を鼻息も荒く振るいながら迫り来る植物群の枝葉や根っこやつるなどを切り払ってはいるものの、多勢に無勢ではどうにもこうにも反撃の糸口が掴めない。

「あらあらあら、足元がお留守じゃなくって?」

 そう言ったミス・フォトシンセシスが振りかざした右手の指先で、すっと天を指差せば、ノール高速道路の路面を突き破るような格好でもってぼこぼこと巨木の根っこが姿を現した。そしてその根っこの先端が獲物を捕らえるたこの脚の様に始末屋の左の足首に絡み付き、彼女の動きを封じると同時に数本の木々が一斉にこちらへと倒れ込んで来て、自らの体重の利用しながら始末屋の身体を押し潰しに掛かる。

「くっ!」

 しかしながら始末屋は素早く手斧を振り下ろし、彼女の左の足首に絡み付く巨木の根っこの先端を切断すると、こちらへと倒れ込んで来る木々による捨て身のボディ・プレスを間一髪のタイミングでもって回避してみせた。

「まあまあまあ、始末屋さんったら、思っていた以上にしぶといんじゃなくて? でしたら、こう言った趣向は如何なものかしら?」

 やはり自らの指先を指揮棒に見立てたミス・フォトシンセシスがそう言って指で空を切れば、今度は鋭いとげが生えた無数の蔓植物のつるが鞭の様にしなりながら飛び来たり、始末屋の身体を激しく鞭打つと同時にそのとげでもって彼女の皮膚や肉を切り裂き始める。

「ええい、鬱陶しい!」

 始末屋はそう言って悪態を吐きながら、彼女の身体を激しく鞭打つつるとげとを手斧の切っ先でもって繰り返し切り払い続けるものの、次から次へと間断無く襲い来る植物群の前では焼け石に水と言う他無い。そして身の丈が210cmにも達する始末屋の身体の随所に殴打痕にも似た鞭打たれた痕跡が刻まれ、その褐色の肌に覆われた顔にもまた裂傷が刻まれた頃を見計らい、ミス・フォトシンセシスが巨木の幹の先端部分に屹立したまま眼下の彼女に問い掛ける。

「さあさあさあ、このままじわじわと嬲り殺すと言うのもいささか芸がありません事ですし、高速道路を塞いでいるのも迷惑でしょうから、そろそろとどめを刺して差し上げましょうか?」

 勝利を確信しながらそう言ったミス・フォトシンセシスの問い掛けに対する始末屋の返事は、たった一つしか存在し得ない。

「ふざけるなよ、この光合成しか能が無い植物女め。貴様も貴様の手下の雑草どもも、あたしの手斧の餌食にしてくれる」

 そう言って啖呵を切った始末屋は、素早く後方へと飛び退りながら手斧を振るい、手近な路上で横転していた大型トラックのシャーシの下の燃料タンクに拳大の穴を穿った。穿たれた穴からおびただしい量のガソリンがどぼどぼと止め処無く漏れ出し、周囲一帯に薄く広く撒き散らされるような格好でもって、ノール高速道路の路面をしとどに濡らす。

「まさかまさかまさか!」

 眼下のノール高速道路の路面が薄桃色のガソリンでもって濡れそぼる様子を眼にしたミス・フォトシンセシスはそう言って、困惑と狼狽の色を露にするものの、時既に遅しと言う他無い。

「除草されるがいい、この雑草どもめ」

 再び後方へと飛び退りながらそう言った始末屋は、手にした左右一振りずつの手斧の鋼鉄製の斧頭同士を、がちんと激しくぶつけ合う事によって打ち鳴らした。すると打ち鳴らされた際の衝撃でもって幾筋もの火花が周囲に飛び散り、その火花が気化したガソリンに引火する。

「ひっ!」

 引火したガソリンがオレンジ色に光り輝く業火と視界を埋め尽くすかのような黒煙を天高く噴き上げながら、瞬く間にノール高速道路の路面一杯に燃え広がると、その業火が生み出す放射熱に晒される格好になったミス・フォトシンセシスはそう言って恐慌の声を上げた。そして彼女の配下の植物群もまた猛烈な熱と煙を恐れて委縮してしまい、始末屋に対する攻撃の手を緩めたかと思えば、業火に包まれたノール高速道路からの逃走を開始する。

「こらこらこら、お前達、逃げずに戦いなさい! あたしの命令に従って、始末屋さんと戦いなさいったら!」

 ミス・フォトシンセシスはそう言って配下の植物群に戦闘の継続を命じるが、命じられた木々や草花はそんな彼女の命令を無視して次々に踵を返し、燃え盛る炎から逃れるような格好でもってジョルジュ=ヴァルボン州立公園の方角へと姿を消すばかりだ。そして遂には足元の巨木もまた踵を返した事によって、うっかり体勢を崩してしまったミス・フォトシンセシスは足を踏み外すと、そのまま樹上から路面へと落下する。

「きゃっ!」

 樹上から落下してしまったミス・フォトシンセシスはノール高速道路の硬く冷たい路面にしたたかに顔面を打ち付け、思わずそう言って悲鳴を上げはするものの、そんな彼女に救いの手を差し伸べる者は居ない。

「痛たたた……」

 そして顔面をしたたかに打ち付けたミス・フォトシンセシスがそう言って、鼻腔から樹液の様に真っ白い鮮血を噴き出しながら顔を上げれば、彼女の眼前に褐色の肌の大女が立ちはだかる。

「やはり雑草は、焼き払うに限る」

 果たして燃え盛る炎を背にしながらそう言って立ちはだかった褐色の肌の大女こそ、今更言うまでもない事ではあるものの、駱駝色のトレンチコートにその身を包む始末屋その人に他ならない。そして始末屋は、その手に携えた左右一振りずつの手斧の丹念に研ぎ上げられた切っ先を、ミス・フォトシンセシスの鼻先に突き付けた。

「ひっ!」

 手斧の切っ先を鼻先に突き付けられたミス・フォトシンセシスはそう言って、短い恐慌の声を上げながら、ノール高速道路の路面に尻餅を突くような格好のまま数歩ばかり後退あとずさる。

「さあ、貴様の手下どもは姿を消したぞ、ミス・フォトシンセシスよ。今こそ年貢の納め時だ。貴様も一端の執行人エグゼキューターならば、潔く覚悟を決めて、立派に往生してみせるがいい」

 そう言って死刑宣告にも等しい言葉を並べ立てると、始末屋はミス・フォトシンセシスに引導を渡すべく、彼女の鼻先に突き付けていた手斧を大上段に振り被った。そしてその手斧の切っ先が、エナン帽の下のミス・フォトシンセシスの脳天目掛けて振り下ろされんとした、まさにその瞬間。自ら率先して『光合成女史』を標榜して止まない執行人エグゼキューターである筈の彼女は、まるで土下座を繰り返すかのような格好でもって、ぺこぺこと頭を下げながら命乞いの言葉を並べ立てる。

「ま、ままま、待って待って待って! 待ってくださいませんか、始末屋さん! どうかどうかどうか! どうか後生ですから、あたしを抹殺せずに、この場ばかりは見逃してはいただけないものでしょうか? もし仮に見逃していただけましたならば、そのご恩は一生涯忘れる事無く、今後あなた様が窮地に立たされた際には必ずやこのあたしが救いの手を差し伸べに馳せ参じますから! どうか、お願いいたします! どうか、どうかこの通り!」

 まさに文字通りの意味でもって平身低頭しながらそう言って、土下座と共に命乞いの言葉を並べ立てるばかりのミス・フォトシンセシスを前にした始末屋の、今まさに手斧を振り下ろさんとしていた手がぴたりと止まった。どうやら彼女は興が削がれたとでも言うべきか、とにかく死闘に水を差される格好になってしまった事によって興醒めし、まるで便器の底の汚物にでも向けるような侮蔑と軽蔑の眼差しでもってミス・フォトシンセシスを睨み据えざるを得ない。

「……おい、貴様、それは本気で言っているのか?」

「ええ、ええ、ええ! 本気も本気も本気の、嘘偽らざる、心からの本意に相違ありません! ですから、ですから何卒、命だけはお助けくださいませ!」

 恥も外聞も無くそう言って命乞いの言葉を並べ立て続けるミス・フォトシンセシスの姿に、やはり彼女を便器の底の汚物にでも向けるような侮蔑と軽蔑の眼差しでもって睨み据えながら、駱駝色のトレンチコートに身を包む始末屋はすっかり鼻白んでしまっている様子であった。

「見下げ果てたぞ、ミス・フォトシンセシスよ。貴様の様な執行人エグゼキューターとしての矜持も持ち合わせぬ輩など、殺す価値も無い」

 溜息交じりにそう言った始末屋が左右一振りずつの手斧を持つ手を下ろして構えを解けば、彼女の足元で土下座するミス・フォトシンセシスはようやく顔を上げ、エナン帽に縫い留められていた大きな花飾りを取り外す。

「それはそれはそれは、どうもありがとうございます、始末屋さん! それではあなた様の輝かしい勝利と、あたしの忠誠の証として、是非ともこの大輪の花をお受け取りくださいませ!」

 そう言ったミス・フォトシンセシスが差し出した、つい今しがたまで彼女が被るエナン帽に縫い留められていた大きな花飾りを始末屋が手に取った次の瞬間、その花飾りの花弁の奥から毒々しい色と香りの霧状のガスが彼女の顔面目掛けて噴き出した。そして迂闊にもそのガスを吸い込んでしまった始末屋は喉を押さえて悶え苦しみ、げほげほと激しく咳き込みながら、ノール高速道路の路面上をよろよろと数歩ばかり後退あとずさる。

「くっ! 何だこれは?」

 そう言って悶え苦しむ始末屋とは対照的に、土下座の状態から身を起こしたミス・フォトシンセシスは起死回生による勝利を確信せざるを得ない。

「おやおやおや、まんまと罠に引っ掛かってくださいましたね、始末屋さん? それは精製及び濃縮したマンチニールの樹の樹液をガス状に加工した、ほんの一吸いしただけでも死に至る事間違い無しの猛毒でしてよ?」

 勝利を確信したミス・フォトシンセシスはそう言いながら、不敵にほくそ笑んだ。

「さあさあさあ、猛毒による苦痛に悶え苦しみながら死になさい!」

 緑色の肌のミス・フォトシンセシスはそう言って来たるべき勝利の瞬間を夢想するものの、そんな彼女の夢想、もしくは予想に反して始末屋は死に至らず、むしろその足取りの確かさは徐々に回復し始める。

「何故何故何故? 何故あなたは死なないの? あたしがこしらえた猛毒を吸い込めば、ほんの数秒で、象でも鯨でも死に至る筈なのに!」

「残念ながら、あたしに毒物は通用しない。かつてあたしの師匠から、そうなるように鍛えられたからな」

「おのれおのれおのれ、おのれ、この化け物め!」

 猛毒である筈の毒ガスを吸い込んでしまっても死に至らない始末屋の姿に、ミス・フォトシンセシスはそう言って悪態を吐きながら口惜しがるものの、次の瞬間、そんな彼女の首目掛けて始末屋は素早く手を伸ばした。

「ぐえっ!」

 そして無防備なミス・フォトシンセシスの細く華奢な首を、革手袋を穿いた手でもって始末屋が締め上げれば、今度は『光合成女史』を標榜する彼女が悶え苦しむ番である。

「が……あ……」

 始末屋の常人離れした膂力でもって首を締め上げられたミス・フォトシンセシスは呼吸が出来ず、ごぼごぼと口からあぶくを噴いて白眼を剥き、ばたばたと手足を激しくばたつかせながら悶え苦しむばかりであった。そして最終的にはその手足もまた脱力してだらんと垂れ下がり、完全に意識を失って肺と心臓の動きが止まると、始末屋は彼女の喉笛を首の骨ごと握り潰してとどめを刺す。

「ふん、降参したと見せ掛けて不意討ちに打って出るとは、執行人エグゼキューターの風上にも置けない恥知らずの卑怯者め」

 そう言った始末屋は、握り潰された首から上が明後日の方向を向いたミス・フォトシンセシスの絞殺死体を、まるでゴミ袋でも投げ捨てるかのような格好でもってノール高速道路の路面上にぽいと投げ捨てた。そして駱駝色のトレンチコートの襟を正し、その懐に左右一振りずつの手斧を仕舞い直すと、彼女の次の目的地であるシャルル・ド・ゴール国際空港の方角へと足を向ける。

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