第六幕


 第六幕



 花の都の別名で知られる世界有数の大都市、パリ。由緒正しいフランス共和国の首都であると同時に文化と芸術の中心地の一つでもあり、多くのパリっ子達が思い思いに着飾りながらシャンゼリゼ通りを闊歩するこの街に、遂に始末屋は到着した。

「さて、と」

 前輪だけが異様に大きい『ペニー・ファージング』と呼ばれる自転車を駆ってシャブリ地方の葡萄畑を出発し、ここパリの中心地まで辿り着いた始末屋がそう言ってぐるりと周囲を見渡せば、石畳でもって舗装された街路を行き交う一般市民達は勢い彼女から眼を逸らす。如何に好奇心旺盛なパリっ子とは言え、引き裂いた毛布を胸と下腹部に巻き付けただけのあられもない格好の、身の丈が210cmにも達する褐色の肌の大女と関わり合いになりたい筈も無い。

「相変わらず、自国の上流階級と観光客向けの上っ面だけを取り繕った不快な街だな、ここは」

 パリと言う名の街そのものが与える印象をそう言って断じてみせた始末屋は、今は亡きサイコクラウンから拝借した自転車をさっさと乗り捨てると、靴すらも履かぬ素足のままの姿でもって石畳を踏み締めながら大通りを北上し始めた。北西の方角にエトワール凱旋門、南西の方角にエッフェル塔を臨むセーヌ川沿いの街路にはカフェやレストランと言ったお洒落な飲食店が軒を連ね、まさに花の都の名に相応ふさわしい繁栄ぶりを謳歌している。

「ふん」

 しかしながら華やかなパリの街の中心部を縦断し、やがて観光客が決して足を踏み入れない街の北端の郊外の一角にまで達すれば、街路沿いに建ち並ぶ建造物や道行く人々の雰囲気ががらりと一変した。民家や商店の壁と言う壁が『グラフィティ』と呼ばれる落書きでもって埋め尽くされ、生ゴミや汚物や吐瀉物などが放置された悪臭漂う裏路地をアフリカ系の黒人種やアラブ系の黄色人種と言った貧しい移民達がふらふらと彷徨さまよい歩き、重度の薬物依存症ジャンキーだと思われるラリった若者達の姿もまた散見される。

「この光景こそが、花の都と謳われるパリの街がひた隠しにする、もう一つの裏の顔と言う訳か」

 煙草の吸殻がそこかしこに転がるドブ臭い裏路地を素足で歩きながらそう言った始末屋の言葉通り、その繫栄ぶりを謳歌する大都市の中心部の再開発から取り残されたここパリのスラム街の荒廃ぶりは、まさに眼に余ると言う言葉が生温く感じられる程の醜悪窮まる有様であった。そしてそんな荒廃し切ったスラム街の、治安も衛生状態も最低最悪の地域の最深部へと侵入し続けた末に、不意に始末屋は一棟の古びたアパートメントの前で足を止める。

「お帰りなさい」

 すると一人のロマ人の痩せ衰えた老婆が、アパートメントの建屋の内部へと続く鉄扉の傍らに置かれた椅子に腰を下ろしたままそう言って、膝の上に乗せた太った三毛猫の背中を撫でながら始末屋を出迎えた。

「久し振りだな、ご老体」

「ああ、随分と久し振りだね。元気だったかい? あんたの部屋も、掃除しておいてやったからね」

 三毛猫の背中を撫でながらそう言った老婆を尻目に鉄扉を潜ると、始末屋は煉瓦造りのアパートメントの建屋の内部へと足を踏み入れるや否や階段を駆け上がり、今度は最上階の一番奥の部屋の扉の前で足を止める。

「ふん!」

 そして気合一閃、鼻息も荒い始末屋は、眼の前の樫の木の扉を素足でもって力任せに蹴り開けた。するとそこには照明が落とされたアパートメントの一室の玄関が、まるで木のうろの様にぽっかりと口を開け、真っ暗な室内からはカビ臭いえた匂いがぷんと漂って来て鼻を突く。

「この部屋も、随分と放置していたからな」

 そう言った始末屋は眼の前のアパートメントの一室、つまり彼女の活動拠点セーフハウスの一つにずかずかと足を踏み入れると、まずは窓と言う窓を開け放って室内の澱んだ空気を入れ替え始めた。そして部屋の換気が完了するまでの空き時間を利用しつつ、胸と下腹部に巻き付けただけの引き裂いた毛布を脱ぎ捨てて全裸になると、トイレの隣のバスルームでもって熱いシャワーを浴び始める。

「ふう」

 熱いシャワーの湯が始末屋の火照った身体を伝い落ち、ここに辿り着くまでに付着した泥や埃や汗や皮脂、それに何と言っても精神と肉体に蓄積した疲労と苦悩をさっぱりと洗い流してくれた。そしてシャワーを浴び終えた彼女は一糸纏わぬ全裸のまま、褐色の肌に覆われた身体を濡らす水滴をバスタオルでもって適当に拭き取りながら、今度は活動拠点セーフハウスのキッチンへと足を向ける。

「少しばかり冷凍焼けしてはいるが、腐ってはいないな」

 活動拠点セーフハウスのキッチンへと足を踏み入れた全裸の始末屋はそう言いながら、大型冷凍庫の中で冷凍されていた大量の食材を次々に取り出しつつ、コンロに掛けた大きな寸胴鍋でもって湯を沸かし始めた。そして湯が沸くと同時に冷凍されていたそれらの食材、つまりしっかりと燻蒸されたソーセージにブロッコリーにカリフラワー、それから細かく刻まれたジャガイモに人参を、固形のコンソメスープの素と一緒にぐつぐつと煮込み始める。

「いただきます」

 やがて寸胴鍋に放り込まれた食材の数々が充分に煮込まれた頃合いを見計らって、意外にも礼儀正しくそう言った全裸の始末屋は、底の深いスープ皿に取り分けられた彼女謹製のソーセージと野菜のスープをむしゃむしゃと食み始めた。そして気付けば十分と経たぬ内に、あれだけ大量にこしらえた筈のスープをものの見事に完食してしまったのだから、健啖家としての始末屋は今尚健在であると言わざるを得ない。

「げっぷ」

 結局寸胴鍋一杯分のソーセージと野菜のスープだけでは飽き足らず、最終的には大きな寸胴鍋にして都合三杯分ものスープを残さず平らげ終えた始末屋はそう言って、彼女の西ヨーロッパに於ける活動拠点セーフハウスの天井を見上げながら盛大なげっぷを漏らした。どうやら行儀や礼儀、それにマナーや作法と言った法律以外の決まり事にうるさい性質たちらしい始末屋にとってのげっぷを漏らすと言う行為は、何故だか分からないが決して無作法なそれには当たらないものと思われる。

「おっと、もう夜か。まあ、これで取り敢えず、当面必要な栄養は補給し終えたと言う訳だな」

 そう言った始末屋の言葉通り、いつの間にか西の地平線の彼方へと陽は落ち、開け放たれた窓から臨むパリ郊外のスラム街の景色はすっかり宵闇に包まれていた。そして一糸纏わぬ全裸のまま窓辺に立った彼女の艶めかしくも鍛え抜かれた肢体が、その開け放たれた窓から丸見えになってしまってはいるものの、そんな些細な事を今更気にするような始末屋ではない。

「さて、と」

 するとそう言って気を取り直した始末屋は、ソーセージと野菜のスープでもって膨らんだ腹を擦りながら、彼女の活動拠点セーフハウスの壁沿いに設置されたキャビネットの一番上の引き出しを開けた。するとそこには数台のスマートフォンが整然と並べられており、その内の一台を手に取ると、彼女は液晶画面をタップして通話を試みる。

「はい、もしもし? どなたかしら?」

 するとスマートフォンの受話口越しに、語尾の音程が上擦ってしまう、少しばかり訛った日本語でもってそう言った女性の声が耳に届いた。

「もしもし、あたしだ、始末屋だ」

「あら? 知らない番号からの着信だったから誰かと思ったら、始末屋なの? もうパリには着いたのかしら?」

 果たしてスマートフォンの受話口越しにそう言った通話相手は、遠くフォルモサの地に居る筈のグエン・チ・ホアに他ならない。

「ああ、ついさっきパリ郊外のスラム街に在るあたしの活動拠点セーフハウスの一つに到着し、取り敢えず熱いシャワーを浴びて汗と埃を洗い流し切ってから、飯を食って胃袋を満たし終えたところだ。それで、チ・ホア、頼んでおいた例の件は、ちゃんと調べておいてくれたんだろうな?」

「ええ、実はその頼まれていた件に関してですけれど、あなたに事後承諾をお願い出来ないものかしら? と言うのも、どうやらこちらが想像していた以上に、ヴィロ王子に関する情報のセキュリティが厳重だったものでしてね? ですからあたしが担う筈だった彼の周辺を嗅ぎ回る役目を、やっぱりエルメスに担ってもらう事にしたんですけれど、別に構わないでしょう? それとも、エルメスではご不満だったかしら?」

「いや、問題無い。それではチ・ホア、貴様は既にエルメスに、今回の一件に関する貴様が知る限りの詳細な情報を伝え終えていると言う訳だな?」

「ええ、そうね、そう言う事になるんじゃないかしら? ですから詳しい事は、直接あなたの口からエルメスに尋ねてくださらない?」

「ああ、分かった。感謝する」

 彼女にしては珍しく感謝の言葉と共にそう言った始末屋は、手にしたスマートフォンの液晶画面をタップし、一旦フォルモサに居る筈のグエン・チ・ホアとの通話を終えた。そして再びスマートフォンの受話口を耳に当てると、今度は先程とはまた別の通話先との通話を試みる。

「もしもし、エルメスか?」

「……もしもし? 誰?」

 スマートフォンの向こうから聞こえて来たのは、そう言ってこちらの素姓を訝しむ、やけに若い女性の声であった。

「あたしだ、始末屋だ」

 しかしながら始末屋がそう言って彼女の名を名乗れば、スマートフォンの向こうの若い女性はさっきまでの警戒心をかなぐり捨て、勢いテンションを上げながら馴れ馴れしい口調にならざるを得ない。

「なんだ、始末屋か! うん、そうそう、その声はキミの声だって、僕は最初から気付いてたもんね! まあ、こうしてキミの声を聞くのも随分と久し振りの事だけど、元気してた? ん?」

「ああ、あたしなら壮健だ。それにしてもエルメス、相変わらず、貴様もまた随分と機嫌が良さそうだな。どうせ貴様の事だから、今この瞬間も、懲りずにコカインか何かの薬物でもってラリっている真っ最中なんだろう?」

 始末屋がそう言って問い質せば、彼女がエルメスと呼ぶスマートフォンの向こうの若い女性は何が面白かったのか、げらげらと下品な声を上げながら心底愉快そうに爆笑し始める。

「ははは、さすが始末屋、察しがいいじゃないか! しかし残念ながら、半分は不正解だね! キミの予想に反して、僕はもう、コカインを吸うのは止めてやったのさ! あれは吸えば吸うほど脳味噌がぶっ飛びまくって最っ高に気持ちいいんだけれど、どうにも快感が頂点に達するとおしっこが止まらなくなっちゃって、だから最初は事前にオムツを履いてからラリってたんだけどね? このまま一生オムツを履いたまま生活しなきゃならないのかと思ったら急に怖くなっちゃったし、だからある日おしっこと一緒にうんこも漏らしちゃったのを契機に、きっぱりコカインからは足を洗ってやったよ! ざまあみろってんだ! ふん!」

 スマートフォンの向こうのエルメスはそう言って、ふんと鼻を鳴らし、やはりげらげらと下品な笑い声を上げながら一人で勝手に勝ち誇ってみせた。

「そうか、エルメスよ、貴様がコカインから足を洗ってやったと言うのならば、それはあたしにとっても歓迎すべき朗報だ。しかしながらその朗報も、敢えて『半分は不正解だ』と表現したからには、残り半分の正解であるべき部分についても詳しく説明してもらおうか」

 始末屋が再度そう言って問い質せば、エルメスは愉快そうに返答する。

「なあに、簡単な事さ! コカインからは足を洗ってやったけど、その代わりに、今は大麻とアルコールの同時摂取にまっててね? だからこうして、今日もまた自宅の地下室でもって栽培した乾燥大麻を吸いながら、安物のビールをラッパ飲みしてラリってるって訳なんだな、これが!」

 大麻とアルコールによって脳が麻痺した状態のままそう言ったエルメスの言葉に、始末屋はかぶりを振りながら、深い深い溜息交じりに呆れ返らざるを得ない。何故なら彼女の希望的観測も空しく、どうやらエルメスは、依存性の違法薬物そのものから根本的な意味でもって足を洗うつもりは皆無だからである。

「エルメスよ、貴様が薬物やアルコールに依存し続けるつもりなら、それはそれで別に構わん。だがしかし、学校にはちゃんと通っているんだろうな?」

「は? 学校?」

 今度はそう言って、エルメスが呆れ返る番であった。

「おいおい始末屋、キミはさっきから、一体何を言ってるんだい? この僕があんな退屈な、社会の負け犬どもが集まる狭くて薄汚い犬小屋なんかに、わざわざ足を運んでやる義理も道理も無いだろう? それに、僕はこう見えても、この歳にしてIQ250オーバーの知能指数を誇る若き天才ハッカーなんだからね? そんな偉大な天才であるこの僕が、負け犬どもが集う犬小屋に過ぎない学校なんかに通ったって、今更学ぶべき事なんてあるもんか! ふん!」

 エルメスは嘲笑と共にそう言って、再びふんと鼻を鳴らすが、そんなエルメスに始末屋は忠告する。

「若くして児童養護施設から脱走し、碌に就学していないあたしが言うのも何だが、エルメスよ、通える内はちゃんと学校には通っておくが良い。貴様が犬小屋と評したあそこで学べるのは、何も馬鹿だの天才だのと言った個人の知的水準のみによって定義されるような、単純な事柄ばかりではないからな。人間関係や社会性、そして何よりも、この世界が抱える理不尽や矛盾と言った、むしろ知性とは相容れない人間社会の負の側面を垣間見る事が出来る。そう言った貴重な体験こそが、貴様の様な前途ある若者に必要とされるものだ。違うか?」

 始末屋がそう言って忠告すれば、スマートフォンの向こうのエルメスは渋々ながらも納得せざるを得ない。

「はいはい、分かったよ、分かったってば! まったく、キミは昔っから変なところで真面目なんだから、参っちゃうよね! それで始末屋、改めて聞くけど、今日はまた一体何の用でもってこの僕に電話を掛けて来たんだい? まさか、学校に行けって説教をするためだけじゃないんだろう?」

「なんだエルメス、貴様はチ・ホアから、今回の一件の詳細な情報を既に伝えられている筈ではなかったのか?」

「ん? チ・ホア? ……ああ、そうかそうか、思い出したよ! 確かキミが依頼人を殺してしまった『禁忌破り』の濡れ衣を着せられて、あの何とかって名前の王子様の身の回りについて調べてくれって言う、例の件だね? うん、別に、今の今まで完全に忘れてしまってたって訳じゃないから、安心してよ!」

 どうやらグエン・チ・ホアからの依頼の存在そのものを、今の今まで完全に失念してしまっていたらしいエルメスは、そう言って笑って誤魔化しながら釈明した。そして釈明ついでに、彼女は始末屋に改めて確認する。

「それで始末屋、今回の依頼の報酬は幾らだい? まさか、この僕にタダ働きしろとは言わないよね?」

「ああ、その点なら問題無い。安心しろ。あたしの依頼を完遂してくれた暁には報酬として米ドルで総額10万ドル、まずは前金として5万ドル支払い、充分に有益な情報が得られたと判断すれば、その時は追加でもう5万ドル支払おう。それでどうだ? 悪い話じゃないだろう?」

「よっしゃ、乗った! その条件でもって、キミの依頼とやらを引き受けてやろうじゃないか! それじゃあ始末屋、さっそくで悪いけど、僕の口座に前金の5万ドルとやらを振り込んでくれるかい? 僕の口座番号は、キミも知ってるだろ?」

「ああ、勿論だ。造作も無い」

 そう言った全裸の始末屋は手にしたスマートフォンの液晶画面を数回タップし、彼女のオンラインでの銀行口座からエルメスの銀行口座へと、米ドル換算でちょうど5万ドル分の前金をネット経由でもって振り込んだ。

「よし、振り込んだぞ。確認しろ」

 振り込み操作を終えた始末屋がそう言った数分後、スマートフォンの向こうのエルメスが確認を終える。

「ビンゴ! たった今、入金を確認した! それじゃあさっそく、そのヴィロ・マルプレネーコとか言うマルプレネーコ大公国の王子様の身の回りを調べてあげるから、ちょっと待ってな!」

 するとスマートフォンの受話口越しに、そう言ったエルメスがパソコンのキーボードを連打する際に生じるかたかたと言う小気味良い打鍵音が間断無く聞こえて来る事から察するに、どうやら彼女はお得意のハッキング技術でもってヴィロ王子の身辺を嗅ぎ回り始めたらしい。

「それにしても、始末屋?」

「ん? 何だ?」

 ハッキングを継続しながら、大麻の薬理作用とアルコールの酩酊作用でもってすっかり上機嫌になったエルメスは、スマートフォン越しに始末屋に問い掛ける。

「仮にも『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューター随一の女丈夫として知られるキミが、この僕みたいな顔も知らない小娘なんかを頼るだなんて、随分と久し振りの事なんじゃないかい?」

「ああ、そうだな。貴様とはそこそこ永い付き合いだが、言われてみればこうして貴様に正式な依頼を持ち掛けるのは、ちょうど二年前に合衆国の国防総省ペンタゴンに喧嘩を売りに行った時以来の事になるかな。あの時はチ・ホアも含めた三人揃って、随分と無茶をしたものだ」

「そうそう、懐かしいな! あの頃は僕も未だ未だ駆け出しの新米ハッカーで、まん毛も腋毛も生え揃ってないような、ケツの青い処女丸出しの女子中学生に過ぎなかったからね! そんな僕を信用して命懸けの依頼を持ち掛けるだなんて、始末屋、やっぱりキミはどうかしてるよ!」

「そうか? あたしは別に、外見や性別や年齢などと言った限られた上っ面の情報だけを頼りに、他人の本質を判断する気は無いからな。貴様は小学生の頃から天才的なハッカーで、その知識と技術に価値を見出みいだしたあたしは貴様に依頼を持ち掛けた、只それだけの事だ」

 一糸纏わぬ全裸の始末屋が、彼女の活動拠点セーフハウスの開け放たれた窓からパリ郊外のスラム街の寂しげな夜景を眺め渡しながらそう言えば、スマートフォンの向こうのエルメスは一瞬だけはっと息を呑んだ。そして暫しの静寂の後に、彼女はそっと小さな声でもって呟く。

「……ねえ、始末屋? 僕はキミの、そう言った愚直で実直で馬鹿正直なところが、嫌いじゃないよ?」

 しかしながらエルメスのその呟きは、彼女がキーボードを連打する際に生じるかたかたと言う小気味良い打鍵音によって、儚く掻き消されてしまうのであった。

「ん? おいエルメス、貴様、今何か言ったか?」

「ううん、何でもないさ、気にしないでくれよ! そんな事より、ほら、そろそろヴィロ王子に関するセンシティブな個人情報が蓄積された、マルプレネーコ大公国の中央政府が管理するデータバンクに侵入出来そうだからね!」

 そう言ったエルメスは、スマートフォンの向こうでキーボードを連打し続ける。

「ふうん、成程ね。ヴィロ・マルプレネーコは中央ヨーロッパの小国であるマルプレネーコ大公国の大公家の次男として生まれ、実の叔父と兄に次ぐ王位継承権第三位の第二王子の地位を確立すると同時に、若くして同国の内務大臣と外務大臣を兼任、及び歴任しつつ現在に至る、と。過去の経歴に、特にこれと言って不審な点は無いね。特筆すべき前科も無く、犯歴は真っ白だ」

「ああ、しかしその程度の情報ならば、貴様に頼むまでもなく、チ・ホアでも調べおおせたであろう」

「まあまあ、そんなに慌てずに、ちょっとばかり落ち着いてくれってば! 始末屋、キミだって、いわゆる『慌てる乞食は貰いが少ない』ってことわざくらい聞いた事があるだろう? それに若き天才ハッカーであるこの僕が調べるべき情報は、こんなウィキペディアにも載っているような無価値な駄文なんかじゃなくて、ここから先の真の個人情報だからね!」

「成程。確かに、貴様の言う通りだ。話の腰を折って悪かったな。続けてくれ」

「分かってくれたかい? それじゃあ話を続けるけど、ある種の清廉潔白とでも表現すべきヴィロ王子の経歴の唯一の汚点は、彼が未だ独身だと言う点だ。マルプレネーコ大公国の大公家の人間はほぼ例外無く早婚で、多くの跡継ぎを生む、もしくは生ませる事が慣例だと言うのに、このヴィロ王子と言う人物だけは独身を貫いたまま結構な年齢になるまで歳を重ねてしまっている。しかも大金持ちの貴族様なのをいい事に、これまでだって数多くのセレブや著名人の女性との浮名を流す事に余念が無かったと言うんだから、周囲が心配するのも尚更だ」

「つまり、生前のヴィロ王子は生粋のプレイボーイだったと言う訳だな。それなら、このあたしと矢鱈とセックスしたがったと言う事実にも、合点が行く」

 始末屋が事も無げにそう言えば、彼女の発言の内の『セックス』と言う単語に、エルメスは興味を抱かざるを得ない。

「は? セックス? 始末屋、キミってば、ヴィロ王子とセックスしたの?」

 頓狂な声を上げながらそう言ったエルメスは、如何にも歳頃の若い女性らしく、男女の肉体関係の有無に興味津々の様子であった。

「いや、ヴィロ王子から余燼よじん無き性交渉を持ち掛けられ、同意はしたが、最終的には未遂に終わっている。ホテルの彼の部屋で二人きりになり、先にシャワーを浴び終えたあたしが寝室へと足を踏み入れてみれば、ヴィロ王子は既に息絶えていた。しかも彼の頭部にはあたしの得物である手斧が突き刺さっていた以上、何者かがこのあたしを『大隊ザ・バタリオン』の最大級の禁忌タブーの一つである、依頼人殺しの『禁忌破り』に仕立て上げようとしていたとしか考えられない」

「ふうん、成程ね。ところで始末屋、ヴィロ王子が過去にセックスの相手として選んだのは、キミ一人だけなのかい?」

「いや、彼は「実は私は、この世界に存在するありとあらゆる人種や民族の女性との性交渉を、隠れた趣味としていてね」と言っていた。だからきっと、ヴィロ王子はこれまでの人生に於いて数え切れないほど多くの女性達に性交渉を持ち掛け、まぐわったに違いない」

 そう言ってヴィロ王子の最期の瞬間を回顧する始末屋の言葉に、スマートフォンの向こうのエルメスは作戦を変更する。

「ふうん、だったら、その線からヴィロ王子の身辺を洗い直してみようか! どうせそう言った、自分が無条件にモテると勘違いしている上に女を取っ替え引っ替えするような金持ちの好色家なんて輩は、過去に自分が抱いた女達の名前や容姿なんかを記録しているに決まってるからね!」

 エルメスはそう言って気を取り直すと、再びパソコンのキーボードを激しく連打し始めた。しかしながらハッキングの照準を定め直したにもかかわらず、彼女の予想に反し、期待したような成果は得られない。

「どうやらマルプレネーコ大公国の中央政府が管理するデータバンクの内部には、ざっと一通り検索してみたところ、僕らが探し求めているようなデータは見当たらないみたいだね……だとしたら、ここから先は大公家が住居として利用している首都の宮廷内の、ヴィロ王子が個人的に所有するパソコンなりサーバなりに直接アクセスするしか方法は無いのかな……」

「そうか、成程。それで、エルメスよ、そのパソコンなりサーバなりへのアクセスとやらは可能なのか?」

「おいおい、僕を誰だと思ってるんだい? たとえ合衆国のホワイトハウスだろうが連邦のクレムリンだろうが共和国の錦繍山クムスサンだろうが、この天才ハッカーであるエルメス様にハッキング出来ない電子機器なんて、この世に一つたりとも存在しないんだぜ?」

 自信満々にそう言って退けたエルメスは、今度はマルプレネーコ大公国の宮廷へのハッキングを試みた。

「ああ、これは確かに、中央政府が管理するデータバンクに比べたらセキュリティが厳重だ。チ・ホアが難儀したのも、うなずける。だけどこの僕のハッキング技術に掛かれば、この程度のファイアウォールなんて、巨人ゴリアテを前にした少年ダビデにも等しい無力な存在だね!」

 旧約聖書の記述にれば、ダビデとゴリアテの戦いは少年ダビデの勝利でもって幕を閉じた筈なのだが、どうやらエルメスは巨人ゴリアテが勝利したものと勘違いしてしまっているらしい。そして彼女は勘違いしたままキーボードを連打し、自作の改造コードを駆使しながら宮廷内のモデム、更にはWi-Fiを経由してヴィロ王子の私室にまで侵入すると、やがて彼個人が所有するノートパソコンの内部ストレージの奥底から目当てのデータを発見するのだった。

「ビンゴ! 遂に発見したよ!」

「ん? 何を発見したって?」

「何って、ヴィロ王子が個人的にこっそり保存した、秘密の隠しファイルに決まってるだろ? やっぱり僕が予想した通り、彼は過去に抱いた女達の名前を丁寧にリストアップした上でエクセルファイルでもって管理しつつ、詳細な記録を残していたって訳さ! しかも名前や容姿の文章テキストによる記述に飽き足らず、実際にベッドの上でセックスしている真っ最中を隠し撮りしたらしい、無修正の動画まで添付されている手の込みようだからね! まるで犠牲者の身体の一部を持ち帰って自分の功績を再確認するような、つまり『テッド・バンディ』や『ジェフリー・ダーマー』と言った映画の主人公達の元ネタの、実在した殺人鬼シリアルキラーそっくりだよ!」

 そう言って愉快そうにげらげらと爆笑するエルメスに、スマートフォンのこちら側の始末屋は呆れ返りながら問い掛ける。

「そうか、あのプレイボーイ気取りの王子様も、とんだ喰わせ者だったと言う訳だな。よりにもよって女性との性交渉の現場を隠し撮りするとは、伝統ある欧州の貴族や紳士としてはもとより、一人の大人の男としての風上にも置けん奴だ。それでエルメス、そのヴィロ王子の秘密の隠しファイルとやらの中に、このあたしを隠し撮りした動画は保存されているのか?」

「いや、リストアップされたエクセルファイルを更新時間順にざっとソートしてみたけれど、キミとのセックスを隠し撮りした動画は存在しないね! それと、動画を幾つか拝見させてもらった限りでは、どうやら隠し撮りはスマートフォンに内蔵されたカメラでもって行われていたらしいよ? きっと寝室のベッドサイドランプのランプシェードの陰なんかに、録画状態にしたスマートフォンを、こっそりバレないように設置していたんだろうさ!」

「成程。と、言う事は、ヴィロ王子があたしを抱こうとしたあのホテルの寝室にも、性交渉を隠し撮りするためのスマートフォンがこっそり設置されていた可能性が高いと言う訳だな?」

「可能性が高いと言うべきか何と言うべきか、まあ、まず間違い無く設置されていたに違いないだろうね! それでもってヴィロ王子が何者かの手によって殺害されてさえいなければ、今頃はこの秘密の隠しファイルに、キミの名前と動画もリストアップされていた筈さ!」

「つまり、あたしは九死に一生を得たと言うか、とにかく隠し撮りと言う名のある種の難を逃れ得たと言う訳か」

「ビンゴ! その通り! 女丈夫として知られるキミが、よりにもよってあんなヴィロ王子みたいなヤサ男に抱かれる瞬間を見られなかったのは返す返すも残念だけれど、そう言う事さ!」

 大麻の薬理作用とアルコールの酩酊作用でもってすっかり上機嫌になってしまっているエルメスはそう言って、さも愉快げにげらげらと笑いながら、始末屋の言葉に大筋で同意した。すると同意を得た始末屋は、はっと一瞬息を呑み、今度はまた別の可能性について思い当たる。

「ん? おい、待てよ? だとすると、あのホテルの寝室の様子がスマートフォンに内蔵されたカメラによって隠し撮りされていたとするならば、そのスマートフォンにはヴィロ王子が真犯人の手によって殺害される、まさにその瞬間が録画されているのではあるまいか?」

「そう、それ! 何を隠そう、僕も今、その可能性について言及しようとしていたところなんだよね!」

 嘘かまことか定かではないが、とにかくそう言って、エルメスもまた始末屋の言葉に重ねて同意した。そしてスマートフォンの向こうの彼女は、今後の方針を、改めて再検討し始める。

「さて、と。そのホテルの寝室が隠し撮りされていた事はまず間違い無いと仮定して、その隠し撮りに利用されたヴィロ王子のスマートフォンは、今どこに在ると思う? 今も未だ、無人の寝室の無人のベッドを延々と撮影し続けているのかな? それとも、既に誰かに発見されて、その誰かの手によって持ち去られたって事もあり得るね? 例えば現場検証を行った警察とか、それとも、真犯人とか?」

「エルメスよ、それを調べるのが、貴様の仕事だ」

 全裸の始末屋がそう言えば、スマートフォンの向こうのエルメスもまた彼女に同意せざるを得ない。

「ああ、そうだ! 確かに始末屋、キミの言う通りだ! それじゃあ取るものも取り敢えず、そのホテルの監視カメラの録画データが保存されている筈のサーバをハッキングして事件の前後の出来事を確認し、僕らの仮説の真偽の程を確かめてみようじゃないか! だから、まずはそのホテルの正確な場所と名称、それにヴィロ王子の客室がホテルの何階に在ったかを教えてくれよ!」

「モナコ公国のモンテカルロ地区に建つホテルハイエロファント・モナコの、最上階から見て一つだけ下の階層に在る、プレジデンシャルスイートルームだ」

「了解! それじゃあ、さっそくハッキング開始だ!」

 そう言ったエルメスは心機一転、再びかたかたと言う小気味良い打鍵音をスマートフォン越しに鳴り響かせながら、パソコンのキーボードを激しく連打し始めた。そして暫し無言のまま、彼女ご自慢のハッキング技術を駆使し尽くしたかと思えば、やはりホテルハイエロファント・モナコのセキュリティルームのサーバの奥底から目当てのデータを発見してみせる。

「ビンゴ! やったね!」

「どうした? 監視カメラの録画データが、見つかったのか?」

「ああ、その通り! 僕の手に掛かれば、この程度のデータをホテルのサーバから吸い出す事くらい、朝飯前の日常茶飯事だからね! まあ、出来ればプレジデンシャルスイートルームの内部の様子を映したデータが存在すれば完璧だったんだけど、さすがにプライバシーの観点から室内に監視カメラを設置する訳には行かなかったらしいんで、廊下に設置された監視カメラのデータしか入手出来なかった点が悔やまれるけどさ!」

 先程のダビデとゴリアテの一件同様、やはり『日常茶飯事』と言う慣用句の使い方を間違えてはいるものの、とにもかくにもスマートフォンの向こうのエルメスはそう言って勝ち誇った。

「それで、貴様がホテルのサーバから吸い出した監視カメラの録画データには、何が映っている?」

「そうだね、ざっとデータを確認してみた限りでは、映っているのは如何にも豪華そうな造りのホテルの廊下と、そのヴィロ王子が寝泊まりしていたプレジデンシャルスイートの室内へと繋がる頑丈そうな扉ぐらいのものかな? それで、時間を今日の午前中まで早戻ししてみれば……ビンゴ! 始末屋、キミに警護されたヴィロ王子が部屋から出入りする様子が、ばっちり映ってるよ!」

 そう言ったエルメスに、全裸の始末屋は重ねて問い掛ける。

「ならば、彼が性交渉の隠し撮りに利用したとおぼしきスマートフォンは、映っているのか?」

「ああ、うん、ちょっと待っててくれるかな……今すぐ確認するからね……ビンゴ! 廊下の先のエレベーターホールでもってエレベーターの到着を待つ間に、時間でも確認するつもりだったのか、ヴィロ王子がスーツの内ポケットから彼のスマートフォンを取り出した瞬間が映ってるよ! 如何にも大金持ちの貴族の王子様の所持品然とした、これ見よがしに悪趣味なルイ・ヴィトンの高級スマホケースに包まれた最新型のiPhoneが、はっきりくっきりとね!」

「そうか、それでエルメス、その悪趣味なスマートフォンは今どこにある?」

「そうだね、それじゃあ今度は、時間を早送りしてスマートフォンの行方を追ってみようか!」

 エルメスはそう言って、彼女の依頼主である始末屋の要請に従い、ヴィロ王子のスマートフォンの行方を突き止めるべくホテルの廊下に設置された監視カメラの録画データを早送りし始めた。そして録画データを数時間分も早送りし終えたところで、不意に彼女は手を止める。

「お? ねえ、始末屋? 今日の昼過ぎにプレジデンシャルスイートルームの扉の前に立つキミとヴィロ王子と、それにもう一人、ぴちぴちの黒い革のライダースーツに身を包んだ背の高い女が映ってるんだけど、この女は一体どこの誰なんだい?」

「ああ、それは音に聞こえた『鉄の淑女』こと、アイーダ・サッチャーと言う名の女だろう。あたしと同じ『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターの一人であり、あたしと共にヴィロ王子に依頼され、彼の身辺警護の任に就いていた」

「ふうん、成程ね! それで、このアイーダ・サッチャーとか言う名のライダースーツの女と別れた後に、キミとヴィロ王子が二人揃ってプレジデンシャルスイートルームの扉の向こうへと姿を消して、セックスに挑んだって訳だね?」

「ああ、その通りだ。もっとも、最終的にはあたしとヴィロ王子はまぐわう事も無いままに、彼は何者かの手によって行為の直前に殺害されてしまったが故に、性交渉は未遂に終わるのだがな」

「ふうん、それじゃあ、未だ他にも何か重要な事実が映り込んでいるかもしれないし、もうちょっとだけ時間を早送りしてみようか!」

 そう言ったエルメスは、禁忌タブーを犯した大罪人を意味する『禁忌破り』の濡れ衣を着せられた始末屋の身の潔白を証明せんと、再び監視カメラの録画データを早送りし始めた。しかしながら程無くして、またしても彼女は、不意に手を止めざるを得ない。

「あれ? 何だこれ?」

「ん? 何だとは、何だ?」

 スマートフォン越しに始末屋がそう言って問い掛ければ、監視カメラの録画データを確認していたエルメスは、彼女が眼にしたものについて解説する。

「さっきの黒い革のライダースーツの女、えっと、アイーダ・サッチャーだっけ? そのアイーダ・サッチャーが、ほんの十分後か二十分後には再びカメラの前に姿を現したかと思えば、そのままプレジデンシャルスイートルームの扉の向こうへと姿を消したけど、これってどう言う事?」

「ああ、そうだな。あたしがバスルームでシャワーを浴び終え、取って返した寝室でもって殺害されたヴィロ王子の遺体を発見した直後に、アイーダ・サッチャーの奴が何故かまたプレジデンシャルスイートルームに姿を現したんだ。今になって思えば、何故奴がタイミング良く姿を現したのか、不思議でならない」

「成程、それは確かに、不審と言わざるを得ないんじゃないかな? ……あれ? どうやらアイーダ・サッチャーは、プレジデンシャルスイートルームに足を踏み入れた数分後にはもう、駆け付けたホテルの従業員達や警備員達と入れ替わりになるような格好でもって再び廊下に姿を現したけど……あ!」

「ん? どうした?」

「廊下に姿を現したアイーダ・サッチャーが、ヴィロ王子のスマートフォンを手にしたまま立ち去ったじゃないか!」

 エルメスはスマートフォン越しに頓狂な声を上げながらそう言って、冷静沈着を旨とする始末屋とは対照的に、どうにも驚きを隠せない様子であった。

「何だと? おいエルメス、それは本当に、間違い無く、ヴィロ王子のスマートフォンなんだろうな?」

「間違い無いね! あんな悪趣味なルイ・ヴィトンのスマホケース、こんな短期間にこんな狭い観測範囲内で使っている人間が、二人も三人も居て堪るもんか!」

 そう言ったエルメスの言葉を信じるならば、どうやらヴィロ王子が性交渉の隠し撮りに利用すべく寝室に設置しておいたスマートフォンは、既にアイーダ・サッチャーが回収してしまっていると言う事らしい。

「だとすると、ヴィロ王子を殺害した真犯人もまたアイーダ・サッチャーであり、その物的証拠となり得る隠し撮りの録画データを、スマートフォンごと犯行現場から持ち去ったと考えるべきなのか?」

「ああ、そうだね、その可能性は高いんじゃないかな? さすがに彼女の犯行動機が何なのかまでは分からないけれど、アイーダ・サッチャーが彼女の依頼人であるヴィロ王子を殺害し、その濡れ衣をキミに着せたって事は充分に有り得る話だね!」

「つまり、依頼人殺しの禁忌タブーを犯した『禁忌破り』はアイーダ・サッチャーであり、その罪をこのあたしになすり付けるべく、一計を案じて一芝居打ったと言う訳か……姑息な奴め……」

 彼女の活動拠点セーフハウスの窓辺に立つ全裸の始末屋はそう言って、やはり冷静沈着を旨とする彼女にしては珍しく、眉間に深い縦皺を寄せてぎりぎりと奥歯を噛み締めながら怒りを露にした。

「それで、始末屋? キミはこれから、一体どうするつもりなんだい?」

「決まっている。アイーダ・サッチャーの手から奪われたスマートフォンを奪い返し、彼女がヴィロ王子を殺害する瞬間を捉えた録画データを『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターに提示する事によって、あたしに着せられた濡れ衣を晴らさねばならない。勿論その際に、アイーダ・サッチャーには相応の代償を払わせてやる」

 全裸の始末屋がそう言って決意を新たにすれば、エルメスもまたスマートフォン越しに彼女に同意し、称賛する。

「そうだ、それでこそ僕が知ってる始末屋だ! そこにシビれる! あこがれるゥ! キミが真犯人であるアイーダ・サッチャーに復讐するつもりなら、勿論この僕も、喜んで協力するよ! それとこれは僕からの追加情報なんだけど、GPSの電波を解析したところによればヴィロ王子のスマートフォンはモナコ公国のホテルハイエロファント・モナコから移動してないし、もし仮に録画データが消去されてしまっていたとしても、僕ならデータを復元する事が可能だからね!」

「ああ、そうしてくれると、あたしとしても助かる。それではエルメスよ、そこまで調べ上げてくれた報酬として、残りの5万ドルを支払おう」

 そう言った全裸の始末屋は手にしたスマートフォンの液晶画面を再び数回タップし、彼女のオンラインでの銀行口座からエルメスの銀行口座へと、米ドル換算でちょうど5万ドル分の追加報酬をネット経由でもって振り込んだ。

「よし、振り込んだぞ。確認しろ」

「ビンゴ! 毎度あり! それで始末屋、今すぐにでもモナコ公国に舞い戻って、ホテルハイエロファント・モナコに居る筈のアイーダ・サッチャーの所に殴り込みを仕掛けに行くつもりかい?」

「いや、今日はもう陽も暮れた事だし、あたしもすっかり疲れ果ててしまった。取り敢えず今夜はこのまま活動拠点セーフハウスで一泊しつつ、しっかり体力を回復させてから装備を整え、情報を整理した上で改めて出発するつもりだ。ここからモナコ公国までの道中に於いても、迂闊にも『禁忌破り』の濡れ衣を着せられてしまったあたしの首級しるしを挙げんとする『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューター達が手薬練てぐすねを引いて待ち構えているからには、万難を排してこれに臨まない訳には行かない」

「つまり、キミはアイーダ・サッチャーの言い分を信じた執行人エグゼキューター達からの襲撃に備え、ことわざで言うところの『急いては事を仕損じる』なんて事が無いように万全を期そうって魂胆だね?」

「ああ、その通りだ」

 始末屋がそう言ってエルメスの疑問に同意した次の瞬間、そのエルメスの背後から発せられた、安煙草の吸い過ぎか何かでもってしゃがれた中年女性の怒鳴り声が耳に届く。

「マルジョレーヌ! あたしのこの声が聞こえてるんだったら、今すぐ一階まで下りといで! あんたって子は、懲りずにまた学校をサボってそこらをほっつき歩いて、先生方に迷惑を掛けたそうじゃないか! 今日と言う今日は、もう許さないよ! その小さな薄っぺらい尻を、あんたが大好きな馬鞭ばべんでもって今すぐ引っ叩いてやるから、覚悟おし!」

「ああ、もう! ママンってば、ちゃんと聞こえてるんだから、そんなに大声でがみがみがみがみ怒鳴らないでよね! それに、今、仕事仲間と電話で大事な話をしている最中なんだからさ!」

「何が仕事仲間だってのさ! あんたみたいな小便臭い小娘が生意気な事ばかり言ってないで、いいから、早く下りといで! ぐずぐずしてると、一秒遅れる毎に一回ずつ、尻を引っ叩く回数を上乗せしてやるからね!」

 しゃがれ声の中年女性が苛立たしげにそう言って怒鳴り返せば、そんな中年女性からマルジョレーヌと言うフランス語圏の女性名で呼ばれたエルメスは、深い深い溜息を吐かざるを得ない。

「ごめん、始末屋。ママンが呼んでるから、僕はもう、電話を切らなきゃいけないよ」

「ああ、そのようだな。貴様の母親にも、よろしく伝えておいてくれ」

「今日はキミとこうして言葉を交わす事が出来て、本当に楽しかったよ。じゃあね、始末屋。身体に気を付けて」

「そう言う貴様の方こそ、達者でな。ちゃんと学校に通うんだぞ」

 最後にそう言って忠告した全裸の始末屋は、彼女のスマートフォンの液晶画面をタップし、姿の見えない協力者であるエルメスとの通話を終えた。

「さて、と」

 そしてパリ郊外のスラム街に在る活動拠点セーフハウスの壁際に設置された、うっすらと埃が積もったベッドのマットレスの上でごろりと横になると、ものの数分と経たぬ内にぐうぐうと高鼾たかいびきを掻き始める。

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