第五幕


 第五幕



 やがて新たな長距離バスに揺られる事およそ一時間後、引き裂いた膝掛け毛布の切れ端でもって胸と下腹部を隠しただけのあられもない姿の始末屋は、ニースの街の郊外に位置するコート・ダジュール国際空港へと辿り着いた。

「ふむ」

 数多の乗客達と共に空港前のバス停でもって長距離バスから降りた始末屋が、そう言いながら滑走路の手前のターミナルビルに足を踏み入れつつも周囲を見渡せば、階上の免税店へと続く一基のエスカレーターが眼に留まる。

「良し、あそこでいいだろう」

 そう言った始末屋の視線の先の何の変哲も無い一基のエスカレーターの上に眼を向けると、今まさに、二人の男達が前後一列になって階上へと移動している最中であった。そしてどうやら面識の無い赤の他人同士だと思われる二人の男達の内の、前方に立つ身形みなりの良い中年男性の旅行鞄から覗く財布を、後方に立つもう一人の男が隙あらば盗み取らんとしているのが見て取れる。

「……」

 すると後方に立つ男が、無言のまま一瞬の隙を突き、身形みなりの良い中年男性の財布を彼の旅行鞄からさっと素早く抜き取った。そして何食わぬ顔を維持しながらエスカレーターから降りたかと思えば、そのまま人通りの多い出発ロビーの方角へと足早に立ち去ろうとするその物盗りの男の前に、不意に長身の人影が行く手を遮るような格好でもって立ちはだかる。

「おい、貴様、今盗んだ物を、大人しくこちらに渡せ」

 右手を差し出しながらそう言って立ちはだかった長身の人影こそ、今更説明するまでもなく、身の丈が210cmにも達する褐色の肌の大女こと始末屋であった。そしてそんな始末屋に窃盗の現場を見咎められ、財布を返却するよう詰め寄られた物盗りの男は激しく動揺し、じりじりとこちらを向いたまま後退あとずさらざるを得ない。

「どうした? 今すぐその財布をこちらに渡せば、最悪でも、命の保証だけはしてやらん事も無いぞ?」

 始末屋がそう言って更に詰め寄れば、物盗りの男は「ちっ!」と忌々しげな舌打ちを漏らすと同時にくるりと踵を返し、その場から逃走しようと試みた。

「無駄だ」

 しかしながらそう言った褐色の肌の始末屋が、如何に必殺の得物である手斧と駱駝色のトレンチコートを失った不完全な状態であったとしても、むざむざ窃盗犯を取り逃がす筈も無い。何故なら素早く左手を伸ばした彼女はシャツの後ろ襟を掴んで物盗りの男を引き倒し、そのまま中国武術では拳輪とも呼ばれる右の拳の小指側の側面でもって、彼の顔面をしたたかに殴打したからである。

「げぷっ!」

 無防備な顔面をしたたかに殴打された物盗りの男は呻吟しんぎん混じりにそう言って、喉から頓狂な声を漏らしながら真っ赤な鼻血を噴出し、その場に白眼を剥いて昏倒したままぴくりとも動かない。そして昏倒したままの彼の手から財布を奪い取った始末屋は、その財布を開いて数枚の紙幣を抜き取ると、ようやく財布をスられた事に気付いたらしい身形みなりの良い中年男性に残りの財布とその中身を投げ渡す。

「ほら、もう盗まれるんじゃないぞ。それと、これは謝礼として頂いて行く。よもや、文句はあるまいな?」

 始末屋は財布から抜き取った数枚の紙幣を掲げながらそう言って、昏倒した物盗りの男と本来の財布の所有者である身形みなりの良い中年男性、それに騒ぎを聞き付けて集まった野次馬達をその場に残したままさっさと立ち去った。勿論言うまでもない事ではあるものの、身形みなりの良い中年男性も馬鹿ではないし命が惜しくもないので、紙幣を抜き取った彼女の行為に対して殊更に文句を並べ立てたりはしない。

「さて、と。とりあえず、これで当面の軍資金が手に入ったな」

 そう言った始末屋は数多の利用客でもって賑わうコート・ダジュール国際空港のターミナルビルのロビーを足早に縦断し、航空会社の自動券売機の前まで移動すると、その券売機でもってパリ行きの航空券を購入した。そして航空券を確保した彼女はそれを購入した際に手に入れた硬貨を握り締めながら、周囲を見渡し、今度は公衆電話が設置されている筈のフォーンブースを探す。

「ああ、あそこか」

 やがてロビーの最奥の人通りもまばらな一角に目当てのフォーンブースを発見した始末屋は、小声でもってそう言いながら再びロビーを縦断すると、無人のフォーンブースの一つに颯爽と足を踏み入れた。二十世紀の終盤に世界的に携帯電話が普及し始めてからこっち、駅や空港と言った公共施設で公衆電話を見掛ける機会がめっきり減ってしまったがために、いざ携帯電話を失ってしまった際の連絡手段の喪失は喫緊の課題と言わざるを得ない。そして足を踏み入れたフォーンブースの中に於いて、そこに設置されていた旧式の公衆電話の受話器を手に取った始末屋は投入口から数枚の硬貨を投入し、電話を掛け始める。

「はい、こちら、電話番号案内サービスでございます」

 そう言って受話器の向こうから聞こえて来た女性オペレーターの言葉通り、始末屋が掛けた電話の相手は、電話番号案内サービスであった。

「国際電話だ。フォルモサの街の骨董街に在る『Hoa's Library』と言う店名の、骨董品店の電話番号が知りたい」

かしこまりました。それではお調べしますので、このまま電話を切らずに、少々お待ちください」

 公衆電話の受話器越しにそう言った女性オペレーターの指示に従えば、やがて彼女の指示通り『Hoa's Library』の電話番号を伝えられたので、その番号を暗記した始末屋は一旦電話を切ってから暗記した番号へと掛け直す。

「もしもし、こちら『Hoa's Library』でしてよ?」

「チ・ホアだな? あたしだ、始末屋だ」

「あらあらあら、本当に始末屋なの? 随分と久し振りじゃない? 元気だった?」

 至って特徴的とも言える、語尾の音程が妙に上擦ってしまう少しばかり訛った日本語でもってそう言ったのは、遠くフォルモサの地の骨董街でアンティーク家具と古書の店を営むグエン・チ・ホアその人であった。

「ああ、あたしは元気だ……と言いたいところだが、残念ながら、今現在のあたしは少々面倒臭い事件に巻き込まれてしまって難儀している」

「面倒臭い事件ですって? それは一体、どんな事件なのかしら?」

 彼女が営む『Hoa's Library』の白檀の香りが仄かに漂う店内で、ベトナムの民族衣装であるアオザイに身を包んだグエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、コート・ダジュール国際空港に居る始末屋は返答する。

「実はヴィロ・マルプレネーコと言う名の、あたしが身辺警護の任を請け負っていた依頼人が、何者かの手によって殺された」

「ヴィロ・マルプレネーコ? 確かマルプレネーコ大公国の、王位継承権第三位の第二王子よね?」

「ああ、その通りだ。チ・ホアよ、貴様はマルプレネーコ大公国の関係者でもない筈なのに、そんなヴィロ王子の王位継承権の順位なんかを良く知っているな」

「ええ、当然でしょう? だってさっきからずっと、ラジオの緊急速報でもって、彼がモナコ公国のホテルで殺されたって言う臨時ニュースが流されっ放しなんですものね? だからついつい、嫌でもそのヴィロ王子とか言う王子様のプロフィールを、覚えちゃうじゃない?」

 そう言ったグエン・チ・ホアの言葉から推測するに、どうやらヴィロ王子が殺されたと言うニュースはモナコ公国やフランス共和国だけに留まらず、遠くフォルモサも含めた世界各国各地域が知るところとなってしまっているらしい。

「それで始末屋、そのヴィロ王子が殺されたと言うニュースとあなたとの間に、どう言った相関関係があるのかしら? もしかして、あなたが殺しちゃったの?」

「いや、あたしが殺した訳ではない。しかしながら、そう疑われてしまっている。濡れ衣だ」

「あらあらあら、それは大変ね?」

「ああ、大変だ」

 始末屋は公衆電話の受話器を手にしながらぶっきらぼうな口調でもってそう言うと、遠くフォルモサの地の骨董街に建つ『Hoa's Library』の店内で、ベトナム産の蓮花茶をたしなんでいるグエン・チ・ホアに依頼する。

「それで、チ・ホア、折り入って頼みがある」

「あら、何かしら?」

「あたしが着せられた濡れ衣を晴らすためにも、殺されたヴィロ王子の生前の動向や為人ひととなりを、可能な限り詳細に調べ上げてほしい。どんな些細な事でも構わないから、貴様のコネとネットワークを駆使して、あたしの無実を証明するための証拠を何としてでも探し出してくれ。頼む。勿論、それなりの報酬を支払う事もやぶさかではないから、安心しろ」

 やはり始末屋はぶっきらぼうな口調でもってそう言って、公衆電話の受話器の向こうのグエン・チ・ホアに内偵を依頼した。

「あらあらあら? 始末屋ったら、それなりの報酬を支払う事もやぶさかではないだなんて、別にお金なんて貰わなくても構わなくってよ? あたしとあなたはもう随分と永い付き合いなんですもの、今更お金の遣り取りでもって恩を売ったり買ったりするだなんて、それは無粋って言うものじゃないかしら?」

「いや、残念ながら、貴様のその意見には賛同しかねる。報酬の遣り取りを行わずに義理人情だけでもって無償で依頼を引き受けられてしまっては、むしろその方が、恩の売り買いを助長する筈だ。それは決して、あたしの本意ではない」

 始末屋がそう言って、彼女なりの矜持を開陳すれば、受話器の向こうのグエン・チ・ホアは熱く香り高い蓮花茶をたしなみながら小首を傾げる。

「あら、そう? まあ、確かにそう言った考え方にも、一理あるんじゃないかしら? それじゃあ、あなたを納得させるためにも、あたしもまた報酬を受け取る事にやぶさかではなくってよ?」

「そうか、助かる。それではチ・ホア、あたしはパリに在る活動拠点セーフハウスの一つへと移動してから態勢を整え直すので、その活動拠点セーフハウスから再度連絡するまでに、今言った事を調べ上げておいてくれ。頼んだぞ」

「ええ、頼まれましてよ? ご期待に応えられるように精一杯頑張ってあげますから、楽しみにしていてちょうだいね?」

 やはり語尾の音程を上擦らせつつもそう言ったグエン・チ・ホアの返答を最後に、遠くフォルモサの地に居る筈の彼女もコート・ダジュール国際空港に居る始末屋も、受話器を置いて通話を終えた。そして空港内をぶらぶらとそぞろ歩きながら暇を潰していると、やがて始末屋が搭乗すべきパリ行きの旅客機の搭乗開始時刻の到来を告げる館内アナウンスが耳に届いたので、彼女はターミナルビルの二階に位置する搭乗ゲートの方角へと足を向ける。

「どうぞお客様、快適な空の旅を、心行くまでお楽しみください」

 ややもすればかしこまったフランス語でもってそう言った客室乗務員キャビンアテンダントに案内されながら、パリ行きの旅客機に搭乗した始末屋は、ビジネスクラスの座席の一つにどっかと腰を下ろした。ニース郊外のコート・ダジュール国際空港からパリ郊外のシャルル・ド・ゴール国際空港までの所要時間は僅か一時間半程度に過ぎないので、単純にコストパフォーマンスを考慮すればもっと安価な座席を予約すべきなのかもしれないが、彼女の長身で大柄な身体にエコノミークラスの座席は狭過ぎるのだから是非も無い。

「ん?」

 始末屋が旅客機の窓際の座席に腰を下ろしてみれば、彼女の一つ前の座席に腰を下ろした四歳か五歳くらいの幼い男の子が物珍しそうにこちらをジッと凝視していたので、そう言った始末屋は彼に問い掛ける。

「なんだ貴様、あたしの様な若い女の顔にじろじろと不躾で無遠慮な眼を向けるとは、未だ小さな子供の癖に伊達男ハンザム気取りか? それともあたしの顔に、何か珍しい物でも付いているのか? ん?」

 引き裂いた毛布を胸と下腹部に巻き付けただけの格好の始末屋にそう言って問い掛けられたにもかかわらず、一つ前の座席の幼い男の子はまるで物怖じしないまま、彼女の顔をジッと凝視し続けた。そして一頻ひとしきり始末屋の様子を観察し終えた男の子は、彼の隣の座席に腰を下ろす、どうやら富裕層の有閑マダムだと思われる母親に報告する。

「ねえねえ、ママン? なんだかおかしな格好の、黒くておっきな女の人が後ろに座ってるよ? 変なの!」

「しっ! 駄目よアベル、そんな事は、わざわざ口に出して言わないの! それに、頭がおかしいかもしれない人に、自分から関わったりしちゃいけません! ちゃんと前を向いて、黙って座っていなさい!」

「はーい」

 母親にたしなめられた男の子はそう言って、その母親の指示通り、旅客機の座席にきちんと前を向いたまま座り直した。しかしながら好奇心に打ち勝てなかった彼はちらりと背後を振り返り、真っ白な歯を見せて微笑みながら始末屋に向けて手を振れば、始末屋もまた手を振り返す。

「皆様、当機はまもなく離陸いたします。シートベルトの着用を、もう一度お確かめください。三歳未満のお子様は、膝の上でしっかりとお抱きください。一人でお座りのお子様のシートベルトも、保護者の方が、併せてお確かめください」

 そうこうしている内に流麗な若い女性の声でもってそう言った機内アナウンスに引き続き、始末屋とその他数多くの乗客達を乗せた旅客機はコート・ダジュール国際空港の滑走路上をぐんぐん加速すると、パリ郊外のシャルル・ド・ゴール国際空港を目指して離陸した。離陸した旅客機は見る間に高度を上げながら大気を切り裂いて上昇しつつ、地表から遠ざかれば、やがて眼下に広がるニースの街はまるで米粒か豆粒の様に小さくなって視界から消え失せる。

「このままパリまで出向いて、態勢を整え直すか」

 水清く緑豊かな西ヨーロッパの絶景を窓から臨みつつ、機上の人となった始末屋はそう言って、さながら彼女自身に言い聞かせるような表情と口調でもって独り言ちた。そしてそんな彼女を乗せた旅客機はフランス共和国の領空を順調に北上し、リヨン上空を通過すると、やがて辛口の白ワインの産地として有名なシャブリ地方の葡萄畑の上空へと差し掛かる。

「ん?」

 するとタカフクロウと言った猛禽類をも凌駕する視力を誇る始末屋がそう言って、一面の葡萄畑の一角に、何やらその場に似つかわしくない人影を発見して訝しんだ。

「あれは……」

 高度10000mの機上の人である始末屋が葡萄畑をジッと見下ろしながらそう言えば、彼女の視線の先の、葡萄畑の一角で佇む人影もまたこちらをジッと見上げている。

「あんたに個人的な恨みは無いが、不運にも『禁忌破り』となったからには死んでもらうぜ、始末屋」

 こちらを見上げながらそう言った葡萄畑の一角で佇む人影、つまり頭髪をド派手な虹色に染めて顔を白塗りにしたピエロの身なりの執行人エグゼキューターであるサイコクラウンは、やはりド派手な虹色のスーツの懐からちょうど掌にすっぽり納まる名刺入れくらいの大きさの遠隔起爆装置を取り出した。そしてその遠隔起爆装置の起爆レバーを押し込めば、彼の頭上を飛行する旅客機が爆発し、耳をつんざく爆音と鮮やかなオレンジ色に輝く爆炎に包まれる。

「うひょう、やったぜ! 大成功だ!」

 旅客機の貨物室に事前に仕掛けておいたC4プラスチック爆弾の爆発を見届けたサイコクラウンは、そう言って歓喜の雄叫びを上げながら、文字通りの意味でもって飛び上がって喜んだ。そして興奮が頂点に達した彼が軽快なステップを踏んで踊り狂い、全身で喜びを表現しているその間にも、ばらばらに砕け散った旅客機の残骸と乗客が爆炎に包まれたまま地表に落下する。

「さあ、そろそろ奴の死体を確認しに行くか」

 やがてそう言ったサイコクラウンは踊り止むと同時に気を取り直し、傍らの葡萄の木に立て掛けてあった前輪だけが異様に大きい『ペニー・ファージング』と呼ばれる自転車のサドルにまたがると、旅客機の残骸が落着した地点への移動を開始した。そしておよそ1kmばかりも離れた隣の区画の葡萄畑まで移動してみれば、そこには見るも無残に砕け散った旅客機の残骸と乗客達の死体がそこかしこに転がり、さながら地獄の様相を呈している。

「ふむ」

 自転車から降りたサイコクラウンはそう言って、広大な葡萄畑の中央でジェット燃料に引火してごうごうと激しく燃え上がる旅客機の残骸と、周囲一帯に散らばった乗客達の死体の山をぐるりと眺め渡した。そしてある者は地面に激突した際に頭部が砕け散って脳髄をまろび出させ、ある者は真っ黒な消し炭になるまで焼け焦げた死体を一つ一つ順繰りに検分しつつ、どこかこの辺りに落着した筈の始末屋の死体を探し求める。

「糞っ、違う! こいつも違う! こいつも、こいつも、こいつも違うじゃないか! おいおいおい、どこだ、どこに居る? 始末屋の死体は、一体全体、どこに転がってやがるんだ?」

 虹色のスーツとシャツとネクタイに身を包むサイコクラウンは苛立たしげな表情と口調でもってそう言いながら、そこかしこに転がる乗客達の死体を見分し続けるものの、肝心の始末屋の死体がなかなか見つからない。

「お?」

 すると広範囲に散らばった死体を見分し始めてからおよそ三十分後、遂にそう言ったサイコクラウンは、かつて旅客機のジェットエンジンであった筈の残骸の陰に転がる始末屋の死体を発見した。

「やっと見つけたぜ、始末屋よ」

 そう言ったサイコクラウンがにやりとほくそ笑めば、煙草のヤニでもって汚れた象牙色の歯が、如何にも『気狂いピエロ』らしく真っ赤な口紅が塗られた彼の上下の唇の狭間から覗き見える。

「さて、と。これでこいつの死体を調整人コーディネーターの野郎に引き渡せば、俺の『ヘッドショット』のランキングも上昇するってもんよ!」

 サイコクラウンはにやにやとほくそ笑みつつもそう言って、やはり煙草のヤニでもって汚れた象牙色の歯を覗かせながら、葡萄畑の片隅に転がる始末屋の死体の元へと歩み寄った。ちなみにここで言うところの『ヘッドショット』とは、裏稼業のならず者達の月間獲得報酬ランキングを決定する闇の専門機関が運営する、殺し屋評価サイト『ヘッドショット』を意味する事は今更言うまでもない事である。そして始末屋の死体を彼が履いた革靴の爪先でもって小突いて生死を確認しようと試みた次の瞬間、その死体が不意に手を伸ばしたかと思えば、サイコクラウンの右の足首を掴み上げたのだから驚かざるを得ない。

「糞っ! 糞っ! 糞っ! この死に損ないの、黒んぼの雌豚め! しぶとく生き延びてやがったのか!」

 そう言って驚きつつも悪態を吐いたサイコクラウンの言葉通り、高度10000mの遥か上空から地球の引力に任せて自由落下したにもかかわらず、始末屋は息絶えてはいなかった。

「残念だったな、サイコクラウンよ。あたしは地球上ではどれほど高い所から落下しようとも、決して死ぬ事は無い」

 始末屋が葡萄畑に転がった状態から顔を上げながらそう言えば、彼女の手によって右の足首を掴み上げられたサイコクラウンは、その始末屋の手を振りほどかんと奮闘する。

「糞っ! その手を今すぐ放しやがれってんだ、この化け物め! 放せ! 放せよ! 放せってば!」

 恐慌状態に陥ったサイコクラウンはそう言って喚き散らしながら、彼の右の足首を掴み上げた始末屋の手を左足の踵でもって何度も何度も蹴飛ばし続けるものの、常人離れした膂力を誇る彼女は決して手を放さない。

「無駄だ、サイコクラウンよ。遠隔操作でもって暗殺対象を爆殺し、正々堂々と獲物と向き合おうともしないケチで卑怯な執行人エグゼキューターである貴様が、このあたしを殺せる筈も無い」

 そう言った始末屋が葡萄畑の大地をしっかと踏み締めながら立ち上がれば、そんな彼女に右の足首を掴み上げられたままのサイコクラウンは、まるで屠殺場でもってこれから解体される家畜さながらの逆さ吊りの状態になってしまった。

「糞っ! 放せ! 放しやがれ!」

 逆さ吊りの状態になったサイコクラウンは尚もそう言って喚き散らしながら抵抗し続けるものの、爆殺以外の暗殺手段を体得し得ない彼の命は、もはやことわざで言うところの風前の灯火そのものであると言わざるを得ない。

「糞っ! こうなったら始末屋、あんたも道連れだ! この俺と一緒に、今ここで死んでもらうぜ!」

 やがて死を覚悟したサイコクラウンはそう言うと、逆さ吊りの状態になったまま、その身を包む虹色のスーツを脱ぎ捨てた。するとスーツを脱ぎ捨てた事によって露になった彼の腹部には幾つものC4プラスチック爆弾がくくり付けられており、どうやらサイコクラウンは、これらの爆弾を爆発させる事によって始末屋もろとも自爆するつもりらしい。

「さあ、死ね! その手を放さず、俺を自由の身にしなかった事を後悔しながら、死んじまえ!」

 まるで勝ち誇ったかのような表情と口調でもってそう言ったサイコクラウンは、煙草のヤニでもって汚れた象牙色の歯を剥きながら、ワイシャツの胸ポケットに手を伸ばした。しかしながらそこに有る筈だった何某なにがしかが見出せず、如何にも『気狂いピエロ』らしい白塗りの顔に、勢い困惑の色を浮かばせる。

「あれ? あれれ?」

 困惑の色を隠す事が出来ないサイコクラウンはそう言って、ワイシャツの胸ポケットだけでなくスラックスのサイドポケットや尻ポケットにも手を伸ばすものの、彼が探し求めている何某なにがしかは見つからない。

「貴様が探しているのは、これか?」

 すると彼を逆さ吊りの状態にしながらそう言った始末屋の、サイコクラウンの右の足首を掴み上げているのとは逆の掌には、ちょうど名刺入れくらいの大きさの遠隔起爆装置が納められていた。どうやら常人離れして勘が鋭い彼女は、サイコクラウンに気付かれぬ内に、彼のワイシャツの胸ポケットの中身を抜き取っていたものと思われる。

「おい、めろ! めるんだ、始末屋! あんた、一体その起爆装置をどうするつもりだ!」

「どうするもこうするも、そんな事は今更聞くまでも無い事だろう。貴様も自爆するつもりなら、潔く一人で死んで来るがいい」

 そう言った始末屋はサイコクラウンの右の足首を掴み上げた手を振りかぶり、その常人離れした膂力を総動員しながら、野球やソフトボールなどで言うところのアンダースローの要領でもって彼の身体を頭上目掛けて放り投げた。放り投げられたサイコクラウンの身体が、虚空を切り裂きつつも見る間に上昇したかと思えば、地表を覆う葡萄畑からぐんぐん遠ざかる。そして腹部に自爆用のC4プラスチック爆弾をくくり付けた獲物が充分な高度に達した瞬間を見計らい、始末屋は、手にした遠隔起爆装置の起爆レバーを躊躇無く押し込んだ。

「!」

 始末屋が遠隔起爆装置の起爆レバーを押し込むのとほぼ同時に、サイコクラウンの身体にくくり付けられていたC4プラスチック爆弾が爆発し、耳をつんざく爆音と鮮やかなオレンジ色に輝く爆炎に包まれる。勿論始末屋と違って常人程度の身体の頑丈さしか持ち合わせていないサイコクラウンが即死した事は、今更説明するまでもない。

「ふん、汚い花火だ」

 誰一人道連れにする事無く自爆させられたサイコクラウンの、無意味で無価値な死に様を見届けながら、広大な葡萄畑の中央に立つ始末屋はそう言って吐き捨てた。そして「さて、と」と言って気を取り直した彼女が状況を整理しようとした次の瞬間、周囲一帯に散らばった旅客機の乗客達の死体の山の中に小さな子供の死体を発見し、始末屋は足を止める。

「……」

 その小さな子供の死体は、確かアベルと言う名の、旅客機の機内で始末屋の一つ前の座席に腰を下ろしていた筈の幼い男の子の死体であった。そしてアベルの死体のすぐ傍らには、彼の母親である、例の富裕層の有閑マダムらしき女性の死体もまた転がっている。

「成仏しろよ、アベルも、その母親も」

 長距離バスの車内で不慮の死を遂げた上品そうな老婆に引き続き、アベルとその母親の死体を前にした始末屋は取り立てて何の感慨も無いままにそう言って、彼女なりの鎮魂の言葉に代えさせてもらう事とした。そしてそんな始末屋がぐるりと視線を巡らせながら周囲を見渡せば、背の低い葡萄の木の一本に、前輪だけが異様に大きい『ペニー・ファージング』と呼ばれる自転車が立て掛けてあるのが眼に留まる。

「自転車か。貧弱な移動手段だが、まあ、背に腹は代えられん」

 溜息交じりにそう言った始末屋は、その『ペニー・ファージング』と呼ばれる、前輪だけが異様に大きいユニークなシルエットの自転車のサドルにまたがった。そしてごうごうと激しく燃え上がる旅客機の残骸と、周囲一帯に散らばった乗客達の死体の山に別れを告げると同時にペダルを漕ぎ始め、一路首都パリに在る活動拠点セーフハウスを目指してシャブリ地方の葡萄畑を北上する。

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