第四幕


 第四幕



 ホテルハイエロファント・モナコのプレジデンシャルスイートから飛び降りた全裸の始末屋は、やがてガラスの破片と共に垂直方向に自由落下した後に、頑丈なインターロッキングブロックでもって舗装された地面に勢い良く落着した。

「ぐっ!」

 並大抵の人間ならばまず間違い無く即死してしまっていたであろう高所から落下し、硬く冷たい地面にしたたかに全身を叩きつけられた始末屋の口から思わず苦悶の声が漏れるものの、今や『大隊ザ・バタリオン』に所属する全ての執行人エグゼキューター達に追われる身となった彼女にいつまでも痛がっている暇は無い。そこで急いで立ち上がった始末屋は一糸纏わぬ全裸のまま、強化外骨格パワードスーツに身を包むアイーダ・サッチャーが駆け付ける前に身を隠すべく、その場から全力疾走でもって立ち去らんと行動を開始する。

「取り敢えず、まずは態勢を立て直さなければ」

 まるで独り言つようにそう言った全裸の始末屋は、建屋をぐるりと取り囲む背の高い塀と垣根を飛び越えてホテルハイエロファント・モナコの敷地から退出すると、そのままモナコ公国の市街地を全力でもって疾走し続けた。白昼の街路を堂々と疾走する全裸の彼女のあられもない姿に、道行くモナコ公国の地元民達や観光客達は悲鳴や歓声を上げながら驚くものの、今の始末屋にはそんな些末な出来事にかかずらわっているべき暇も猶予も無い。

「?」

 するとモナコ公国の街路を一糸纏わぬ全裸のまま、可能な限りアイーダ・サッチャーから距離を取りつつ身を隠す場所を探して疾走する始末屋の視線の先に、不意に奇妙な二人組が姿を現した。それは車椅子に乗った一人の白髪の老婆と、その老婆が乗った車椅子を押す一人の看護婦の二人組であったが、妙に露出度の高いナース服に身を包む看護婦の方が血の染みまみれの包帯でもって顔面をぐるぐる巻きにしているのである。

「あれは確か……」

 白髪の老婆と血まみれの包帯の看護婦の二人組に見覚えがあった始末屋がそう言って記憶の糸を手繰っていると、車椅子に乗った老婆は膝掛け毛布の下から、おもむろに旧ソ連製の二挺のRPD軽機関銃を取り出した。そしてそのRPD軽機関銃の照準を全裸の始末屋の眉間に合わせながら、引き金を引き絞る。

「さあ、今ここで死ぬがいいよ、始末屋! この恥知らずの『禁忌破り』めが! 覚悟おし!」

 車椅子に乗ったままそう言った白髪の老婆が構える二挺のRPD軽機関銃の銃口から、耳をつんざく銃声と眼にもまばゆいマズルフラッシュと共に、口径7.62mmのライフル弾の鉛の弾頭が次々に射出された。

「ふん!」

 しかしながら鼻息も荒くそう言った始末屋は、如何に全裸とは言え、老い先短い老婆の攻撃をそうそう簡単に喰らってしまう程落ちぶれてはいない。彼女は常人を遥かに凌駕する膂力に頼りながら両脚の筋肉を躍動させると、こちらへと飛び来たる鉛の弾頭が着弾するより早く跳躍し、車椅子に乗った白髪の老婆に上空から襲い掛かる。

「掛かったな!」

 だがしかし、まるで勝ち誇ったかのような表情と口調でもってそう言った血まみれの包帯の看護婦の言葉通り、全ては彼女ら二人が仕掛けた計略の一環に過ぎなかった。何故なら妙に露出度の高いナース服に身を包む看護婦は、彼女が押している車椅子の背凭せもたれの裏から鋭利なカッターが高速回転するチェーンソーを取り出すと、こちらへと跳躍する始末屋に切り掛かったからである。

「喰らえ、始末屋! あんたを殺して、あたしとお婆ちゃんが『ヘッドショット』のランキング上位に返り咲いてやる!」

 そう言った血まみれの包帯の看護婦が手にするチェーンソーのカッターが、始末屋の皮膚と肉、それに骨と内臓をも切り裂くべく空中を跳躍する彼女を間合いに捉えた。ちなみにここで言うところの『ヘッドショット』とは、裏稼業のならず者達の月間獲得報酬ランキングを決定する闇の専門機関が運営する、殺し屋評価サイト『ヘッドショット』の事である。

「なんの!」

 しかしながら全裸の始末屋はそう言って、彼女の身体を切り裂くべく迫り来るチェーンソーのガイドバーを蹴り飛ばすと、体勢を崩しながらも車椅子から充分な距離を取りつつ着地した。そして着地した始末屋は身を翻し、素早く立ち上がって身構えるのとほぼ同時に、眼の前の老婆と看護婦の正体を看破する。

「チェーンソーを得物とする血染めの看護婦と、軽機関銃を得物とする車椅子に乗った老婆の執行人エグゼキューターとは……さては貴様ら、ナオミ・ザ・マーダーナース&マシンガン・グランマか!」

「その通りさね、始末屋! 実の家族であるあたし達こそ『血に飢えた祖母と孫娘』として知られる、ナオミ・ザ・マーダーナース&マシンガン・グランマさ! 今からこのあたしとあたしの可愛い孫娘の手によって、卑しい『禁忌破り』であるあんたを、亡き者にしてくれるよ!」

 彼女ら二人の正体を看破してみせた始末屋の言葉を、車椅子に乗ったマシンガン・グランマはそう言って肯定した。そして彼女は再び「覚悟おし!」と言いながら、手にした二挺のRPD軽機関銃を乱射し始め、その孫娘であるナオミ・ザ・マーダーナースは内燃機関エンジンを唸らせながらチェーンソーを振りかざす。

「くっ!」

 ナオミ・ザ・マーダーナース&マシンガン・グランマと相対した始末屋は、そう言って歯噛みしつつも、彼女の形勢は極めて不利であると言わざるを得なかった。何故なら全裸の彼女は必殺の得物である手斧も駱駝色のトレンチコートも持ち合わせてはおらず、このままではRPD軽機関銃とチェーンソーを相手に、徒手空拳のまま立ち向かわなければならないからである。しかも距離を取ればRPD軽機関銃が、接近すればチェーンソーが襲い掛かって来ると言う完璧な布陣なのだから、尚更であるとも言わざるを得ない。

「さあ、さあ、さあ! 軒先のバケツに溜まった泥水をぶっ掛けられた交尾中の野良犬の様に、みっともなく鳴きわめきながら逃げ惑いな! 今のあんたには、それがお似合いだよ!」

 白昼のモナコ公国の市街地の一角で、そう言ったマシンガン・グランマの老婆らしい上品さの欠片も無い罵詈雑言と共に、彼女が手にしたRPD軽機関銃の銃口から次々に射出された鉛の弾頭が全裸の始末屋に襲い掛かる。

「!」

 しかしながらこちらへと飛び来たる鉛の弾頭の雨霰あめあられを、一糸纏わぬ全裸の始末屋が必死で逃げ惑いながら回避し続けていた、まさにその時であった。不意に一発の弾頭が街路の一角に設置されていた鋼鉄の塊によって弾き飛ばされ、その鋼鉄の塊に彼女の眼が留まる。

「ふん!」

 すると全裸の始末屋はそう言って街路の一角に設置されていた鋼鉄の塊、つまり消火活動に必要な水を供給するための設備である重く頑丈な消火栓を、常人を遥かに凌駕する膂力にものを言わせながら路面から引っこ抜いた。漏水防止の蓋を兼ねていた消火栓が引っこ抜かれた事によって、その下を走る水道管から供給されていたおびただしい量の水が勢い良く噴出し、まるで噴水の様に天高く舞い上がった水飛沫がきらきらと陽光を反射して七色の虹を形作る。

「行くぞ、ナオミ・ザ・マーダーナース&マシンガン・グランマ!」

 そして重く頑丈な消火栓を街路の路面から引っこ抜いた全裸の始末屋は、その鋼鉄の塊を胸の高さに抱え上げて身構えつつ、車椅子に乗ったマシンガン・グランマに襲い掛かった。

「ひいいぃっ! 来るんじゃない! こっちに来るんじゃないよ! 来るんじゃないったら!」

 鋼鉄製の消火栓を抱え上げながらこちらへと急速接近しつつある始末屋の異様な姿を前にして、そう言って恐れおののくマシンガン・グランマは二挺のRPD軽機関銃を乱射し、これを撃退せんと試みる。しかしながらRPD軽機関銃の銃口から次々と射出されたライフル弾の鉛の弾頭は、鋼鉄製の消火栓によってことごとく弾き返され、それを盾として利用する始末屋に一切の手傷を負わせる事が出来ない。

「覚悟しろ、このお転婆なご老体め」

 やがてマシンガン・グランマの元へと駆け寄った全裸の始末屋はそう言って跳躍し、空中で水平方向に身体を一回転させながら、強烈な上段後ろ回し蹴りを老婆の側頭部に叩き込んだ。

「ぷおっ!」

 まるでかしの木の棍棒の様に硬く重い始末屋の鍛え抜かれた踵でもって、無防備な側頭部を蹴り飛ばされる格好になったマシンガン・グランマの口から頓狂な声が漏れるのと同時に、砕けた頭蓋骨と裂けた皮膚の隙間から漏れ出た薄灰色の脳漿が虚空に向けて弾け飛ぶ。

「お婆ちゃん! ああ、お婆ちゃん、しっかりして! ……糞っ! 始末屋め、よくもあたしのお婆ちゃんを!」

 すると実の祖母であるマシンガン・グランマを殺されたナオミ・ザ・マーダーナースがそう言って、手にしたチェーンソーを頭上に高々と振りかざしながら逆上し、怒髪天を突く勢いでもって全裸の始末屋に襲い掛かった。

「死ね、この黒んぼめ!」

 血染めの看護婦であるナオミ・ザ・マーダーナースはそう言って彼女の皮膚の色を罵倒しながら、鋭利なカッターが高速回転するチェーンソーでもって始末屋に切り掛かるものの、切り掛かられた始末屋は鋼鉄製の消火栓でもってこれに応戦する。

「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死んじまえ、始末屋め!」

 暫し全裸の始末屋と血染めのナオミ・ザ・マーダーナースの二人の女執行人おんなエグゼキューター達は、互いが手にしたチェーンソーと消火栓でもって壮絶な切り合いを繰り広げ、それはさながら剣豪の域に達した侍同士の火花舞い散る剣戟の様相を呈するのであった。

「ふん!」

 しかしながら鈍器である消火栓と動力工具であるチェーンソーの違いこそあれど、飛び道具ではない打撃系の得物による接近戦に於いては、より多くの場数を踏んで来た始末屋の方が一枚上手であったと言わざるを得ない。何故なら次第次第に手数を増やしつつある彼女の攻撃が、やがてナオミ・ザ・マーダーナースのナース服から露出した手足と言った身体の末端に命中し始めると、遂にはその頭部をも間合いに捉えたからである。

「ぎゃあっ!」

 重く頑丈な鋼鉄製の消火栓が無防備な頭部に直撃したナオミ・ザ・マーダーナースはそう言って、彼女の喉から真っ赤な血反吐と共に、文字通りの意味でもって頭が割れる程の激痛を訴える苦悶の声がほとばしった。そして一瞬だけ意識が飛んだナオミ・ザ・マーダーナースは得物であるチェーンソーを取り落とし、彼女の手を離れたそのチェーンソーの高速回転する鋭利なカッターが、ナオミ・ザ・マーダーナース自身のナース服に包まれた胴体をずたずたに切り裂き始める。

「ぎゃあああぁぁぁっ!」

 彼女自身の得物であった筈のチェーンソーの鋭利なカッターによって、まるで侍に袈裟切りにされる野武士か野盗の様な格好でもって胴体をずたずたに切り裂かれつつも、ナオミ・ザ・マーダーナースはそう言って断末魔の叫びを上げた。そして生きたままその身を左右真っ二つに両断されてしまった彼女は、おびただしい量の血と臓物、それに臓物の中に詰まっていた尿や糞便と言った汚物にまみれながら息絶える。

「ふう」

 切断面から噴出した鮮血がモナコ公国の街路の路面に形作る真っ赤な血溜まりと、その血溜まりに膝から崩れ落ちたナオミ・ザ・マーダーナースが完全に絶命している事を確認した全裸の始末屋は、彼女の額に浮いた玉の様な汗を掌で拭い取りながらそう言って呼吸を整えた。如何に百戦錬磨のつわものとして知られる始末屋とは言え、手斧ではなく消火栓を振るって戦えば、使い慣れぬ筋肉を酷使した事によって呼吸が乱れてしまっていたとしても何の不思議も無い。

「う……う……」

 その時不意に、彼女の足元から息も絶え絶えの老婆の呻き声が聞こえて来たので、全裸の始末屋はそちらの方角へと眼を向けた。勿論その間も、取り敢えずその場を取り繕うための一時凌ぎの得物である鋼鉄製の消火栓を、彼女は決して手放さない。すると始末屋が放った上段後ろ回し蹴りを側頭部に喰らって息絶えたと思われていたマシンガン・グランマが、砕け散った頭蓋骨の隙間からぼとぼとと薄灰色の脳漿を零れ落としながらも死ぬに死に切れず、車椅子から転がり落ちた状態のままRPD軽機関銃を構え直そうと奮闘する姿が見て取れた。

「おのれ始末屋……よくもこのあたしの可愛い孫娘を……亡き者にしてくれたね……必ずやこの手であんたを殺してくれるから……覚悟おし……」

 瀕死のマシンガン・グランマはインターロッキングブロックでもって舗装された路面の上を這いずり回りながらそう言って、RPD軽機関銃を手にするものの、既に脳髄の半分あまりが頭蓋骨から零れ落ちてしまっている状態ではそれを構え直す事もままならない。

「未だ生きていたか、この死に損ないのお転婆なご老体め」

 全裸の始末屋はそう言って、消火栓を手にしたまま、真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿にまみれながら路面を這いずり回るマシンガン・グランマの元へと歩み寄った。そして「その可愛い孫娘とやらと、地獄で再会するがいい」と言うや否や、手にした消火栓を振りかぶり、その鋼鉄製の消火栓でもってマシンガン・グランマの頭部を完全に叩き潰す。

「ぐぽ」

 最後に一際頓狂な声を上げながら、今度こそ確実に、頭部を完全に叩き潰されたマシンガン・グランマは間違い無く絶命した。そして全裸の始末屋はマシンガン・グランマの膝掛け毛布を真っ二つに引き裂くと、その引き裂いた毛布を身体に巻き付けて、取り敢えず剥き出しの乳房と陰毛と性器を隠す事に成功する。

「さて、と」

 やがて『血に飢えた祖母と孫娘』として知られるナオミ・ザ・マーダーナース&マシンガン・グランマの二人を撃退せしめた始末屋は、そう言いながら用を為し終えた消火栓を放り捨てると、ぐるりと周囲を見渡した。するとちょうど視線の先のバス停に一台の長距離バスが停車したので、彼女はこれに乗り込んでからどっかと座席に腰を下ろし、発車を待つ。

「あら? あなた、随分と大胆な格好なのね? そう言う格好が、最近の若い人達の間で流行ってるのかしら?」

 すると始末屋の眼の前の座席に腰を下ろす、マシンガン・グランマとは一切関係の無い上品そうな老婆がそう言って、引き裂いた毛布を胸と下腹部に巻き付けただけの始末屋の格好に疑義を呈した。

「いや、別に、流行っている訳ではない。これは不覚にも着ていた服を失ってしまったので、仕方無く布切れを巻いて、陰部を隠しているだけだ」

 始末屋がぶっきらぼうな表情と口調でもってそう言えば、老婆は状況を理解しているのかいないのか、彼女の鞄の中から取り出した林檎を始末屋に手渡す。

「あら、そうなの? 服を失くしてしまうだなんて、あなたも若いのに大変なのね? 良かったら、これ、食べてちょうだいな?」

「ああ、頂こう」

 やはりぶっきらぼうな表情と口調でもってそう言った始末屋は老婆から林檎を受け取ると、未だ完全には熟していないその林檎を、ぼりぼりと貪り食うような格好でもって咀嚼し始めた。そして硬く酸っぱい林檎を無心で咀嚼しつつ、彼女は眼の前の老婆に問い掛ける。

「ところでご老体よ、このバスの行き先は、どこだ?」

「あらあら、あなたったら、そんな事も知らずにこのバスに乗ってしまったの? このバスはね、これからモナコ公国を出て、フランスのニースのコート・ダジュール国際空港に向かうのよ?」

「成程、コート・ダジュール国際空港か。それなら好都合だ」

 やがて林檎を食べ終えた始末屋がそう言えば、発車ブザーの警告音に続いて自動扉が閉まり、彼女や老婆らを乗せた長距離バスはモナコ公国の市街地のバス停を後にした。そして隣国であるフランス共和国の、アルプ=マリティーム県の県都ニースに在るコート・ダジュール国際空港を目指しながら、温暖な地中海の海岸沿いを走る国道M6098号線を西進し始める。

「……」

 国道M6098号線を海岸線に沿って西進し続ける長距離バスの車内で、引き裂いた膝掛け毛布を胸と下腹部に巻き付けただけの格好の始末屋は、終始無言であった。しかしながらそんな始末屋に、彼女の眼の前の座席に腰を下ろす上品そうな老婆は、人の良さそうな笑みと共に語り掛ける。

「ねえあなた、あなたは何も荷物を持っていらっしゃらないようですけど、空港に着いたら、どこか外国にでも行くつもりなのかしら?」

「いや、取り敢えずコート・ダジュール国際空港から国内線に乗って、首都パリに向かうつもりだ。パリにはあたしの活動拠点セーフハウスの一つが在るから、そこで身支度を整える」

「あら、そうなの? パリは広くて良い街ですから、ゆっくりして行けばいいんじゃないかしら? それにしても活動拠点セーフハウスだなんて、なんだかスパイ映画か何かみたいで、物騒じゃない?」

「ああ、そうだな。しかしながらこんな着の身着のままの格好では、如何にこのあたしがあらゆる依頼を完遂して来た上位ランカーの執行人エグゼキューターと言えども、本来の力は発揮出来ない。やはり手斧とトレンチコートが無ければ、本調子とは言えないからな。それにしてもアイーダ・サッチャーの奴はあたしの事を卑怯者と呼んだが、身支度を整え終えていない丸腰の、それも全裸の人間に襲い掛かっておきながら他人を卑怯者呼ばわりするとは無粋にも程がある。そうは思わないか、ご老体よ」

「ええ、そうね、確かにあなたの言う通りね? そのアイーダ・サッチャーと言う方がどこのどなたなのかは存じ上げませんけれど、裸の女性に襲い掛かるようなお行儀の悪い行為は、感心出来ないんじゃないかしら?」

 首を縦に振りながらそう言って彼女の意見に同意した上品そうな老婆と共に、暫し始末屋は、モナコ公国とフランス共和国との国境を越えてコート・ダジュール国際空港へと向かう長距離バスに揺られ続けた。古くは『旅は道連れ、世は情け』と言う故事成語、もしくはことわざが意味する通り、確かにこうして長い旅路を共に歩む者が居ると言うのは心強いものである。そして多くの観光客や地元民達で賑わうアルプ=マリティーム県の県都ニースの市街地の中心部に差し掛かったところで、老婆はおもむろに、彼女の鞄の中から新たな林檎とオピネル社製の折り畳みナイフを取り出した。

「ちょっと喉が渇いた事ですし、あたしも、林檎をいただこうかしら?」

 そう言った上品そうな老婆がオピネルナイフでもって林檎を切り分け始めた直後、不意に青信号の交差点のど真ん中にもかかわらず、彼女らを乗せた長距離バスが急停車したのである。

「あら、一体どうしたのかしら?」

 青信号の交差点のど真ん中で長距離バスが急停車した事を、上品そうな老婆がそう言って訝しんだ、次の瞬間であった。彼女も含めた多くの乗客達が乗り合わせた長距離バスの車体が突然がたがたと揺れ始めたかと思うと、古風な石畳で舗装された路面から車輪が浮き上がり、そのまま空中で半回転するような格好でもって車体が上下逆様にひっくり返ってしまったのである。

「うわっ!」

「きゃあっ!」

 アルミ合金とステンレスで出来た頑丈な車体がひしゃげて折れ曲がり、窓ガラスが粉々に砕け散る際の耳障りな破砕音と共に、突然ひっくり返ってしまった長距離バスの車内では乗客達が口々にそう言って悲鳴を上げた。そして勢いパニック状態へと陥った車内で、騒然とする他の乗客達を他所に、冷静沈着を旨とする始末屋は逸早く態勢を立て直す。

「おい、ご老体よ、貴様は無事か?」

 空回りするばかりのタイヤを天に向けながら上下逆様になってしまった長距離バスの車内でそう言って、始末屋は彼女の眼の前の座席に腰を下ろしていた上品そうな老婆の身を案じるが、その老婆からの返事は無い。

「ん? どうした、ご老体よ?」

 重ねてそう言った始末屋が足元に眼を向ければ、そこには件の上品そうな老婆が力無く横たわったまま絶命しており、彼女の細く華奢な首にはオピネルナイフの刃先が深々と突き刺さってしまっていた。どうやら長距離バスがひっくり返った際に、床か壁に強打した事によって手元が狂い、老婆のオピネルナイフが彼女自身の頸動脈を切断してしまったものと思われる。

「成仏しろよ、ご老体」

 取り立てて何の感慨も無いままに、やはりぶっきらぼうな表情と口調でもってそう言った始末屋は上品そうな老婆のオピネルナイフを回収してから車内を移動すると、フレームが折れ曲がってしまったがために開かなくなった長距離バスの自動扉を力任せに蹴り開けた。そして車外へと足を踏み出した彼女に続き、パニック状態に陥った他の乗客達が耳障りな悲鳴を上げつつも、交差点のど真ん中でひっくり返った長距離バスの車内から脱出すると同時に一斉に逃げ惑う。

「さて、と」

 長距離バスの車内から脱出した始末屋はふんと鼻を鳴らしながらそう言って、フランス共和国のアルプ=マリティーム県の県都ニースの市街地の中心部の、とある交差点の中央でぐるりと周囲を見渡した。突然のバス事故によって周囲の車輛は交差点に進入する事を躊躇し、それらの車輛に乗ったドライバー達や歩道を歩く歩行者達の好奇の眼差しが、その交差点の中央に立つ始末屋に一斉に向けられる。

「始末屋よ、待ち侘びたぞ!」

 すると不意に何者かがそう言って、ニースの市街地の中心部を取り囲むビルと言うビルに反響するかのような大声を張り上げながら、始末屋の名を呼んだ。そこで始末屋が背後を振り返り、声が聞こえて来た方角へと眼を向ければ、交差点のど真ん中でひっくり返った長距離バスの車体の上からこちらを睨み据える二つの人影が眼に留まる。

「貴様、誰だ?」

 オピネルナイフを手にした始末屋はそう言って、長距離バスの車体の上から彼女を見下ろす二つの人影を睨み返した。

「吾輩の名は地獄道士ディーユーダオシー! かつて浅草の街で貴殿に殺された実の兄の恨みを晴らすべく、吾輩の忠実な下僕であるウーと共に、貴殿を待ち伏せしていた執行人エグゼキューターの一人よ!」

 そう言って自らを地獄道士ディーユーダオシーと名乗ったのは、中国三大宗教の一つに数えられる道教の道袍と冠巾、それに雲履に身を包んだ歳老いた男の道士であり、その隣には補褂に身を包んだ若い女のキョンシーの姿が見て取れる。どうやらこの女キョンシーこそがウーと言う名で呼ばれた、地獄道士ディーユーダオシーの忠実な下僕らしい。

「浅草の街で、貴様の実の兄を殺しただと? 生憎ながら、あたしはこれまでの人生に於いて、道士を殺した経験は皆無だが?」

 始末屋が小首を傾げながらそう言えば、長距離バスの車体の上の地獄道士ディーユーダオシーはぶるぶると肩を震わせて怒りを露にしつつ、始末屋に殺されたと言う彼の実の兄の名を口にする。

「この期に及んで白を切るつもりか、始末屋よ! 吾輩の実の兄である地獄老師ディーユーラオシーは、貴殿の手斧によって葬り去られたのだぞ! よもや、忘れた訳ではあるまいな?」

地獄老師ディーユーラオシーだと? ああ、成程。つまり地獄道士ディーユーダオシーよ、貴様は、あの浅草の街の路上で刃を交えた拳法使いの実の弟と言う訳か。確かにあの拳法使いのご老体なら、血で血を洗う激闘の末に、このあたしの手斧の露と消えた筈だからな」

 そう言って彼の実の兄を殺した事を認めた始末屋の言葉に、地獄道士ディーユーダオシーの怒りは最高潮に達さざるを得ない。

「おのれ、よくもぬけぬけと! その波乱に満ちた人生の全てをしてでも拳の道を極めんとしつつも、貴殿と相見あいまみえた事によって志半ばで命を落とさざるを得なかった実の兄に成り代わり、この吾輩が貴殿に引導を渡してくれる! 覚悟せよ、始末屋!」

 ひっくり返った長距離バスの車体の上でそう言って啖呵を切った地獄道士ディーユーダオシーは、その右手に持った三叉の鐘をちりんちりんと打ち鳴らしながら、彼の忠実な下僕であるウーに命じる。

「さあ、行け、ウーよ! その怪力無双の誉れ高き剛腕でもって、今こそにっくき仇敵にして『禁忌破り』たる始末屋を、完膚無きまでに討ち滅ぼす千載一遇のチャンスなり!」

 地獄道士ディーユーダオシーがそう言って命じれば、命じられた女キョンシーであるウーは両手を前に突き出した待機の姿勢を解き、太極拳の転身左蹬脚と呼ばれる片脚立ちの構えを維持しつつ臨戦態勢へと移行した。そして次の瞬間、人間離れした脚力でもって長距離バスの車体を蹴って跳躍したかと思えば、眼下の始末屋に猛然と襲い掛かる。

ウー!」

 果たしてそれが気力を奮い起こすための只の掛け声なのか、それとも彼女が自らの名を名乗ったつもりなのかどうかは分からないが、とにかく腹の底から絞り出すようなおどろおどろしい声でもってそう言ったウーの猛烈かつ強烈な蹴り技が始末屋目掛けて繰り出された。

「くっ!」

 ウーの強烈な、まさに文字通りの意味でもって人間離れした蹴り技をまともに喰らってしまった始末屋はそう言って、苦痛に顔を歪めながら苦悶の声を漏らさざるを得ない。何故なら身の丈が210cmにも達する彼女よりずっと小柄で華奢でありながら、女キョンシー、つまり生きた死体であるウーは不死身であるが故に、肉体のリミッターが外された凄まじいまでの膂力を発揮出来るからである。

「どうだ始末屋よ、吾輩の忠実な下僕である、ウーの力は! 如何に貴殿が百戦錬磨の執行人エグゼキューターであろうがあるまいが、既に死んでいるキョンシーを殺す事は出来まい!」

 まるで勝ち誇るかのような悦に入った表情と口調でもってそう言って、道袍姿の地獄道士ディーユーダオシーは勝利を確信し、にやりと不敵にほくそ笑んだ。そして気が早い彼は仇討ちを達成した彼自身の雄姿を夢想しつつ、手にした三叉の鐘を打ち鳴らしながら重ねて命じる。

「さあ、ウーよ! にっくき仇敵にして『禁忌破り』たる始末屋を、思う存分じっくりと時間を掛けながら、じわじわとなぶり殺しにしてやるがいい!」

ウー!」

 やはり腹の底から絞り出すようなおどろおどろしい声でもってそう言って自らの名を口にしたウーは、地獄道士ディーユーダオシーの命令に従い、一旦彼女から距離を取っていた始末屋に再び襲い掛かった。

ウー! ウー! ウー!」

 そして繰り返し発される掛け声に合わせながら、中国武術の代表的な内家拳の一つである太極拳の技法に則った強烈な突きや蹴りが繰り出され、始末屋はこれらの攻撃を彼女が習得した体捌きでもって回避するのがやっとの有様である。

「くっ!」

 太極拳を極めた女キョンシーであるウーが繰り出す、勁烈にして絶え間無い波状攻撃の前に、防戦一方の始末屋は舌打ち交じりにそう言って歯噛みせざるを得ない。

「いいぞ、ウーよ! そのまま始末屋を追い詰めるがいい!」

 彼の忠実な下僕であるウーの旗色が良い事を見て取った地獄道士ディーユーダオシーは気が大きくなったのか、手にした三叉の鐘を激しく打ち鳴らしながらそう言って、ここぞとばかりに更なる攻勢を掛けるようウーに命じた。

ウー!」

 すると地獄道士ディーユーダオシーに命じられたウーは掛け声と共に路面を蹴って一際高く跳躍し、まるでフィギュアスケーターの様に空中で激しく回転すると、その回転によって生まれた遠心力が上乗せされた強烈な飛び蹴りを放つ。

「なんの!」

 しかしながら始末屋はそう言って身を翻し、ウーの強烈な飛び蹴りを間一髪、まさに首の皮一枚で繋がったかのような紙一重のタイミングでもって回避してみせた。そして一瞬の間隙を突いてウーの懐に飛び込むと、長距離バスの車内で老婆の死体から回収したオピネルナイフを逆手に持ち替え、その切っ先をすれ違いざまにウーの胸元に突き立てる。

「?」

 オピネルナイフの切っ先が眼の前の女キョンシーの胸元に深々と突き刺さるのを確認した始末屋は、彼女自身の胸に去来する違和感に、見えない疑問符を頭の上に浮かべざるを得ない。何故ならオピネルナイフの鋭利な切っ先が確実に心臓を貫いてしまっているにもかかわらず、ウーの胸元の傷口からは、一滴の血液も漏れ出て来ないからである。

ウー!」

 するとウーは焦点の合わない黄土色に濁った眼を見開きながらそう言うと、オピネルナイフの切っ先によって心臓を貫かれたまま、眼の前の始末屋の鳩尾みぞおちに強烈な前蹴りを蹴り込んだ。

「ぷおっ!」

 無防備な鳩尾みぞおちに前蹴りを蹴り込まれてしまった始末屋はそう言って、血反吐と共に苦悶の声を上げながらも、前蹴りに続くウーの追撃を喰らわぬよう素早く後方へと飛び退って距離を取る。そして距離を取った始末屋が手にしたオピネルナイフの切っ先、つまりウーの胸元から引き抜かれたその切っ先には、やはり一滴の血液も付着してはいない。

「無駄な事だ、始末屋よ! 吾輩の忠実な下僕であるウーは動く死体でもあるが故に、呼吸もしなければ、心臓を拍動させて全身に血液を循環させる必要性もまた皆無である! つまり、吾輩の勝利は確実なり!」

 高笑いと共にそう言って勝利を確信する地獄道士ディーユーダオシーの姿に、誠に遺憾ながら、始末屋は反論の余地を見出みいだす事が出来なかった。何故なら不覚にも、彼女は反論の余地と同時に、不死身の生きた死体であるウーを殺害する方法もまた見出みいだせなかったからである。

「さあ、ウーよ! 時は来た! 今こそ持てる力の全てを解き放ち、吾輩達の奥の手を見せてやるのだ!」

ウー!」

 勝利を確信した地獄道士ディーユーダオシーによる三叉の鐘を打ち鳴らしながらの度重なる命令に、やはり女キョンシーであるウーがそう言って応じれば、彼女の土気色の皮膚に覆われた身体が突然ぶるぶると痙攣するように震え始めた。そして一際激しく震えるのとほぼ同時に、その皮膚の至る箇所がぼこぼこと瘤の様に盛り上がると、その瘤の先端を突き破るような格好でもって数多のとげがその姿を現す。鋭く尖ったとげがびっしりと全身に生え揃ったウーの姿は異様で、さながら人間ハリネズミか人間ヤマアラシ、もしくは雲丹ウニか何かにも似た海洋生物のそれを髣髴ほうふつとして止まない。

ウー!」

 やはりそう言って彼女自身の名を口にしながら、太極拳の転身左蹬脚の構えから路面を蹴って跳躍し、女キョンシーであるウーが始末屋に襲い掛かった。今のウーの全身からは鋭く尖った無数のとげが生えているのだから、生身の始末屋にとっては彼女に抱き付かれただけでも致命傷を負いかねず、迂闊に接近される事は即ち死を意味する。

ウー! ウー! ウー!」

「くっ!」

 己の名を連呼しながらの、全身から無数のとげが生えたウーによる連続攻撃に晒された始末屋は形振り構わず逃げ惑い、防戦一方のままそう言って歯噛みするばかりであった。

「どうしたどうした、始末屋よ! 貴殿の実力をもってしても、吾輩と吾輩の忠実な下僕であるウーの奥義、地獄的豪猪ディーユーダーハオツーの前には手も足も出ないと言うのか! このまま嬲り殺しの憂き目に遭いたくなくば、真正面から正々堂々と挑み掛かって来るが良い!」

 地獄道士ディーユーダオシーはそう言って始末屋を挑発するものの、鋭く尖ったとげが生えたウーの手足による突きや蹴りは受けても捌いてもそのとげによる刺傷や裂傷を負ってしまい、防御に徹していてもじわじわと命を削られてしまうのだから堪らない。

「糞っ! 手斧さえあれば……」

 ウーの連続攻撃を懸命に回避しながらそう言った始末屋の言葉通り、彼女の必殺の得物である筈の手斧をトレンチコートと共に失ってしまった事こそが、始末屋にとっての不運そのものであった。何故なら手斧さえあれば、その丹念に研ぎ上げられた切っ先と斧腹でもってウーの突きも蹴りもとげさえも弾き返し、師匠から伝授された攻防一体の体術を駆使しつつ彼女本来の間合いでもって戦えたからである。しかしながら今の彼女の得物は一振りのちっぽけなオピネルナイフのみであり、命を預けるには心許無く、刃渡り10cmにも満たないその刀身はウーと戦うにはあまりにも貧弱であるとしか言い様が無い。

「よし、ウーよ! そろそろ頃合いであるぞ! にっくき仇敵にして『禁忌破り』たる始末屋に、とどめを刺してやるがいい!」

ウー!」

 やはり右手に持った三叉の鐘をちりんちりんと打ち鳴らしながらの、地獄道士ディーユーダオシーによるとどめを刺せとの命令に、そう言ったウー抱擁ハグを要求する幼い子供の様に大きく両腕を広げつつ始末屋に飛び掛かった。彼女はこのまま眼の前の獲物を抱き締め、その全身の瘤から生えた無数のとげでもって、始末屋を串刺しにしようと言う魂胆である。

ウー!」

 するとそう言って飛び掛かって来たウーの死の抱擁ハグを、始末屋は咄嗟に身を翻し、すんでのところでもって回避してみせた。

ウー! ウー! ウー!」

 そして自らの名を連呼しながら繰り返し飛び掛かって来るウーの連続攻撃に晒された始末屋は、只ひたすら逃げ惑う事しか採るべき方策が見出みいだせず、このままではジリ貧に陥ってしまう事は想像に難くない。

「いいぞ、いいぞ、ウーよ! そのまま始末屋を追い詰め、なぶり殺しにしてしまえ!」

 興奮しきりの地獄道士ディーユーダオシーは耳障りな高笑いと共にそう言って、三叉の鐘を殊更に激しく打ち鳴らしながら、彼の忠実な下僕であるウーに始末屋の抹殺を命じ続けた。すると地獄的豪猪ディーユーダーハオツーと呼ばれるウーの死の抱擁ハグから逃げ惑っていた始末屋は、眼の前のウーではなくその使役者たる地獄道士ディーユーダオシーへと照準を切り替え、彼が屹立する長距離バスの車体の上へと駆け上がる。

「!」

 始末屋が交差点のど真ん中でひっくり返っていた長距離バスの車体の上へと駆け上がれば、不覚にもそこに居た地獄道士ディーユーダオシーは、彼の間合いの内側へと獲物を招き入れてしまった事に驚きを隠せない。

「糞っ! ウーよ、始末屋をバスから引き離せ!」

 地獄道士ディーユーダオシーは慌てながらそう言って三叉の鐘を打ち鳴らし、始末屋を長距離バスの車体から引き離すようウーに命じた。

ウー!」

 すると彼女の使役者である地獄道士ディーユーダオシーに命じられたウーもまたそう言って、交差点の路面を蹴って一際高く跳躍し、長距離バスの車体の上への移動を試みる。

「そうは行くものか!」

 しかしながらそう言った始末屋もまたシャーシを蹴って跳躍し、ウーが長距離バスの車体に飛び乗るより早く地獄道士ディーユーダオシーを間合いに捉えると、その手から三叉の鐘を奪い取った。

「しまった!」

 すると三叉の鐘がそう言った地獄道士ディーユーダオシーの手を離れると同時にウーの動きがぴたりと止まり、バランスを崩した彼女は長距離バスの車体の上に飛び乗る事無く真っ逆さまに落下したかと思えば、頭から路面に激突したままぴくりとも動かない。

「成程。如何に貴様が名うての道士とは言え、これが無ければ、そこの女キョンシーは操れないと言う訳か」

 おろおろと慌てふためくばかりの地獄道士ディーユーダオシーの手から奪い取った三叉の鐘をめつすがめつ精察しながら、始末屋はそう言って首を縦に振りつつも得心し、道士がキョンシーを操るために必要とされる全てのからくりを一瞥の下に看破してみせた。そしてそれなりに頑丈な金属で出来ている筈の三叉の鐘を、その常人離れした膂力でもって力任せに握り潰してから地面に放り捨てると、彼の忠実な下僕であったウーを操れなくなってしまった地獄道士ディーユーダオシーをぎろりと睨み据える。

「おのれ! おのれ! おのれ! こうなればこの吾輩の手でもって、直々に、貴殿にとどめを刺してくれる! 覚悟するがいい、始末屋!」

 そう言って啖呵を切った地獄道士ディーユーダオシーが彼の右腕をぶんと素早く振りかざせば、その身を包む道袍の袖口から古銭を赤い紐で繋いで作られた短剣、つまり風水の法具の一つである銭剣が姿を現した。そしてその銭剣の、決して鋭利とは言い難い切っ先でもって、形勢逆転の憂き目に遭った地獄道士ディーユーダオシーは始末屋に切り掛かる。

「死ね!」

 追い詰められた地獄道士ディーユーダオシーはそう言いながら銭剣でもって切り掛かるものの、その動きは彼の忠実な下僕であるウーのそれに比べると鈍く重く頼りなく、そんな素人同然の鈍重な攻撃をむざむざ喰らってしまうほど始末屋もまた落ちぶれてはいない。

「ふんっ!」

 銭剣による地獄道士ディーユーダオシーの鈍重な斬撃を、軽々と、また易々と身を翻して回避してみせた始末屋は、そう言って息を吐きながら腹筋を収縮させると同時に地獄道士ディーユーダオシーの顔面に彼女の右の拳を叩き込んだ。

「ぷおっ!」

 無防備な顔面の中心部をしたたかに殴打された地獄道士ディーユーダオシーは、そう言って頓狂な声を上げつつも両の鼻腔から真っ赤な鼻血を噴出し、手にした銭剣を長距離バスのシャーシの上に取り落とす。取り落とされた際の衝撃でもって古銭を繋いでいた赤い紐が切れ、自由の身となった幾つもの古銭が周囲に散らばってちゃりんちゃりんと軽快な金属音を奏でるものの、その音に耳の傾けるような奇特な者は存在しない。

「ふんっ! ふんっ! ふんっ! ふんっ! ふんっ!」

「ぷおっ! ぷおっ! ぷおっ! ぷおっ! ぷおっ!」

 その後も地獄道士ディーユーダオシーの身を包む道袍の襟首を左手でもって掴み上げた始末屋は、眼の前の獲物の無防備な顔面に続け様に右の拳を叩き込み続け、非人道的なタコ殴りの憂き目に遭った地獄道士ディーユーダオシーは見る間に血達磨と化して行く。

「……殺せ……この吾輩もまた……吾輩の実の兄である地獄老師ディーユーラオシーと同じく……貴殿の手によって殺すがいい……」

 遂に万策尽きた地獄道士ディーユーダオシーは、ぐちゃぐちゃになるまで陥没した顔面の穴と言う穴から大量の鮮血を噴き出しながらそう言って、死を覚悟した。

「ああ、そうだな。死ね」

 すると何の感慨も無くそう言った始末屋が右の拳を渾身の力でもって振り下ろし、地獄道士ディーユーダオシーの顔面に最後の一撃を叩き込めば、完全に顔面が陥没し切ってしまった彼は重度の脳挫傷と外傷性ショックによって呆気無く絶命する。

「ふう」

 獲物を始末し終えた始末屋がそう言って道袍の襟首を掴み上げていた手を放せば、支えを失った地獄道士ディーユーダオシーの身体が崩れ落ち、まるで糸が切れた操り人形の様に長距離バスのシャーシの上にごろりと転がった。その場に散らばっていた銭剣の古銭が、彼がシャーシと激突した際の衝撃でもって僅かに浮き上がってから落下し、再び軽快な金属音を奏でる。

「さて、と」

 左右の拳にこびり付いた真っ赤な鮮血を払い落としながらそう言った始末屋は、ぐるりと視線を巡らせて周囲の状況を確認すると、交差点のど真ん中でひっくり返った長距離バスの車体の上から躊躇無く飛び降りた。そして路面に着地した彼女は足元に眼を向け、使役者である筈の地獄道士ディーユーダオシーを失ってその場に転がったままぴくりとも動かないウーを一瞥してから、これからどうしたものかと思案する。

「!」

 すると幸先が良いとでも言うべきか、ひっくり返った長距離バスの後続となる新たな長距離バスがたまたまその場を通り掛かったので、始末屋はその長距離バスに一も二も無く飛び乗った。彼女が飛び乗った新たな長距離バスの行き先もまた、先の長距離バスと同じく、アルプ=マリティーム県の県都ニースに在るコート・ダジュール国際空港である。

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