第二幕


 第二幕



 やがて始末屋がモナコ公国唯一の公共海水浴場であるプラージュ・デュ・ラルヴォットへと泳着し、英気を養うと称してホテルハイエロファント・モナコに長期滞在し始めてから、ちょうど二週間の時が経過した。彼女にとっては『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターに身をやつして以来と言っても決して過言ではない、随分と久方振りの、永い永い休暇である。

「……」

 ホテル内のレストランでの夕食を満喫し終えた始末屋は最上階の宿泊客専用の高級ラウンジへと移動し、窓辺の特等席を確保すると、無言で熱いコーヒーと甘い茶菓子をたしなみながら夜景を一望した。

「……」

 やはり無言のまま、ゆっくりと熱いコーヒーをたしなみながら、トレンチコート姿の始末屋は自らを取り巻く現状を再確認する。この半年間余りでオーバーワークとも言えるほどの多くの依頼を完遂し、とうとう夜の嵐の地中海を泳いで縦断すると言う偉業を成し遂げ終えた彼女は心身ともにぼろぼろの状態であったが、この二週間でその傷もすっかり癒えたものと思われた。そしてその事実を改めて再確認すると、コーヒーカップを手にした始末屋は、そろそろ休暇を切り上げて執行人エグゼキューターとしての責務を全うする事もまた視野に入れ始める。

「……そろそろ、潮時かな」

 するとホテルの高級ラウンジの窓辺でモナコ公国の夜景を一望しながら、小声でもって独り言つようにそう言った始末屋がカップの底に残されていたコーヒーの最後の一口を飲み下し終えた、その時であった。不意に一人の女性がラウンジ内へと足を踏み入れ、始末屋の後ろ姿を見咎めると、その心の内が滲み出るかのような恨み骨髄に徹すとでも言いたげな足取りでもってこちらへと歩み寄る。

「あら? 随分と馬鹿デカい大女が、馬鹿デカい態度でもって居座っているから誰かと思えば、始末屋じゃないの?」

「ん?」

 突然背後から呼び掛けられた始末屋がそう言って振り返れば、そこには彼女ほどではないもののそれなりに背の高い、黒い革のライダースーツにぴっちりと身を包んだ一人の女性が立っていた。

「……確か貴様は、音に聞こえた『鉄の淑女』こと、アイーダ・サッチャーか」

 始末屋がそう言って女性の正体を看破してみせれば、彼女からアイーダ・サッチャーと呼ばれた黒い革のライダースーツの女性は、真っ白い歯を剥きながらにやりと不敵にほくそ笑む。

「へえ、あんたみたいな有名人があたしなんかの名前を憶えていてくれただなんて、光栄だね」

 皮肉交じりにそう言ったアイーダ・サッチャーは窓辺のラウンジチェアに腰を下ろす始末屋を刺すような視線でもって見下ろし、始末屋は黒い革のライダースーツに身を包むアイーダ・サッチャーを鋭い眼差しでもって見上げ、暫し二人は互いの視線を絡ませながら無言の睨み合いを継続して止まない。

「それで、その『鉄の淑女』とやらが、こんなセレブ達の保養地であるモナコのホテルで一体何をしている? まさかこのあたし同様、貴様もまた休暇を取得し、英気を養っている訳でもあるまい」

 やがて沈黙を打ち破るような格好でもってそう言って始末屋が問い掛ければ、問い掛けられたアイーダ・サッチャーは一瞬だけ驚いてからぷっと噴き出し、遂には腹を抱えながら声を上げて笑い出す。

「休暇? 休暇ですって? よりにもよってあの始末屋ともあろうお方が、セレブ御用達のモナコくんだりで、まるで俗世間に溢れる凡俗女さながらに休暇を満喫しているって言うのかい? こいつは傑作じゃないか! 泣く子も黙る『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターも、地に落ちたもんだね!」

 そう言って笑い転げるアイーダ・サッチャーの姿に、これを自分に対する侮辱であると判断した始末屋はラウンジチェアから腰を上げ、その身を包む駱駝色のトレンチコートの懐に両手を差し入れた。そしてその両手が懐から引き抜かれれば、そこには左右一振りずつの手斧が握られており、丹念に研ぎ上げられた鋭利な切っ先がラウンジの間接照明の灯りを反射してぎらりと輝く。

「貴様、あたしを侮辱する気か?」

 ホテルハイエロファント・モナコの高級ラウンジの窓辺の一角で、始末屋はそう言って警告しながら、左右一振りずつの手斧を構え直した。すると今の今まで笑い転げていたアイーダ・サッチャーはぴたりと笑い止み、今度は一転して眉間に深い縦皺を寄せると、やはり恨み骨髄に徹すとでも言いたげな鬼の形相でもって始末屋を睨み据える。

「何が「侮辱する気か」だ! そう言うあんたの方こそ、あたしの可愛いサルダールを亡き者にしておいて、今になってちょっとやそっと侮辱されたくらいで本気マジになってんじゃないよ! この薄汚い黒んぼめ!」

 怒り心頭のアイーダ・サッチャーは始末屋を睨み据えながらそう言うと、まるで十字架のシルエットを真似るかのような格好でもって、直立不動の姿勢から肩の高さまで上げた両腕をぴんと左右に突き出した。すると彼女の背中に装着されていた小型のリュックサックか何かくらいの大きさの装置から幾本もの金属製の触手が次々に這い出し、それらがアイーダ・サッチャーの身体を隙間無く包み込んだかと思えば、やがて彼女の全身を覆う屈強な強化外骨格パワードスーツへと変貌する。

「アイーダ・サッチャーよ、どうやら貴様、やる気だな?」

「ああ、そうだとも! 始末屋よ、今ここであんたとの因縁に終止符を打ってやる! 覚悟するがいい!」

 互いに臨戦態勢へと移行した始末屋とアイーダ・サッチャーの二人はそう言って睨み合い、事態は風雲急を告げ、一触即発とはまさにこの事であった。

「……」

「……」

 睨み合う二人が無言のまま間合いを測り合い、始末屋の手斧の切っ先とアイーダ・サッチャーの強化外骨格パワードスーツに搭載された荷電粒子砲イオンブラスターが刃を交えんとしたその刹那、不意にラウンジに姿を現した何者かが激闘に水を差す。

めろ、アイーダ! そこまでだ!」

「!」

 彼女の名を呼ぶ声に、強化外骨格パワードスーツに身を包むアイーダ・サッチャーがはっと我に返りながら背後を振り返れば、そこにはラウンジの出入り口を背にして立つ一人の壮年の男性の姿が見て取れた。

「ヴィロ王子……」

 そう言ったアイーダ・サッチャーがヴィロ王子と呼んだ壮年の男性は、丁寧に切り揃えられた無精髭風の顎髭が似合うそれなりの伊達男ハンサムで、如何にも王子らしい真紅のサッシュが巻かれた仕立ての良いスーツの胸元には煌びやかな勲章の数々がぎらぎらと光り輝いている。

「アイーダ、一体そこで何をしている! 今のキミが為すべき仕事は、危険物が仕掛けられていないかどうか、ラウンジの安全を確保して来る事の筈だぞ!」

 ラウンジに足を踏み入れた壮年のヴィロ王子はこちらへと歩み寄るなりそう言って、強化外骨格パワードスーツに身を包むアイーダ・サッチャーを叱責した。すると彼女はもごもごと口篭もりつつも、ばつが悪そうに釈明の言葉を並べ立て始める。

「申し訳ありません、ヴィロ王子。しかしながら、因縁浅からぬ仲のこの女の姿が眼に留まったものですから……つい……」

「言い訳は無用だ! いいか、アイーダ! この私の身辺警護と言う責務を全う出来ないと言うのなら、今すぐにでも『大隊ザ・バタリオン』を通じて依頼を取り下げ、この場でキミを解雇しても構わないんだぞ! 私の言っている事が、理解出来たか? 理解出来たと言うのなら、いつまでもこんな所でぼうっと突っ立ってないで、一刻も早くラウンジの安全を確保したまえ! さあ、早く!」

「……かしこまりました……」

 壮年のヴィロ王子に頭ごなしに叱責されたアイーダ・サッチャーはぎりぎりと歯噛みしながらそう言うと、その身を包む強化外骨格パワードスーツを彼女の背中の装置の中へと収納し直し、恨みがましく始末屋を一瞥してからその場を立ち去った。そしてアイーダ・サッチャーがラウンジの安全を確保している間に、彼女に身辺警護を依頼しているらしいヴィロ王子は始末屋の元へと歩み寄る。

「お嬢さん、事の詳細までは与り知らぬが、どうやら私の警護人ボディガードの一人である筈のアイーダがキミにご無礼を働いてしまったらしい。彼女の雇い主として心から謝罪させていただきますので、どうか、ご容赦の程をお願い申し上げます」

 ヴィロ王子はそう言いながら深々と頭を下げ、丁重かつ柔らかい物腰でもって始末屋に謝罪した。

「別に構わんさ。謝罪など必要無いから、貴様も顔を上げろ。それにあたしもあの『鉄の淑女』のアイーダ・サッチャーも、どちらも『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューター達の内の一人だ。そんな血気盛んな裏稼業のならず者同士の主義主張が真っ向から対立し、抗争が勃発する事など、別段珍しくもない」

 すると始末屋はそう言って臨戦態勢を解除すると、謝罪したヴィロ王子だけでなく彼女に砲口を向けたアイーダ・サッチャーすらも咎めぬまま、左右一振りずつの手斧を駱駝色のトレンチコートの懐へと仕舞い直した。そしてラウンジの窓辺の特等席に座り直し、熱いコーヒーと甘い茶菓子による束の間の休息を再開しようとする始末屋の相貌を、壮年のヴィロ王子はじろじろと睨め回す。

「なんだ貴様、女の顔を堂々と視姦するとは、趣味が悪いにも程があるぞ」

 始末屋がそう言ってヴィロ王子の不躾な行為をたしなめれば、たしなめられた彼はいきおい弁解せざるを得ない。

「ああ、これはこれは、誠に申し訳無い。もし仮にご気分を害されたのであれば、心より謝罪させていただきます。しかしながら、お嬢さん? キミの様な若く美しく魅力的な女性を前にして、ついつい眼が離せなくなってしまった私の無礼な行いを、どうかご容赦願いたい」

「ほう? 貴様、なかなか口が達者だな」

「いえいえ、それほどでもありませんよ。心からの本音を、率直に口にしたまでの事ですからね。……ところで、お嬢さん? お嬢さんのご都合さえよろしければ、是非ともこの私と、暫しご歓談に興じてはいただけませんか?」

「ああ、構わん。座れ」

「それでは、失礼させていただきます」

 そう言ったヴィロ王子はホテルハイエロファント・モナコの最上階の宿泊客専用の高級ラウンジの窓辺の席に腰を下ろし、向かいの席に腰を下ろす始末屋と相対すると、さっそく彼女の素姓を聞き出そうと試みる。

「改めまして、私はマルプレネーコ大公国の王位継承権第三位の第二王子であり、現在は同国の内務大臣と外務大臣を兼任する、ヴィロ・マルプレネーコと言う者です。以後、お見知り置きを」

「あたしの名は始末屋。それ以上でも、それ以下でもない。そして『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターの一人であり、また同時に破壊と殺害を生業とする、裏稼業のならず者だ」

 ヴィロ王子と始末屋の二人はそう言って、互いの素性を簡潔に紹介し合った。

「ほう、成程、成程。キミの名は始末屋と仰るのですね? それで始末屋、あのアイーダと同じく『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターであるキミが、如何なる要件でもって、モナコ公国まで足を運ばれたのですか?」

「詳細に関しては守秘義務に抵触するので口外出来ないが、受諾した依頼を完遂するために、あたしは遠くフォルモサからこの地まで足を運んだ。そしてちょうど二週間前に依頼を完遂した後は休暇を取得し、何をするでもなく英気を養いながら、今に至る」

 始末屋がそう言えば、壮年のヴィロ王子は重ねて問い掛ける。

「だとすると、今現在のキミは、一切の依頼を受諾していないフリーの身の上だと言う事ですね?」

「ああ、まあ、そう言う事になるな」

「それならば始末屋、今ここで私からキミに、是非とも新たな仕事を依頼したい。よろしいかな?」

 壮年のヴィロ王子がスーツの胸元に縫い留められた勲章の数々を輝かせながらそう言って、新たな依頼をやにわに打診した。すると打診された始末屋は「ほう?」と言って小首を傾げ、これに関心を抱かざるを得ない。

「新たな依頼か。それで、具体的な依頼内容の詳細は?」

 始末屋がそう言って問い返せば、ヴィロ王子は彼がこのセレブ達の保養地、つまりモナコ公国を訪れた理由と目的についてつまびらかに解説し始める。

「始末屋、キミはビルダーバーグ会議と呼ばれるある種の催事イベントについて、どの程度ご存知かな?」

「ビルダーバーグ会議? 確か年に一度、世界的な影響力を有する各界の有力者や著名人を一堂に会して行われると言う、完全非公開の秘密会議の事だな。それで、そのビルダーバーグ会議が、どうかしたのか?」

「ええ、実は今年度のその秘密会議が、来週このホテルで開催されるのです。そしてマルプレネーコ大公国の第二王子であるこの私もまた、大公家を代表して列席すべき中央ヨーロッパの有力貴族の一人として、ビルダーバーグ会議に招集される事になったと言う訳でしてね」

「成程」

 ビルダーバーグ会議に関するヴィロ王子の解説に、ラウンジチェアに腰掛けた始末屋はそう言って、首を縦に振りながら得心した。そしてそんな始末屋の様子に満足したらしいヴィロ王子は、改めて具体的な依頼内容の詳細を伝える。

「そこで私はキミに、今年度のビルダーバーグ会議の開催期間中とその前後のおよそ一週間、この私の身辺警護を依頼したい。報酬は、米ドルで五万ドル。どうですかな? 世間の相場から鑑みても、決して悪い話ではない筈ですが?」

「ふむ、確かに悪くない話だ」

 しかしながら始末屋がそう言ってヴィロ王子の依頼を受諾しかけた次の瞬間、不意に彼の背後から、何者かがヴィロ王子の元へと足早に駆け寄った。そしてその駆け寄った何者か、つまり『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターの一人であるアイーダ・サッチャーは激しく声を荒らげながら、彼の身辺警護と言うヴィロ王子の依頼内容に異議を申し立てる。

「ヴィロ王子! 一体何を仰られるのですか! 既にこのあたしが王子の身辺警護の任に就いていると言うのに、こんな薄汚い黒んぼ女を新たに雇い入れようなどと言うのは、正気の沙汰とは思えません!」

 こちらへと駆け寄ったアイーダ・サッチャーが声を激しく荒らげながらそう言って異議を申し立てれば、彼女の雇い主であるヴィロ王子はそんなアイーダ・サッチャーを、冷静にたしなめざるを得ない。

「口を慎みたまえ、アイーダ。この私がどこの誰を雇い入れるかは、私自身が私の裁量でもって決定すべき事だ。一介の警護人ボディガードに過ぎないキミが、口を差し挟むべき事ではない。身の程をわきまえたまえ」

「くっ……」

 彼女の意見具申を歯牙にも掛けないヴィロ王子の言い分に、よりにもよって「身の程をわきまえたまえ」とまで言われてしまったアイーダ・サッチャーは苦虫を嚙み潰したかのような表情と口調でもってそう言って、ぎりぎりと口惜しそうに歯噛みするばかりであった。そしてそんな彼女には眼もくれぬまま、ヴィロ王子は改めて始末屋に、彼の依頼である身辺警護の是非を問う。

「申し訳ありません、どうにも思わぬ邪魔が入ってしまいました。それで始末屋、如何でしょうか? 私の依頼を、受諾していただけますかな?」

「ああ、いいだろう。そろそろ休暇を切り上げて職務に復帰しようと思っていたところだし、貴様の新たな依頼を断るべき正当な理由も無い。受諾しよう」

 そう言った始末屋は、彼女の身を包むトレンチコートの内ポケットから自身のスマートフォンを取り出した。そしてそのスマートフォンの液晶画面に触れて、掛け慣れた電話番号をタップする。

「もしもし、貴様だな? そうだ、あたしだ。始末屋だ。これより、新規の依頼人であるヴィロ・マルプレネーコより受諾した依頼に取り掛かる。至急、そちらで調整コーディネートしてくれ」

かしこまりました、始末屋様!」

 するとスマートフォンの受話口越しに、妙にテンションの高い声と口調でもって何者かがそう言うと、ラウンジチェアから身を乗り出した始末屋が彼女のスマートフォンをヴィロ王子に手渡した。

「もしもし?」

「初めまして、ヴィロ・マルプレネーコ様ですね? わたくしは『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターを名乗る者でございますので、以後、お見知りおきを! さて、この度は『大隊ザ・バタリオン』の執行エグゼキュートプログラムをご利用いただき、誠にありがとうございます! それではヴィロ・マルプレネーコ様、あなた様の依頼内容をご教示ください!」

 調整人コーディネーターを名乗る男がそう言えば、壮年のヴィロ王子は彼に依頼内容を伝える。

「ホテルハイエロファント・モナコに於ける今年度のビルダーバーグ会議の開催期間中とその前後のおよそ一週間、始末屋に、この私の身辺警護を依頼したい」

かしこまりました! それでは今年度のビルダーバーグ会議の開催期間中とその前後のおよそ一週間、依頼人であるあなた様の身辺を警護すると言う依頼内容で、相違ありませんね? それで、ヴィロ・マルプレネーコ様? 依頼達成の際の報酬は、如何ほどで?」

 始末屋のスマートフォンの受話口越しに、依頼内容の最終確認の意味も込めながら、調整人コーディネーターの男が重ねて尋ねた。

「依頼の完遂後に成功報酬として、スイスのピクテ銀行の私の個人口座から、米ドル換算で五万ドルを引き出してもらって構わない。およそ一週間の仕事の報酬としては、文句の無い額だろう?」

 そう言ったヴィロ王子の言葉が、彼の依頼が効力を発揮する合図となる。

かしこまりました、ヴィロ・マルプレネーコ様! さあさあ、始末屋様! 今この時点をもって、正式に依頼が発効されました! 我々『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーター一同、良き結果を期待しております!」

 調整人コーディネーターの男がそう言い終えるのとほぼ同時に、壮年のヴィロ王子は液晶画面をタップして通話を終えると、手にしたスマートフォンをその所有者である始末屋へと返却した。そして返却されたスマートフォンをトレンチコートの内ポケットに仕舞い直す始末屋を見据えながら、ラウンジチェアに腰を下ろすヴィロ王子は、彼の背後に立つアイーダ・サッチャーに命じる。

「アイーダよ、私は始末屋と暫しここで歓談してから帰還するので、先に私の客室に戻っていてくれ。そして客室の安全を確保し終えたら、私が帰還するまでその場に留まるように。分かったな?」

「……かしこまりました」

 ヴィロ王子に厳命されてしまったアイーダ・サッチャーは歯噛みを止めぬまま、やはり苦虫を嚙み潰したかのような表情と口調でもってそう言うと、宿泊客専用の高級ラウンジからエレベーターホールの方角へと足を向けた。そして廊下の向こうへと姿を消しつつある彼女の背中を見送ったヴィロ王子は、ローテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろす始末屋に、改めて問い掛ける。

「さて、と。それでは始末屋よ、先程の『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターの言葉を借りるとするならば、現時点をもって私とキミとの間に正式に依頼が発効されたと言う事になる。だからこそ、これを機に、果たしてアイーダとキミとの間にどのような過去のいざこざが勃発し得たのかと言った点を、改めて確認しておきたい。キミら二人の雇い主として、私はそれを知っておくべき義務と権利を有し、また同時に責任を負っているものと自認しているのだが? 違うかね?」

 どうにも回りくどい口振りのヴィロ王子を前にしながらも、始末屋は彼の言い分に、特にこれと言って異論を差し挟みはしない。

「ヴィロ王子、貴様は、アルファジリ共和国と言う国名に聞き覚えはあるか?」

 始末屋がそう言って問い掛ければ、国際情勢に精通したヴィロ王子は即座にこれに返答する。

「私の記憶が確かならば、アルファジリ共和国は、東アフリカに位置する小国の一つですな。数年前に大規模な内戦が勃発し、独裁主義的に実権を掌握していた大統領が反政府軍の手によって処刑された後に、今では国連の援助の下に民主主義政権が誕生したものと伝え聞いています」

「ああ、貴様のその認識で、事実とほぼ相違無い。そしてその内戦に於いて、あたしは民主化を求める反政府軍に突撃部隊の尖兵の一人として雇われ、片や独裁者であったファハリ大統領を護衛していたのが『鉄の淑女』として知られるアイーダ・サッチャーと、その夫である『鉄の紳士』のサルダールだ」

「ほう? それは初耳ですな」

 すると壮年のヴィロ王子はそう言いながら、腰を下ろしたラウンジチェアの上で身を乗り出し、過去を回想する始末屋の言葉に殊更興味をそそられている様子であった。

「つまり始末屋、そのアルファジリ共和国の内戦の渦中に於いて、敵同士となったキミとアイーダは刃を交えたと言う訳ですかな?」

 ヴィロ王子がラウンジチェアの上で身を乗り出しながらそう言って問い掛ければ、始末屋はこれに返答する。

「いや、必ずしもそうではない。事の経緯の詳細は敢えて省略するが、あたしを露払いとする反政府軍の突撃部隊が大統領府に雪崩れ込んだ際に、ファハリ大統領の息子の護衛の任に就いていたアイーダ・サッチャーは隣国へと亡命するための機上の人であった。だからあたしが刃を交えたのは大統領本人を護衛していた彼女の夫のサルダールであって、あたしとアイーダとは、これまで一度も直接刃を交えた事は無い」

「そして、キミは、そのアイーダの夫のサルダールを……」

「ああ、殺した。完膚無きまでに殺し尽くした。あたしがこの手で握った手斧の切っ先でもって素っ首をね飛ばし、残った死体は反政府軍の兵士が焼いて、野良犬に食わせた筈だ」

「……野良犬に?」

「ああ、野良犬に」

 始末屋がそう言って追認すれば、ヴィロ王子は言葉を失い、文字通りの意味でもって絶句した。

「そう言った因縁の数々が積み重なった結果として、あのアイーダ・サッチャーと言う名の女は、彼女の夫を殺したあたしの事を蛇蝎の如く忌み嫌っているらしい。まったく、馬鹿な女だ」

 そう言ってアイーダ・サッチャーを嘲る始末屋の姿に、やはりヴィロ王子は絶句しながらも、敢えて彼女を問い質さざるを得ない。

「それにしても、こうしてキミらの内幕に関する暴露話や体験談を耳にする限りでは、やはり『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターと言う人種は少しばかり非効率に過ぎやしないか? 同じ内戦の敵味方双方に、同じ組織に所属する筈の人間を派遣して互いに殺し合わせるだなんて、常識的に考えれば貴重な人的資源の損耗以外の何ものでもないだろう?」

 ヴィロ王子が至極真っ当な正論でもってそう言って疑義を呈すると、始末屋はこれに反論する。

「何? 非効率的に過ぎるだと? ヴィロ王子よ、さっきから貴様は、一体何を言っている? あたしやアイーダ・サッチャー、それに死んだサルダールの様な破壊と殺害を生業とする裏稼業のならず者達に世間一般の効率や常識を求める事こそが、むしろ理に敵わぬ話ではあるまいか?」

「……成程、成程、成程。確かにそう言われてみれば、かつてヨーロッパ諸国の王侯貴族に傭兵を貸し出す事によって巨額の外貨を得ていたスイス連邦も、同じ戦争の敵味方双方に出兵させていたと聞き及んでいます。そう言った過去の事実から鑑みれば、キミら『大隊ザ・バタリオン』の経営方針もまた、決して前例が無いと言う訳ではないのかもしれませんね」

 するとヴィロ王子は近世ヨーロッパに於けるスイス傭兵の実例を引き合いに出しながらそう言って、裏稼業のならず者達の理不尽と屁理屈がまかり通る始末屋の言い分に耳を傾けつつも、幾度も首を縦に振って得心してみせた。そして一頻り得心し終えた彼は不意に居住まいを正し、どうやら『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューター達を取り巻く環境に何の疑問も抱いていないらしい始末屋に、感謝の言葉を述べる。

「どうもありがとう、始末屋。滅多な事では知り得ない、実に興味深いお話をお伺い出来た事を、心から感謝しているよ。これでまた一つ、中央ヨーロッパの社交界随一の博識として知られるこの私の知的好奇心と探求心も、より一層の充足感をもって満たされたと言うものだ」

 軽い会釈と共にそう言って感謝の言葉を述べたヴィロ王子は、夜景を臨む窓辺の特等席のラウンジチェアからおもむろに腰を上げ、ラウンジと廊下とを繋ぐ出入り口の方角へと足を向けた。

「さて、それではすっかり夜も更けた事だし、私はそろそろ自分の客室に戻って明日に備えて休ませてもらう事としよう。始末屋、今夜からキミもまた私の行く先々に絶えず同行し、この私の身辺警護の任に就いてもらおうか」

「ああ、分かった。それではさっそく、貴様の客室とやらに、あたしも同行する事としよう」

 始末屋もまたそう言ってラウンジチェアから腰を上げると、宿泊客専用の高級ラウンジから退出したヴィロ王子の背中を追いながら、ホテルハイエロファント・モナコの最上階の廊下を歩き始める。

「そうだ始末屋、一つだけ警告させてもらおう」

「ん? 何だ?」

「少なくともこの私の視界の内側に於いて、たとえ如何なる理由があろうとも、アイーダとは決して殺し合わぬ事だ。キミ達『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターと言う人種が絶えず血に飢えている裏稼業のならず者である事こそ理解し得たものの、同じ主人に仕えている筈の同じ穴のムジナ同士が醜い内ゲバを繰り広げるのばかりは、見るに堪えないのでね」

 ホテルハイエロファント・モナコの最上階の廊下を渡り切り、エレベーターホールでエレベーターの到着を待ちながら、ヴィロ王子がそう言って始末屋に警告した。

「分かった。善処しよう」

 すると始末屋は間髪を容れずにそう言って、あっさりとヴィロ王子の警告に従う意思を示しはしたものの、彼女が本当にアイーダ・サッチャーと殺し合わないか否かが担保されたとは言い難い。そしてエレベーターホールで待ち続けること数分後、ようやく到着したエレベーターに乗り込んだ彼女ら二人は最上階のすぐ下の階へと移動すると、ヴィロ王子の客室の方角へと足を向ける。

「ヴィロ王子! それに……始末屋!」

 やがて始末屋を背後に従えたヴィロ王子が彼が宿泊すべきホテルハイエロファント・モナコで最もグレードが高い客室、つまりプレジデンシャルスイートルームと廊下とを繋ぐ重く頑丈な扉の前へと辿り着くと、そこで待機していたアイーダ・サッチャーがそう言って二人を出迎えた。

「やあ、アイーダ。随分と待たせてしまったな。それで、私の客室の安全は確保出来ているのだろうな?」

 ヴィロ王子がそう言って問い掛ければ、黒い革のライダースーツに身を包むアイーダ・サッチャーは、彼女の雇い主の背後に立つ始末屋を殺意に満ち満ちた眼差しでもって忌々しげに睨み据えながら返答する。

「ご安心ください、ヴィロ王子。室内に致死性の爆発物や毒物が仕掛けられていない事を何度も繰り返し点検し、既に客室の安全は確保出来ております。どうぞごゆっくり、朝までぐっすりとお休みください」

「そうか、ありがとう。それでは私は一足先に就寝させてもらうが、アイーダも始末屋も私の眼の届かない場所だからと言って、決して私に仕える者同士で一戦交えるような不測の事態を勃発させてはならない事を肝に銘じておくように。いいね?」

「……かしこまりました、ヴィロ王子」

「分かった。善処しよう」

 アイーダ・サッチャーと始末屋がそう言ってヴィロ王子の忠告に同意してみれば、ひとまず納得したらしい彼は手ずから扉を開け、広壮にして荘厳な造りの客室の内部へと姿を消した。そしてホテルハイエロファント・モナコの廊下に取り残された彼女ら二人は気を取り直し、左右から挟み込むような格好でもって重く頑丈な扉の脇に立ちはだかると、雇い主が眠るプレジデンシャルスイートルームを警護する。

「……始末屋、いつか必ずあんたを殺して、あたしの可愛いサルダールの仇を討ってやるからな!」

 やがて身辺警護と言う職務を全うすべくプレジデンシャルスイートルームを警護しつつも、やはり苦虫を嚙み潰したかのような忌々しげな表情と口調でもって、アイーダ・サッチャーがそう言って吐き捨てた。

「ああ、やれるものならやってみろ。あたしは逃げも隠れもせず、いつでも正々堂々、真正面から受けて立ってやる」

 すると始末屋もまたそう言ってアイーダ・サッチャーを挑発し、今この場で決戦の火蓋を切るような愚かな真似こそせぬものの、互いの息の根を止める機会をうかがって彼女ら二人は熱い火花を散らし合う。

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