第一幕


 第一幕



 フランス共和国のアルプ=マリティーム県と地中海に国境を接し、バチカン市国に次いで世界で二番目に国土が小さい主権都市国家として知られる、モナコ公国。そんな西ヨーロッパの小国唯一の公共海水浴場であるプラージュ・デュ・ラルヴォットは、今朝もまた海水浴や日光浴に勤しむ、世界各国からこの地を訪れた裕福な観光客や地元民で賑わっていた。

「ねえママン、もう泳いでもいいでしょ?」

 そんなモナコ公国唯一の公共海水浴場の一角で、水着姿の幼い少年がフランス語でもってそう言って問い掛ければ、問い掛けられた彼の母親ママンは砂浜にビーチパラソルとデッキチェアを設営しながら返答する。

「ジャンったら、もうちょっとだけ待てないの? 言っておきますけど、あたしが水着に着替え終えるまで、一人で海に入っては駄目ですからね?」

 日光浴には持って来いの程良く鋭い陽射しが燦々さんさんと降り注ぐ空の下、ジャンと呼ばれた少年の母親がそう言って釘を刺せば、一刻も早く海で泳ぎたくて仕方が無い歳頃のジャンはじたばたと地団太を踏んだ。そして母親の準備が整うのを焦れったそうに待ちながら、腕白盛りでもある彼が沖の方角を見遣ると、何やらその場の雰囲気に相応しくない存在が眼に留まる。

「ねえママン、向こうにコートを着たまま泳いでる人が居るよ?」

「まったくもう、ジャンったら、なんて馬鹿げた事を言ってるの? ここはモナコなんですから、こんな暑い日にコートを着たまま泳ぐような頭のおかしい人なんて、居る訳ないじゃない!」

 ジャンの母親は呆れ返りながらそう言うと、ビーチパラソルとデッキチェアを設営する手を止めて顔を上げ、幼い息子が指差す地中海の沖の方角へと眼を向けた。

「あら、まあ!」

 するとそこには彼女の一人息子であるジャンの言葉通り、まるで海からおかを目指す大怪獣ゴジラさながらに波打ち際を移動する黒い三つ揃えのスーツと駱駝色のトレンチコートに身を包んだ褐色の肌の大女の姿が見て取れたのだから、どうにも驚かざるを得ない。そしてその大女は頭の天辺から足の爪先までずぶ濡れになりつつも、海水をざぶざぶと掻き分けながらこちらへと歩み寄り、やがて砂浜に上陸した後もモナコ公国の市街地の方角目指して歩き続ける。

「ねえねえ、そこのお姉さん? どうしてお姉さんは、そんなコートを着たまま泳いでたの?」

 ジュラルミン製のアタッシュケースを抱えながら砂浜を歩く褐色の肌の大女、つまり地中海沖で爆破されたコンテナ船からここまで泳いで来た始末屋に、水着姿のジャンが物怖じする事無く問い掛けた。すると市街地の方角へと足を向けていた始末屋は一旦立ち止まり、見ず知らずの少年に過ぎないジャンの疑問に律義に返答する。

「いいか、坊主。このスーツとトレンチコートは言うなれば、あたしにとっての正装であると同時に、仕事中に着るべき作業着でもある。そしてあたしの仕事は、幾つかの例外こそあるものの、主に破壊と殺害だ。だからこそあたしの手によって破壊され、死に行く者達に敬意を払うためにも、あたしは引退するその日までこのスーツとトレンチコートを着続ける事を己に義務付けていると言う訳だ。分かったか?」

「うん、分かった!」

「そうか、なかなか利口な坊主だな。あまり深い所では泳がずに、高波にさらわれて溺れないよう心掛けろ。いいな?」

 始末屋はそう言って幼いジャンの小さな頭をぽんぽんと優しく叩きながら彼の利発さを称賛し、海で泳ぐ際の注意事項を伝えてから再び市街地の方角へと足を向け、モナコ公国唯一の公共海水浴場であるプラージュ・デュ・ラルヴォットから立ち去った。そして如何にも世界有数のセレブ達の保養地らしく、庶民の生涯年収が簡単に吹っ飛んでしまうような金額の高級車が行き交う街路沿を人眼をはばかる事無く歩き続けると、やがて一棟の高層ビルディングの敷地内へと足を踏み入れる。

「お待ちしておりました、マダム」

 始末屋が足を踏み入れたモナコ公国の市街地の中心部に建つ高層ビルディング、つまりホテルハイエロファント・モナコのフロントを任されたホテルマンはうやうやしく頭を下げながらそう言って、海水でずぶ濡れになったままの彼女を嫌な顔一つせずに出迎えた。ちなみに始末屋は未だ独身だが、未婚既婚を問わず全ての成人女性を『マダム』と呼称するのが、ここ最近のフランス語圏での新たな風潮である。

「部屋は用意出来ているな?」

「はい、マダム。お荷物はお一つだけでしょうか?」

 フロント係のホテルマンはそう言いながら、彼女が予約した客室の準備が整っているかどうかを尋ねた始末屋が手にするジュラルミン製のアタッシュケースに、ちらりと眼を向けた。

「ああ、これ一つだ。自分で運ぶから、ポーターは必要無い」

かしこまりました、マダム。それではさっそくですが、お部屋までご案内いたしますので、こちらにサインをお願いいたします」

 やはりうやうやしく、失礼の無いよう細心の注意を払いながらそう言ったホテルマンが差し出した宿泊者名簿にサインすれば、ロビーで待機していた若いベルボーイの一人がずぶ濡れの始末屋を客室まで案内する。

「どうぞごゆっくり、心行くまでおくつろぎくださいませ、マダム」

 エレベーターに乗って上階へと移動し、始末屋を客室まで案内したベルボーイは頭を下げながらそう言うと、客室から出て行こうと踵を返した。しかしながら始末屋は、手にしたアタッシュケースを客室の中央に設置されたローテーブルの天板の上に置いてから、今にも退室しようとするベルボーイを呼び止める。

「おい貴様、ちょっと待て」

「はい、何かご用でしょうか、マダム?」

「ランドリーサービスを頼みたい。これを持って行け」

 そう言った始末屋は何の前触れも無くおもむろに、若いベルボーイの眼の前で、海水で濡れた衣服を堂々と脱ぎ始めた。そして駱駝色のトレンチコートに続いて黒い三つ揃えのスーツと真っ赤なネクタイとワイシャツだけでなく、その下に着込んでいたブラジャーやショーツと言った下着類まで脱ぎ捨てて一糸纏わぬ全裸になると、それらをベルボーイに手渡してから命令する。

「これらを大至急洗濯し、しっかり乾かしてアイロンを掛けてから、今日の正午までにここに届けろ。急げ。ぐずぐずしていると、その尻を蹴っ飛ばすぞ」

 濃褐色の乳首も陰毛も女性器も露になった全裸の始末屋は、一切恥じ入る事も無いままそう言って、若いベルボーイに急いで衣服を洗濯するよう固く命じた。そして彼女に命じられたベルボーイもまたプロフェッショナルのホテルマンらしく、女性の裸にも無茶な命令にも、一切動じない。

かしこまりました、マダム。ご希望通り、必ず正午までにこちらにお届けいたします」

 ずぶ濡れの衣服を受け取ったベルボーイがそう言って会釈と共に退室すると、全裸の始末屋はバスルームへと移動し、熱くほとばしるシャワーを浴びて海水でべたべたになった身体の表面の塩と汚れを洗い流し始めた。

「ふう」

 そしてシャワーを浴び終えて一息吐き、ふかふかのバスタオルでもって濡れた身体を丹念に拭いてから純白のバスローブを身に纏うと、バスルームを後にした始末屋は内線電話の受話器を手に取る。

「もしもし、フロントか? ルームサービスを頼みたい」

 どうやらコンテナ船が沈没した地中海沖からここモナコ公国まで夜を徹して泳ぎ続けた始末屋は、猛烈に腹が減っているらしい。

「ミディアムレアに焼いたリブアイステーキを4ポンドと、オニオングラタンスープ。それにサラダ・リヨネーズとアメリカン・クラブハウス・サンドイッチを、それぞれ四皿ずつ持って来い。ああ、オレンジジュースも忘れるな。急げ。ぐずぐずしていると、その尻を蹴っ飛ばすぞ」

 サイズがまるで合っていないバスローブ姿の始末屋はそう言うと、彼女の注文に耳を傾けている筈のホテルマンの返答も待たずに、一方的に受話器を置いて通話を終えた。そして革張りのソファに腰を下ろしたまま暫し待ち続ければ、やがて客室と廊下とを隔てる重く頑丈な扉がこんこんこんと三回ノックされ、先程のベルボーイとはまた別の若いルームサービス担当のホテルマンがサービスワゴンを押しながら姿を現す。

「遅かったな。待ちくたびれたぞ」

「お待たせして申し訳ございません、マダム。今すぐご用意いたしますので、もう少々お待ちください」

 そう言いながら入室したルームサービス担当のホテルマンは、サービスワゴンの上に乗せられていた料理の皿とグラスを客室のローテーブルの上に丁寧に並べると、深々とした会釈と共に「どうぞ、ごゆっくりお食事をお楽しみください、マダム」と言ってから退室した。そこでさっそく、革張りのソファに腰を下ろしたバスローブ姿の始末屋は銀食器のナイフとフォークを手に取り、彼女が注文した料理の数々に手を付け始める。

「いただきます」

 礼儀正しく頭を下げながらそう言った始末屋は、如何にも高価そうな白磁の皿の上に盛り付けられたリブアイステーキをナイフの刃でもって切り分けると、真っ赤な血と脂、それに赤ワインとバルサミコ酢のソースが滴るそれを口に運んでむしゃむしゃと咀嚼し始めた。

「……」

 暫し無言のまま、始末屋は4ポンドのリブアイステーキとオニオングラタンスープ、それに四皿ずつのサラダ・リヨネーズとアメリカン・クラブハウス・サンドイッチを無心で胃の腑の中へと流し込み続ける。さすがは世界各地に高級ホテルを展開して止まないハイエロファントグループが提供する料理の数々だけあって、ステーキもスープもサラダもサンドイッチも、どれも驚くほど美味い。

「ごちそうさま」

 やがてものの三十分と経たぬ内に全ての皿を空にし終えた始末屋は、最後にグラス一杯のオレンジジュースをごくごくと飲み干してからそう言って、純白の布ナプキンで口元を拭いながら革張りのソファから腰を上げた。そして窓辺へと移動したバスローブ姿の彼女が眼下に広がるモナコ公国の風光明媚な市街地を、まるで睥睨へいげいするかのような格好でもって眺め渡せば、再びこんこんこんと客室と廊下とを隔てる扉が三回ノックされる。

「入れ」

 窓辺に立ったままそう言った始末屋の言葉を合図にしつつ扉が押し開けられると、そこには先程と同じ若いルームサービス担当のホテルマンが、ランドリーサービスを依頼していた彼女の衣服を手にしながら立っていた。

「お預かりしたお召し物のご用意が整いました、マダム」

「よし、命令通り正午までに間に合ったな、褒めてやろう。良くやった」

「ありがとうございます、マダム」

 そう言って感謝の言葉を述べたホテルマンが預かっていた衣服をローテーブルの天板の上に並べ、やはり深々とした会釈と共に退室すれば、バスローブを脱いで全裸になった始末屋は洗濯とアイロン掛けを終えたそれらに袖を通し始める。

「ふむ、いい仕事だ」

 やがて彼女のトレードマークである黒光りする革手袋と革靴を履き、真っ赤なネクタイを締め、黒い三つ揃えのスーツの上から駱駝色のトレンチコートを羽織った始末屋はそう言ってランドリーサービスの出来栄えを褒め称えた。彼女にとっての正装であると同時に作業着でもあるそれらの衣服に身を包めば、如何に百戦錬磨の始末屋と言えども、いきおい身が引き締まる思いにならざるを得ない。

「午前十一時四十五分か……ジャストタイミングとは、まさにこの事だな」

 防水仕様のスマートフォンでもって現在の時刻を確認しつつそう言った始末屋は、まさに『恵体』と言う単語を絵に描いたようなその身を包む駱駝色のトレンチコートの襟と姿勢を正し、ジュラルミン製のアタッシュケースを手にしながら客室を後にした。そして廊下を渡ってエレベーターに乗り込み、一階へと移動すると、ホテルハイエロファント・モナコの広壮にして荘厳な造りのロビーでもって待ち人の到着をジッと待つ。

「……」

 トレンチコート姿の始末屋がロビーの柱を背にしながら無言のまま待ち続ければ、やがて正午を過ぎた頃になってからドアマンがエントランスの扉をそっと静かに押し開け、一人の身形みなりの良い肥満体の中年男性が痩身の若い男性と共に姿を現した。そしてそれら二人の男性達はきょろきょろとホテルのロビー内をつぶさに見渡し、柱を背にする始末屋を見咎めると、彼女の元へと足早に歩み寄る。

「おい、そこのお前! お前が始末屋か?」

 すると始末屋の元へと歩み寄った二人の内の肥満体の中年男性の方が開口一番そう言って、如何にもぽっと出の成金らしく、見るからに不躾ぶしつけな表情と口調でもって彼女の素性を問い質した。しかしながら問い質された始末屋は、中年男性の疑問にすぐには返答せずに、彼女が背にしたホテルのロビーの柱に掛けてある時計を指差しながら口を開く。

「遅いぞ、十五分遅刻だ。貴様も真っ当な大人の社会人を名乗るなら、約束の時間に遅れるな」

 始末屋はそう言うが、肥満体の中年男性に反省の色は無い。

「は? おい、何なんだ、さっきから偉そうに! そもそも『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターだか何だか知らないが、お前みたいな身体がでかいだけの独活ウドの大木、それも若い女ごときがこの私に説教するなど百年早い! 身の程をわきまえろ、身の程を!」

「……どうやら貴様、死にたいらしいな」

 侮辱されたと判断したらしい始末屋はそう言いながら、彼女の必殺の得物である手斧を取り出さんと、トレンチコートの懐にゆっくりと手を差し入れた。しかしながら始末屋が手斧を手にするより早く、肥満体の中年男性の背後に立っていた痩身の若い男性が一歩前へと進み出て、慌てて仲裁に入る。

「まあまあ、お二人とも、どうかこの私に免じて落ち着いてくださいよ! 会長も始末屋さんも、今日はここまで喧嘩しに来た訳じゃないんですからね? そうでしょう? 違いますか?」

 痩身の若い男性が必死でなだめるような表情と口調でもってそう言えば、彼が会長と呼んだ肥満体の中年男性は口を閉じ、始末屋もまたトレンチコートの懐に差し入れた手を徒手空拳のまま引き抜いた。

「さあさあ、それではお二人とも落ち着きを取り戻されたところで、そこに座ってビジネスの話を始めようじゃありませんか! ビジネスの話を! ね?」

 そう言ってなだめる痩身の若い男性に促されながら、互いに矛を収めた始末屋と肥満体の中年男性は、ロビーの中央の噴水を囲むように設置された革張りのソファに腰を下ろした。そしてローテーブルを挟んで向かい合うと、彼ら二人はそれぞれの素性を明かし始める。

「私の名は、アルフォンス・ヴォロディーヌ。こう見えてもリヨンの地で、それなりの規模の不動産投資と株式投資に関する会社を経営している。そしてここに居るこの痩せた男は、私の秘書のサン=ジョルジュだ」

「どうも始末屋さん、初めまして。私はヴォロディーヌ会長の秘書を務めさせていただいております、アドリアン・サン=ジョルジュと言う者です」

 モナコ公国から程近いリヨン市で会社を経営していると言う肥満体の中年男性と、その秘書である痩身の若い男性がそう言って自己紹介を終えれば、当然の事ながら次は始末屋が名乗らざるを得ない。

「あたしの名は始末屋。それ以上でも、それ以下でもない。そしてこのアタッシュケースの中身こそ『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターを経由して貴様があたしに依頼した、貴様の祖父であるリシャール・ヴォロディーヌの遺言状だ」

 始末屋はそう言うと、革張りのソファに腰を下ろす彼女と肥満体の中年男性、つまりアルフォンス・ヴォロディーヌとの間に横たわるローテーブルの天板の上にジュラルミン製のアタッシュケースを置いた。

「おお、そうか、この中に例の遺言状が……」

 するとアルフォンス・ヴォロディーヌは恐る恐る手を伸ばし、趣味の悪い二十四金の指輪を幾つも嵌めた指でもってアタッシュケースにそっと触れると、感慨深げにそう言って言葉を失う。

「……それでは始末屋、さっそく中身をあらためさせてもらうぞ?」

「好きにしろ」

 やがて始末屋がそう言えば、アルフォンス・ヴォロディーヌはそのぶくぶくに太った醜い容姿にそぐわぬ厳かな手つきでもって、アタッシュケースをおもむろに開け放った。するとそこには高級ホテルのエンブレムが透かし彫りされた数枚の便箋、始末屋の言によればリシャール・ヴォロディーヌと言う名の男の遺言状が納められており、その孫であるアルフォンス・ヴォロディーヌはそこに書かれている文言を何度も何度も読み返す。

「間違い無い、これこそバリ島で急死した祖父の遺言状だ! おい、始末屋とやら、よくぞこれをここまで運んで来てくれたぞ!」

 アルフォンス・ヴォロディーヌは祖父の遺言状を手にしたままそう言って、始末屋に感謝の言葉を述べた。遺言状の詳細な内容までは、アタッシュケースをここまで運んで来た始末屋もまた与り知らぬものの、どうやらそれはアルフォンス・ヴォロディーヌの意に沿うものだったらしい。

「やったぞ! これであの眼障りなじじいもくたばってくれたし、今日から奴の遺産は全部、この俺のものだ! 見ろ、サン=ジョルジュ! あのじじいが今まで独占していた株券も土地も、内孫であるこの俺に相続すると書いてあるし、これで会社の実権だって俺のものだぞ!」

「会長、おめでとうございます! これで今度の株主総会からは、会長を罷免しようとするような不埒者は現れなくなりますよ!」

 喜びが隠せない様子のアルフォンス・ヴォロディーヌに、彼の秘書であるアドリアン・サン=ジョルジュはそう言って、周囲の宿泊客達の迷惑にならない程度の拍手と共に賛辞を贈った。

「それで、貴様らが一体何を喜んでいるのかは知らんが、現時点をもって依頼は完遂されたものと判断しても構わないんだな?」

 始末屋がそう言って問い掛ければ、亡き祖父の遺言状を手にしたアルフォンス・ヴォロディーヌは有頂天になりながら返答する。

「ああ、構わんぞ! 俺からお前への依頼は、確かに完遂されたのだからな!」

 やはり有頂天になりながらアルフォンス・ヴォロディーヌがそう言った次の瞬間、始末屋が身に纏うトレンチコートの内ポケットに納められていたスマートフォンが、不意に軽快なリズムでもって着信音を奏で始めた。そこで液晶画面を確認してみれば、非通知設定の番号からの着信である。

「誰だ?」

 ホテルハイエロファント・モナコのロビーの一角の革張りのソファに腰を下ろした始末屋は、トレンチコートの内ポケットから取り出したスマートフォンを耳に当てながら応答ボタンをタップすると、開口一番ぶっきらぼうな口調でもってそう言った。すると聞き慣れた声が受話口越しに耳に届き、彼女を労う。

「おめでとうございます、始末屋様! 依頼達成でございます!」

「ああ、貴様か」

 果たしてスマートフォンの向こうの通話相手は、始末屋の様な裏稼業のならず者達を統率する非合法組織『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターの男であった。

「今回の依頼の報酬をあなた様の口座に振り込んでおきましたので、どうぞ、ご確認ください!」

 妙にテンションの高い声色と口調でもってそう言った調整人コーディネーターの男の言葉に従い、始末屋が彼女の銀行口座の預金残高をオンラインで確認すると、確かに約束されていた額の報酬が振り込まれている。

「確認した」

 やはりぶっきらぼうな口調でもって始末屋がそう言えば、スマートフォンの向こうの調整人コーディネーターの男が今すぐ彼女に伝えるべき要件は、今日のところはこれで全てらしい。

「それでは始末屋様、我ら『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーター一同、またのご利用を心よりお待ちしております!」

 最後にそう言い終えた調整人コーディネーターの男は一方的に電話を切り、それ以上の応答は無く、始末屋は通話を終えたスマートフォンをトレンチコートの内ポケットに仕舞い直した。

「誰からの電話だ?」

 アルフォンス・ヴォロディーヌがそう言って問い掛ければ、始末屋は駱駝色のトレンチコートの襟を正しながら返答する。

「あたしが受諾した依頼を調整コーディネートする、『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターからだ。依頼を完遂したため、報酬が振り込まれた旨を報告しに電話を掛けて来たらしい」

「そうか、成程。だとすると、これでもう俺とお前とのビジネスは、全て完了したと言う事になるな!」

「ああ、そう言う事だ」

「短い間だったが世話になったな、始末屋とやら! 改めて礼を言うぞ!」

「別に、礼には及ばん。一度引き受けた依頼は、何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない」

 そう言った始末屋の返答を余所耳に聞きながら、亡き祖父の遺言状を手に入れて上機嫌のアルフォンス・ヴォロディーヌは、陽気な鼻歌交じりにその遺言状が納められたアタッシュケースの蓋を閉じた。するとそんなアルフォンス・ヴォロディーヌに、彼の秘書である筈のアドリアン・サン=ジョルジュが不意に背後から語り掛ける。

「それでは会長、一仕事終えたばかりですが、さっそく死んでくださいませ!」

「は?」

 肥満体のアルフォンス・ヴォロディーヌがそう言って驚く間も無く、若く痩身のアドリアン・サン=ジョルジュは書類鞄ブリーフケースの中からワルサー社製の小型拳銃を取り出すと、彼の雇い主の頭部に照準を合わせながら引き金を引き絞った。ぱんと言う乾いた銃声と共に拳銃弾が射出され、アルフォンス・ヴォロディーヌの後頭部から眉間に掛けて直径9mmの穴が穿たれたかと思えば、飛び散った真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿がローテーブルの天板の上に置かれていたアタッシュケースをしとどに濡らす。

「おいサン=ジョルジュ、貴様、銃を撃つ時はもう少し周囲に気を配れ。こっちまで汚れたぞ」

 すると革張りのソファに腰を下ろした始末屋はそう言って、つい今しがたまで言葉を交わし合っていた男が眼の前で射殺されたと言うのに、一切動じる事無くトレンチコートに飛び散ったアルフォンス・ヴォロディーヌの血と脳漿を拭い取った。

「これは始末屋さん、どうも、誠に申し訳ありません。お召し物を汚してしまい、心から謝罪させていただきます。ところで、もしかしてあなたも、秘書である筈の私が会長を殺した事を咎めますか?」

「いや、別に。あたしがその男から請け負った依頼は、既にとどこおり無く完遂された。ならば依頼の完遂後にその男がどこの誰に殺されたところで、そんなものはあたしが知った事ではない」

「それを聞いて、安心いたしました。では、私はこれで」

 微塵も悪びれる事無くそう言って、手にしたワルサー社製の小型拳銃を書類鞄ブリーフケースの中へと仕舞い直した痩身のアドリアン・サン=ジョルジュに、始末屋は興味本位でもって問い掛ける。

「おい貴様、一つ聞いてもいいか?」

「はい、何でしょう?」

「貴様は何故、その雇い主である筈の男を撃ち殺した? 勿論これは貴様を咎めている訳ではなく、単にあたしの知的好奇心を満たすための個人的な質問なのだから、答えたくなければ答えなくても構わん」

 そう言って問い掛ける始末屋に、やはりアドリアン・サン=ジョルジュは微塵も悪びれる事無く、むしろ朗らかに微笑みながら返答する。

「具体的な名前こそ申し上げられませんが、ここで死んでいる今の会長とはまた別に、私には忠誠を誓った真の雇い主が存在します。そしてその真の雇い主は亡くなった先代の会長の血族の一人として、今の会長が全ての遺産を相続する事を、決して快く思ってはいないと言う訳ですよ。ですからこの遺言状は、私が回収させていただきます。よろしいですね?」

「ああ、構わん。好きにしろ」

 始末屋がそう言えば、若く痩身のアドリアン・サン=ジョルジュは「それでは始末屋さん、今度こそ本当にお別れです」と言ってから血と脳漿まみれのアタッシュケースを手に取り、そのままくるりと踵を返してホテルハイエロファント・モナコのロビーから足早に立ち去った。彼が姿を消したロビーの一角に、頭部を撃ち抜かれたアルフォンス・ヴォロディーヌの物言わぬ死体と、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋だけが取り残される。

「こちらのご遺体は如何なさいましょうか、マダム?」

 すると事の一部始終をそれとなくうかがっていたホテルのコンシェルジュの男性がこちらへと歩み寄り、始末屋に伺いを立てるような格好でもってそう言いながら、分厚い絨毯が敷かれた床に転がるアルフォンス・ヴォロディーヌの死体の処遇について問い掛けた。

「好きにしろ。既に依頼が完遂された以上、こいつの死体がどこでどうなろうと、そんな事はもうあたしには関係の無い事だ」

かしこまりました、マダム。それでは当ホテルの規定に従い、適切に処理させていただきますので、ご容赦ください」

 コンシェルジュの男性がうやうやしい会釈と共にそう言えば、彼の背後に控えていた数名のホテルマン達がアルフォンス・ヴォロディーヌの死体を手際良く死体袋に詰めて運び去り、また同時に周囲に飛び散った彼の血と脳漿とを蒸気洗浄機スチームクリーナーでもって丹念に洗い流す。

「マダム、そちらのお召し物も、お部屋にお帰りになられてからランドリーサービスをご利用される事をお薦めいたします」

「ああ、そうだな。そうさせてもらおう」

 やがて肥満体のアルフォンス・ヴォロディーヌがそこに居た事を証明すべき全ての痕跡が抹消されてから、コンシェルジュの男性の忠告をそう言って承諾した始末屋は、革張りのソファからおもむろに腰を上げた。そしてロビーの奥のエレベーターホールの方角へと足を向け、到着したエレベーターに乗って上階へと移動すると、廊下を渡った先の自分の客室に再び足を踏み入れる。

「もしもし、フロントか? 大至急、ランドリーサービスを頼みたい」

 今夜彼女が宿泊する予定の客室に足を踏み入れた始末屋は文机の上に設置されていた内線電話の受話器を手に取り、フロントの番号をタップして回線が繋がるや否や、開口一番そう言った。

かしこまりました、マダム。それでは担当の者が至急客室までお伺いいたしますので、少々お待ちください」

「ああ、早くしろ。急げ。ぐずぐずしていると、その尻を蹴っ飛ばすぞ」

 そう言った始末屋は、フロントを任されたホテルマンの返事を待たずに受話器を置いて一方的に通話を終えると、彼が言うところの『担当の者』の到着を仁王立ちのままジッと待つ。するとものの数分と経たぬ内に、客室と廊下とを隔てる重く頑丈な扉がこんこんこんと三回ノックされ、若いルームサービス担当のホテルマンが姿を現したのだから感嘆せざるを得ない。

「随分と早かったな。それではフロントにも電話で伝えた通り、ランドリーサービスを頼みたい。これらを洗濯し、しっかり乾かしてアイロンを掛けてくれ。今回はさほど急いではいないので、レストランで食事を摂る今日の夕食の時間までに届けてくれれば、それで構わない」

 そう言った始末屋は、やはりおもむろに、若いルームサービス担当のホテルマンの眼の前で汚れた衣服を堂々と脱ぎ始めた。しかしながら今回は前回と違って、射殺されたアルフォンス・ヴォロディーヌの血と脳漿で汚れたのは上着類だけなのだから、ブラジャーやショーツと言った下着類までは脱ぎ捨てない。そして下着姿になった彼女から駱駝色のトレンチコートや黒い三つ揃えのスーツなどを手渡されたホテルマンは、うやうやしく頭を下げる。

かしこまりました、マダム。ご希望通り、必ず夕食の時間までにこちらにお届けいたします」

 会釈と共にそう言ったホテルマンが退室すれば、下着姿の始末屋は寝室へと移動し、ダブルサイズのベッドの上にごろりと横になった。するとちょうどその時、ランドリーサービスを頼む前にトレンチコートの内ポケットから取り出しておいた彼女のスマートフォンが、不意に軽快な着信音を奏で始める。

「誰だ」

 液晶画面の応答ボタンをタップした始末屋は、そこに表示された通話相手の名前も確認せぬままに、受話口を耳に当ててそう言った。するとスマートフォンの向こうから、親の声よりも聞き慣れた女性の声が耳に届く。

「もしもし、始末屋かしら? あたしよ、グエン・チ・ホアよ?」

 語尾の音程が上擦ってしまう少しばかり訛った日本語でもってそう言った通話相手の女性は、始末屋の旧友でもあるキン族のベトナム人女性、つまりグエン・チ・ホアその人であった。

「なんだ、チ・ホアか」

「あらあらあら? 始末屋ったら、せっかく電話を掛けてあげた親友に対して、随分と冷たい言いぐさじゃなくて?」

 頬を膨らませながらそう言って不平不満を露にするグエン・チ・ホアに、始末屋は単刀直入に問い掛ける。

「それで、その親友とやらが、一体このあたしに何の用だ?」

「ええ、そうね? もしあなたの都合さえ良ければ、また近い内に、お食事でもご一緒しようかと思ってね? ほら、ちょうど今頃のフォルモサは、緑豆湯リュウトウタンが美味しい季節になったばかりじゃない? それで始末屋、あなたったら、今どこに居るのかしら?」

「あたしは今、モナコに居る。残念ながら、フォルモサにはもう居ない」

 下着姿の始末屋がベッドの上で横になったままそう言えば、スマートフォンの向こうのグエン・チ・ホアは落胆せざるを得ない。

「あら、そうなの? それはまた、ちょっとばかり残念じゃない? それで、モナコからは、いつ頃帰って来るつもりなのかしら?」

「今後の予定は、未だ決定していない。しかしながら次の依頼が舞い込んで来るまで、暫くこの地で英気を養うつもりだ」

「あらあらあら? まさか『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターの一人であり、また同時に女丈夫で知られたあなたがモナコみたいなセレブ達の保養地で英気を養うつもりだなんて、珍しい事もあるものじゃない? 一体全体、どう言った風の吹き回しなのかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言えば、今度は始末屋が不平不満を露にする。

「嫌味はそこまでにしておけ、チ・ホア。あたしだって気が向けば、休暇が欲しくなる事もある。とにかくもう暫く、あたしはフォルモサに帰る気は無いのだから、食事はまた今度にしよう」

「ええ、そうね、今だけはそう言う事にしておいてあげても良くってよ? それじゃあ始末屋、またフォルモサに帰国したら、今度はあなたの方からあたしに連絡を寄越してちょうだいね? いい? 約束よ?」

「ああ、またな」

 最後にそう言った下着姿の始末屋は、スマートフォンの液晶画面をタップし、遠くフォルモサの地に居る筈のグエン・チ・ホアとの通話を終えた。そしてエアコンによって快適な室温が保たれた寝室の、ダブルサイズのベッドの上で横になったままそっと眼を閉じると、一時の惰眠と言う名の快楽を享受し始める。

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