ヒナ鳥が巣立つとき4

 その日も、高乃さんの「そろそろ寝ようか」という言葉に促され、私はベッドに潜り込んだ。

 高乃さんに抱きしめられ、頭を撫でられ、おでこにキスをされる。そうすると、途端に眠気が襲ってくる。これではまるでパブロフの犬だ。

 私は重たくなるまぶたを必死でこじ開けて高乃さんの顔を見た。

「ん? どうした?」

「私と高乃さんは……恋人同士、なんですよね?」

「うん、そうだね」

「それなら、どうして、高乃さんは何もしないんですか?」

「何も?」

「そ、その……エッチなこと、とか……」

 高乃さんには、随分色々なことを言えるようになった。だけど、さすがにこれは恥ずかしすぎる。

「久遠さんは、したいの?」

 高乃さんは目を細めるとゆっくり私の頭を撫でた。

「え? あの……。そうじゃなくて、高乃さんに、そういう……気持ちが、ないのかなって?」

「あるある、いっぱいあるよ」

 高乃さんは楽しそうにクスクスと笑う。

「だから、久遠さんが泊りに来る日は大変なんだから。隣に寝てると思うと、ドキドキしてなかなか眠れないし」

「うそ……」

「久遠さんは、ぐっすりだよね。寝ると絶対起きない」

 どうやら、私は一人でさっさと眠ってしまっていたらしい。

 そんな話をしている間も、高乃さんは私の頭を撫でるのを止めない。ひと撫でされるごとに、私のまぶたは重たくなっていく。

「なら……、どうして何も、しないんですか?」

「待ってる、のかな?」

 意識がフワフワと漂うような感覚になり、高乃さんの声がどこか遠くから聞こえてくるようだ。私は、何とか離れようとする意識を掴んで尋ねる。

「何を、待ってるん、ですか……」

「ヒナ鳥が巣立って……」

「ヒ、ナ……?」



 土曜日の朝、スッキリと目を覚ました私は、いつものように高乃さんの寝顔を眺めた。すると、眠りに落ちる直前に聞いた高乃さんの言葉が蘇る。

 高乃さんは「ヒナ鳥が巣立って……」と言った。

あのとき話していたのは、高乃さんがエッチなことをしたいと思わないのかという話だった。だから、高乃さんが言った「ヒナ鳥」とは、本当の小鳥のことではないのだろう。

 以前、板垣さんが「高乃の後ろをついて歩くのを見てると本当にヒナ鳥みたいだな」と言っているのを聞いたことがある。それならば、「ヒナ鳥」とは私のことだ。

 確かに、私は高乃さんを頼りにしている。高乃さんに甘えている。仕事だって、まだまだ高乃さんには追い付かない。

 私が「ヒナ鳥」だとすれば、「巣」は高乃さんだ。そうすると、「ヒナ鳥が巣立つ」とは、私が高乃さんから離れるという意味になる。

胸の奥がキュッと締め付けられるように痛んだ。

 高乃さんは、私に離れて行ってほしいと思っているのだろうか。

 泊りに来たというのに、いつも先に眠ってしまうから、呆れているのかもしれない。いつまで経っても、仕事を一人前にできないから、苛立っているのかもしれない。私のわがままに嫌気がさしたのかもしれない。


 高乃さんと気持ちを伝え合ってはじめて迎えた月曜日。朝礼がはじまる前に高乃さんが小声で言った。

「色々考えたんだけどさ。私たちのこと、みんなに言っちゃってもいいかな?」

 私は、即座に頷いていた。高乃さんは、私に質問をするとき、いつも三択を用意してくれていた。だが、その質問は三択ではない。そこに、高乃さんの意思を感じた。

 それに、私はどちらでもいいと思っていた。公言しようがしまいが、高乃さんに対する想いは変わらない。だったら、高乃さんがやりたいようにしてほしいと思った。

 私と高乃さんの関係を公言したことによって、西島さんと城田さんから食事に誘われることはなくなった。目まぐるしい波状攻撃が収まって気持ちが楽になった。それに、これまで冷たい態度を見せていた女性の先輩社員が、なぜか少しだけやさしくなったような気もする。

 けれど、高乃さんに対する風当たりが強くなっていた。

 朝礼の直後、上司に呼び出されてたのは高乃さんだけだ。「上司の立場を利用して……」とか「久遠さんが断れないだけじゃないか?」という声を聞いたのも一度や二度ではない。

 高乃さんは、気にする様子もなくいつも笑っているけれど、非難されて辛くない人なんているはずがない。高乃さんは、そんな状況に嫌気がさしていたのかもしれない。

 こんなにやさしくて強い人を、私なんかが独占してしまっていいのだろうかと思っていた。

 高乃さんには、私なんかよりもっと素敵な人がいるはずなのだ。高乃さんが、私のことをイヤになる理由なんていくつでも挙げられる。

 そう考えていると、目頭が熱くなって涙があふれてきた。けれど、泣いたらもっと高乃さんに嫌われてしまう。そう思って涙を止めようとするけれど、胸が苦しくなって余計に涙があふれてくる。私は、布団の中に潜り込んで嗚咽を堪えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る