ヒナ鳥が巣立つとき3

 高乃さんの下で働くようになってしばらく経ったとき、高乃さんに誘われて一緒にランチを食べた。その日から、高乃さんの印象は『お母さんのような人』に変わった。

 『お母さん』とは、私を生んだ母のことだ。しかし、私は母のことをほとんど覚えていない。

 母が家を出て行ったのは、私が三歳か四歳の頃だ。かすかに残る記憶の中の母は、温かな手で私の頭をなで、私をやさしく抱きしめてくれていた。

 父は、母が出て行った理由を語ろうとはしなかったし、祖父母は母のことを嫌っていたように見えた。だから、本当は、私が思っているような温かくやさしい母ではなかったのかもしれない。

 けれど、この世のどこかに、私を抱きしめてくれる存在がいると思うだけで救われるような気がしていた。

 小学生に上がった頃、新しい母が我が家に来た。とてもきれいで、気性の激しい人だった。叩かれることはあまりなかったが、機嫌を損ねると激しく怒鳴られた。

 だから私は、どう答えれば新しい母が怒らないか、何をすれば新しい母が機嫌よく過ごしてくれるのかを考えるようになった。

 新しい母が望む答え出し、新しい母が望むように行動するようにしたら、怒鳴られることが少なくなった。機嫌の良いときには笑顔を浮かべてくれることもあった。

 本当の母のことを嫌っていた祖父母は、私のことも邪険にすることがあった。だが、新しい母にしているのと同じように、祖父母が望む答えをするようになってからやさしくなった。

 学校の友だちもそうだ。自分の気持ちを押し通せば喧嘩になったが、相手の気持ちを考えて答えをだせば喜んでもらえる。

 誰だって人に嫌われたいとは思わないはずだ。怒鳴られれば怖いと感じるし、叩かれれば痛い。

 だから私は、どうすれば相手が機嫌よくなるかを考えて答えを選ぶようにしてきた。相手の意に沿わない答えよりも、相手が望む答えを出した方が喜んでもらえる。

 それで、少しくらい自分が辛い思いをしたとしても我慢すればいいだけだ。相手に失望されたり、怒らせたりする方が怖かった。

 だけど、私はいつもどこかで失敗をしてしまう。

 新しい母は、私が中学を卒業する前に家を出て行ってしまった。

 最初は仲良くしてくれた友人たちも、いつしか私を避けるようになる。

 私のことを好きだと言ってくれた男の子たちも、結局みんな離れて行った。

 一生懸命に相手の気持ちに合わせているつもりでも、まだ足りないことがあったから、みんなが離れて行ってしまうのだと思っていた。


 高乃さんはやさしい。高乃さんには嫌われたくなかった。だから、高乃さんに合わせて、高乃さんが望む答えを必死で探した。

 ところが、高乃さんは「好きなものを好きだと言っていい」「嫌いなものは嫌いだと言っていい」「それくらいで久遠さんのことを嫌いになったりしない」と言ってくれた。

 ずっと空想の中で思い描いていた本当の母の言葉を聞いたような気持ちになった。

 その言葉の通り、高乃さんはそれからもずっと変わらずやさしかった。

 私が自分の意思を主張することが苦手だと気付いて、私に質問をするときは三択にしてくれた。そして、その三つのどれを選んでも、高乃さんは笑顔を浮かべてくれる。

 西島さんや城田さんに食事に誘われて断れずにいると、高乃さんが「私と約束があるから」と、代わりに断ってくれた。しかも、本当に私を食事に連れて行ってくれた。

 ある日、高乃さんが食事の行き先を決める三択で、「大衆居酒屋、大衆中華、私の家、どれがいい?」と聞いた。

 私は、高乃さんの家を選び、三択を越えて「料理を作っていいですか?」と尋ねてみた。そのとき、一瞬高乃さんが驚いた顔をしたのを見て、わがままを言い過ぎただろうかと不安になった。だが、高乃さんはすぐにうれしそうな笑顔を浮かべてくれたのだ。

 その笑顔が、私はとてもうれしかった。

 その頃には、高乃さんは『お母さんのような人』から、『側にいたい人』になっていた。


 そんな高乃さんが、私に怒鳴ったことがある。どうしても西島さんの誘いを断れず、ホテルに行ってしまった日のことだ。

 近くに高乃さんがいなくて私は不安だった。「嫌なときはちゃんと断りなさい」という高乃さんの言葉を何度も頭の中で繰り返して、西島さんの誘いを断ろうとした。けれど、いざその言葉を口にしようとすると、喉が張り付いたように渇いて声が出なくなる。体がこわばって動けなくなる。断りの言葉を告げたときに、失望した顔をされたらと思うと恐かった。怒って怒鳴られるかもしれないと思うと恐怖で足がすくんだ。

 ホテルの部屋に入ると、西島さんはシャワーを浴びに行った。高乃さんなら助けてくれるかもしれない。そう思って携帯電話を握りしめていたけれど、高乃さんに失望されるかもしれないと思ったら電話ができなかった。そのとき、高乃さんから電話が掛かってきたのだ。

 高乃さんは、すぐにホテルを出るように言った。けれど、そうしたら西島さんが怒ってしまうだろう。それが怖くて躊躇した。

 だけど、高乃さんの「すぐにそこを出て、私の家に来なさい。これは命令。今すぐ!」という言葉を聞いて、私はすぐにホテルを飛び出した。

 高乃さんの厳しい口調を聞いたのはそれがはじめてだった。けれど、私は安堵していた。高乃さんの家に行けば、すべてが解決するような気がした。一刻も早く高乃さんの側に行きたくて、私はとにかく走った。

 高乃さんの家に着いたら、高乃さんがいつものように笑顔で迎えてくれると思っていた。だが、高乃さんに笑顔はなかった。

 怒っているような、苦しんでいるような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべる高乃さんに、私はまた失敗したのだと悟った。

 「嫌ったりしない」と言ってくれた高乃さんに嫌われてしまったと思った。高乃さんに失望されて嫌われてしまったのだと思ったとき、私はこれまで感じたことのないようなショックを受けた。

 そして、高乃さんの側にいたいと感じていたのは、高乃さんが『好きな人』になっていたからだと気付いた。

 高乃さんが声を荒げたとき、反射的に体が硬直してしまったけれど、恐怖は感じなかった。押し倒されたときも、殴られるなんて微塵も思わなかった。

 涙を流して怒った高乃さんに、私はそれを伝えたかったけれど、うまく言葉にすることができなかった。

 高乃さんが出て行き、ひとり残された部屋の中で、私は必死で考えた。けれど、どれだけ考えても、私の思考が行きつく先は普通ではないような気がした。それを、高乃さんに受け入れられるとは思えなかった。

 それでも、翌朝、高乃さんが家に戻ったとき、私は私の気持ちを高乃さんにぶつけた。支離滅裂な言葉だったけれど、自分の中にある思いをとにかく高乃さんにぶつけた。普通ではない。受け入れられるとも思えない。そんな言葉だったけれど、高乃さんは私を抱きしめてキスをしてくれた。

 高乃さんの腕の中は安心する。

 高乃さんの家に泊まるようになって、熟睡できるようになった。平日、一人の部屋で寝る時は、無性に寂しくなることもある。けれど、高乃さんのことを思い出すだけで心が温かくなった。

 私は、高乃さんから数えきれないほどたくさんのものをもらっている。だけど、私は高乃さんに何も渡せていない。

 私が高乃さんにあげられるものといったら、この体くらいしかない。それなのに、高乃さんはそれすらも求めてくれない。

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