ヒナ鳥が巣立つとき2

 高乃さんとは、私の異動をきっかけに出会った。

 入社して二年に満たない中途半端な時期に突然出された辞令に、私はまた失敗したのだと悟り、落胆した。

 人に嫌われないように、人に失望されないように、人に幻滅されないように、そう思って行動しているのに、最後には嫌われ、失望され、幻滅されて居場所を失くす。

 今度こそは失敗しないようにしよう。そう心に決めて訪れた新しい部署で、私の指導を担当することになったのが高乃さんだった。最初に抱いた高乃さんの印象は『怖い人』だ。

「久遠です。今日からよろしくお願いします」

 私が頭を下げると、高乃さんはパソコンを操作する手を少し止めてチラリと私を見た。

「高乃です。よろしく。久遠さんは隣の席ね。ちょっと待ってて」

 それだけ言うと、高乃さんはすぐに作業に戻ってしまった。

 私は言われた通りに席に着き、高乃さんの横顔を眺めながら指示を待つ。その横顔はとても厳しい。この人を怒らせたらどうなるだろうと考えると、体が硬直するような感じがした。そして胃の奥がギュッと締め付けられる。

 高乃さんは、とても仕事に厳しい人に見えた。仕事でミスをしたら怒られてしまう。そして、失望されて、最後には口もきいてもらえなくなってしまう。

 前の部署で嫌われてしまったから、特に厳しい人の所に回されたのだと思った。もしかしたら、早く会社を辞めてほしいと思われているのかもしれない。それならば、早く退職願を出した方がみんなは喜ぶのだろう。けれど、その勇気も持てなかった。

 ともかく、目の前の高乃さんを怒らせないようにしなければと、私は慌ててノートとペンを机の上に出した。

 しばらく待つと、高乃さんは「おっしゃ」とつぶやいて背筋を伸ばした。そして、クルリと椅子を回転させて私を見る。

「待たせてゴメンね。どうしても先にやっつけておきたいものがあって」

 そう言って笑顔を見せた高乃さんからは、先ほどのような厳しさを感じなかった。

 それから、業務の概要を一通り教えてもらい、それ以降はひとつずつ実践しながら教えていくと伝えられた。意外なことに、高乃さんの教え方はやさしく丁寧だった。けれど、油断してはいけない。最初はやさしくても、次第に怒りをあらわにするようになる。前の部署でもそうだった。

 私は、高乃さんの言葉を必死でノートに書き留める。そんな私を、高乃さんがジッと見ていることに気が付いた。もう何か失敗をしてしまったのだろうかと不安に思って高乃さんを見ると、「ああ、ゴメン、見過ぎだったね」と言って笑みを見せた。

「いやぁ、なんだかメモを取っている姿がうれしくてね。いいことだよ。うん、素晴らしい」

 ただ、メモを取っているだけのことをそんなに褒められるとは思わなくてびっくりした。でも、それがなんだかとてもうれしかった。高乃さんは、メモをしっかり取ると喜んでくれる。それが分かってから、私はより一層しっかりとメモを取るようになった。

 『怖い人』だった高乃さんの印象が変わるのに、それほど時間はかからなかった。

 ミスをしてしまったときでも、高乃さんは怒らなかった。

「ミスは誰にだってあるんだから、これから気を付けてくれればいいよ。それに、最初から完ぺきだったら、私のやることなくなっちゃうじゃない」

 そう言って高乃さんは笑ってくれた。

 高乃さんが仕事に厳しい人だという印象は正しい。仕事をする中で注意を受けたこともある。けれど、恐怖を感じたことは一度もなかった。そして、高乃さんは、時間を経ても最初と変わらず、やさしく丁寧に接してくれた。これまでも、やさしくしてくれた人たちはたくさんいる。けれど、それは長くは続かない。きっと、私がどこかで間違えて、失敗をしてしまうからだ。

 けれど、高乃さんは変わらなかった。

 例えば作業の途中で分からないことが出てきたとき、私は高乃さんに声を掛けていいか迷ってしまう。前の部署では、分からないところで先輩に質問をしたら、「そんなことも分からないの?」とか「今忙しいんだけど」と苛立たせてしまった。迷惑を掛けないように、なんとか自分で解決しようとしたら「時間かかり過ぎ」とか「勝手に判断しないで」と怒らせてしまった。

 高乃さんは、私よりもずっとたくさんの仕事をしている。高乃さんに怒られたことはないけれど、仕事の邪魔をしてしまったら怒られてしまうかもしれない。

 そんな風に悩んでいると、高乃さんは「もしかして、何か分からないことあった?」と声を掛けてくれるのだ。

 高乃さんは、真剣な顔つきでパソコンを打っているはずなのに、どうして私のことに気付けるのか分からない。

 高乃さんの印象は『怖い人』から『不思議な人』になっていた。

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