ヒナ鳥が巣立つとき1

 私は寝つきが悪い。ベッドに潜り込んで目を閉じても、なかなか眠ることができない。小鳥のさえずりが聞こえはじめる時間にようやく眠れるという日もある。

 その上、眠りも浅い。比較的早く寝つけた日でも、ちょっとした物音や振動で目を覚ましてしまう。朝まで一度も目を覚まさずに眠れたことなんて、数えるほどしかない。

 だから寝起きも悪い。起きる時間になっても眠気が取れず、いつまでもグダグダと布団にしがみついている。休日は昼近くまで布団の中にいるのだが、物音が気になって眠ることはできなかった。

 このような状態が、長く日常化していたために自覚症状はなかったが、どうやら私は慢性的な寝不足だったらしい。

 そのことに気付いたのは、この二か月、妙に体調が良いと感じられたからだ。そして、体調が良くなった要因として考えられるのが、週に二日は熟睡できるようになったということだけだったからだ。

 睡眠が頭と体にこれほど大きな影響を与えるとは思ってもみなかった。

 日中、眠気に襲われることが各段に減った。頭にかかったモヤが消え、仕事により集中できるようになった。思考のスピードも上がったような気がする。一日でこなせる作業量が増えたのは、仕事に慣れてきたからというだけではないと思う。

 体を動かすのも楽になった。以前は体が重くて、軽い荷物を運ぶにも、通勤などで少し歩くのにもだるさを感じていた。だが、最近はそんなだるさを感じることがない。

 体を動かせるようになったためか、以前よりも食欲が出るようになった。食事は、半分義務のように思っていたのだけれど、最近はおいしいと思えるようになった。

 食事がおいしいのは、一緒に食事をしてくれる人ができたことも影響しているのだろう。

 私の隣でまだ穏やかに寝息を立てている女性の顔を見る。

 名前は、高乃梓。年齢は、いまだに教えてもらえないが、恐らく三十一か二。バリバリと仕事をこなす会社の上司。そして、私の好きな人で、私の恋人……だと思う。

 私は、高乃さんに好きだと伝え、高乃さんも私を好きだと言った。

 だけど、本当に恋人同士になれているのだろうか。しっかりと睡眠をとったクリアな脳で考えると、少し違うような気がするのだ。


 付き合いはじめてから、私は毎週末、高乃さんの家に泊まるようになった。金曜日、仕事が終わったら高乃さんの家に来て、日曜日の夕方自宅に帰る。

 寝つきが悪く、眠りが浅い私が、他人と一緒に眠れるはずはないと思っていた。学生時代の修学旅行でも、断り切れず何度か経験してしまったそういった場面でも、私はほとんど一睡もできず朝を迎えていた。

 付き合うことになって迎えた最初の金曜日、私は少し緊張をしながら高乃さんの家に来た。狭いキッチンで肩を並べて料理を作って、狭い部屋で向かい合って料理を食べる。その間も、ずっと緊張していた。

「さて、そろそろ寝ようか」

 高乃さんがそう言ったのは二十三時頃だった。普段、日付が変わる前に眠ることなんてない。私の緊張はさらに高まった。付き合っている人と一緒に寝るのだ。その言葉は『眠る』以外の意味だろうと思ったからだ。

 高乃さんのことが好きだ。だから、それは自然なことなのだと思う。恋人同士ならば、そうした行為をすることも普通のことだと思う。けれど、私には不安があった。私にとってそれは、辛い思い出しかない行為だったからだ。

 それでも、覚悟を決めて高乃さんの隣に体を横たえた。すると、高乃さんは私を抱きしめ、やさしく頭に触れ、おでこにキスをしてくれた。そして「おやすみ」と言って目を閉じてしまったのだ。

 せっかくの覚悟が空振りに終わって、少し拍子抜けした。そして、私の体を包む高乃さんの温もりと、微かに耳に届く心音を聞いていたら、あっという間に眠りに落ちていた。

 目が覚めて私は驚いた。カーテンの隙間からこぼれる光に、すでに朝を迎えていたことがわかったからだ。

 いつもならば、目覚ましが鳴っても起きられないのに、自然に目が覚めてしまった。起きることを拒否するかのような、まぶたの重みも感じない。しかも、頭がスッキリしている。朝まで一度も目を覚ますことなく眠っていたのだ。

 驚きつつ、まだ眠っている高乃さんに体を寄せて、その体温を感じると、また心地良い眠りの波が押し寄せる。高乃さんは、体から安眠効果のある何かを放出しているのかもしれない。

 もしかしたら、昨夜は高まっていた緊張が急にほぐれたために、反動で眠れたのかもしれない。そう思ったのだが、それ以降、高乃さんと眠るときは、いつも熟睡することができた。

 そして、付き合うようになって二カ月、毎週、高乃さんの家に泊まっているけれど、キス以上のことはしたことがない。そもそも、キスだって数えるほどしかしていない。恋人になったというのに、私は、高乃さんの家でご飯を食べて眠っているだけなのだ。

 どうして高乃さんは何もしないのだろう。女性同士で付き合うというのは、そういうものなのだろうか。女性と付き合うなんて初めてのことだからよく分からない。

 そもそも、私は、人を好きになったことなどないような気がする。

 私は、ずっと他人が怖かった。今でも怖い。こうして安心して身を委ねられるのは高乃さんだけだ。けれど、これは本当に『好き』という感情なのだろうか。この気持ちは、高乃さんが私に言ってくれた『好き』と同じなのだろうか。

 高乃さんの胸に顔をうずめると、心まで包まれるようで安心できる。同時にドキドキと胸が高鳴る。相反するような感覚が同居するのは、とても不思議な感じがした。これが『好き』ということなのか、高乃さんに聞けば教えてもらえるだろうか。

 はじめてこの部屋に泊まった夜、私はその行為に対して不安を感じていた。それなのに、今では何もしない高乃さんに不満を感じている。

 こんな風に考えてしまうなんてわがままだと思う。高乃さんと一緒に過ごす時間が増えるほど、私はわがままになっている。このままでは、高乃さんに嫌われてしまうのではないかと不安が心をよぎった。

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