ヒナ鳥の育て方6
鍵を開けて部屋に入る。そこに久遠さんの姿はない。倒してしまったマグカップも濡れたテーブルや床もきれいに片づけられている。
私はベッドに倒れ込んだ。考えるのはあとだ。とにかく今は眠ろう。そうしてまどろみの中にゆっくりと落ちていった。
だが、さほど時間が経たないうちに、何かの物音で目が覚めた。うっすら目を開けると、狭いキッチンに久遠さんの姿が見えた。
「……何、してるの?」
私の声に、久遠さんが振り向く。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか? あの、朝ご飯を作ろうと思って……」
「あー、そうじゃなくて、帰ったんじゃないの?」
「はい、朝ご飯の材料を買いに行ってました」
「どうして帰らなかったの?」
久遠さんは下を向いてしまう。なんだか叱られて立たされている子どものようだ。
「結構飲んできたから、朝ご飯はまだいいわ。とりあえずこっちにいらっしゃい」
私はできるだけやさしい声で言う。
私は体を起こして壁に背中を預けて座った。久遠さんは少し戸惑ったような足取りで部屋の中に来ると、ベッドの端にちょこんと座る。
「えーと、ゆうべは怒鳴ってごめんなさい」
「あ、い、いえ……」
「でもね、久遠さんはもっと自分を大切にしてほしい。それは本心だから」
「はい……」
「久遠さんは、よく『普通』って言葉を使うでしょう? 私、『普通』って言葉、あまり好きじゃないの」
「どうして、ですか?」
「曖昧でつかみどころがないからかな」
久遠さんは首をひねった。
「だって、『普通』って何が基準なのかわからないでしょう? 十人中五人が選んだものが普通なの? それとも十人中九人が選んだものが普通なの? 例えば、十人中一人しか選ばないものだとしても、その一人にとっては、それを選ぶことが『普通』のことなんだよね?」
久遠さんはキョトンとした顔で私を見た。こういう話をするとますます親鳥じみてくる。けれど、私はその役目を引き受けたのだ。最後までそれをまっとうしよう。
「久遠さんは、明太子が苦手でしょう?」
久遠さんは頷いた。
「明太子を好きな人と、嫌いな人、どっちが多いと思う?」
「た、多分、好きな人の方が多いと思います」
「それじゃあ、明太子を好きな人が普通で、嫌いな人は普通じゃないの?」
久遠さんはますます首をひねる。私は思わず吹き出してしまった。
「そんなに真面目に考える必要ないわよ。ただ、『普通』なんて、それくらい曖昧なものだってこと。そんな曖昧なものを基準にして、久遠さんの想いを殺さないでほしい」
久遠さんが小さく頷くのを確認する。きっと大丈夫だ、久遠さんも少しずつ変わってきている。きっといつまでもヒナ鳥のままじゃない。
「久遠さんもゆうべ寝てないんでしょう? 少し横になる?」
私が聞くと、久遠さんは急に顔を上げてベッドに這い上がってきた。そして、私の正面に正座する。
「どうしたの?」
「あの、私、高乃さんと話がしたくて、帰らずに待ってました」
少し考えて、私が目覚めてすぐに久遠さんにした質問の答えだと理解する。
「あ、うん。何の話?」
「でも、何をどう話していいかわからなくて……」
「だったら、無理に話す必要ないよ」
久遠さんは首を横に振った。
「西島さんにちゃんと断れなくてごめんなさい。断ろうと思ったけど、どうしても怖くてできませんでした」
「ああ、うん」
どうしてそんなに相手を傷つけることを怖がるのか、その理由は分からない。それは、私が考えているよりも根深いものなのかもしれない。
「だから、高乃さんが電話をくれて、すごくうれしかったです」
「それならよかった」
「そ、それと、嫌じゃなかったです」
今、西島くんに断ろうとしていたと言っていたのに、嫌じゃないとはどういう意味だろうか。
「だから、セクハラでもパワハラでもなくて……」
どうやら、西島くんのことではなく、私がした行為のことだったようだ。思い出すと顔が熱くなる。
「普通は嫌がるはずだって思ったのに、嫌じゃなくて。だから普通じゃなくて。でも、普通じゃなくても普通なんですよね?」
「ん?」
久遠さんが一気にまくしたてるように言うが、私は久遠さんの言葉が理解できなかった。
「だから、普通じゃないけど嫌じゃないのは普通なんですよね?」
ますますわからなくなった。
「あー、ちょっと落ち着こうか」
私は久遠さんを制しようとしたが、久遠さんは止まらない。正座の姿勢から腰を上げて、私の顔を凝視する。私は後ろが壁なので下がることもできない。
「高乃さん、言いました。好きなものは好きだって言っていいって。自由にしていいって。それで嫌いになったりしないって」
「うん、確かにそんなこと言ったね」
「だから、その……高乃さんとキスがしたいです」
「え? あ、落ち着こう、落ち着こうか」
私は慌てて再度久遠さんを制止するが、久遠さんはグイグイと迫ってくる。確かに自分の気持ちを言えるようになってほしいと思っていたが、ちょっと振り切れすぎではないだろうか。
「普通じゃないかもしれないけど、高乃さんが好きなんです」
これはきっと違う。プリンティングだ。ヒナ鳥が、最初に見た動くものを母親だと思うように、久遠さんは母親のような言葉を伝えた私に好意を持ってしまっただけだ。
そう思っているのに、久遠さんの言葉がうれしくてしょうがない。そして、久遠さんを制していた手の力が抜ける。次の瞬間、久遠さんの唇が私の唇に触れた。
とても短いキスの後、久遠さんは顔を隠すように私に抱きついた。
「き、嫌いに、なりませんか?」
「なるわけないでしょう。久遠さんのことが好きだよ」
私は久遠さんの背中に腕を回した。
ヒナ鳥は、いつか成長して羽ばたいてしまうかもしれない。こうしていられる時間はわずかかもしれない。それでも、今、久遠さんを抱きしめられるのは私だけだ。
月曜日の朝、部署で朝礼が行われる。だから、この日だけは、基本的に部署の全員が顔を揃える。
ホテルで久遠さんに逃げられて、チラチラと横目で様子を伺う西島くんもいる。西島くんに抜け駆けされたことを知って苛立ちを隠せない城田くんもいる。
「えー、その他に連絡事項はありますか?」
朝礼が終わりに近づき、進行役がいつもの通り、いつもの質問を投げかける。
私は静かに手を挙げた。
「ひとつ連絡というか、報告があります」
部署の面々が私に注目する。私はひとつ息を付く。そして、はっきりと大きな声で言う。
「久遠美星さんは、私の女になったので、これ以上手を出さないように。以上です」
一斉に室内がどよめき出す。西島くんは、これ以上ないというほど目を見開いている。城田くんは口をポカンと開けてマヌケな顔で突っ立っていた。板垣くんは、そんな二人を見て、ニヤニヤと笑っている。
そして、久遠さんは両手で顔を覆い、耳まで真っ赤に染めていた。
これからどうなるかなんて知ったことではない。
ヒナ鳥が自らの意思で飛び立つと決めるときまで、私はヒナ鳥を誰にも渡すつもりはない。
ヒナ鳥の育て方 おわり
『ヒナ鳥が巣立つとき』へ続きます。
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