ヒナ鳥の育て方5

 そんな日々がしばらく続くと、西島くんと城田くんの動きが大人しくなっていった。さすがに連戦連敗で諦めたのかもしれない。そう思ったのが油断を招いてしまった。

 金曜の夕方、緊急会議が開かれることになった。私は、久遠さんに会議が長引くかもしれないから、仕事が終わったら帰っていいと伝えて会議に参加した。

 堂々巡りで紛糾した長い会議が終わったのは定時を一時間以上過ぎてからだった。私は自席に戻り、残っていた仕事に着手する。今日中に仕上げておきたい仕事がまだ少し残っていた。

 隣の席を見ると、パソコンの電源は落とされており、その日のタスク付箋もきれいになくなってる。そのとき、残業を終えて帰ろうとしていた同僚の雑談が耳に入ってきた。

「あの熱意はスゴイよな」

「まったく、あの熱意を仕事に向けてくれればいいのになあ」

「どう思う? 落とせると思うか?」

「いや、無理じゃないか。ずっと断られてたんだろう?」

「でも今日OKしたってことは、そういうことじゃないのか?」

 その会話に私は悪寒が走った。

「その話、誰のこと?」

 私は会話をしていた二人に詰め寄る。

「西島と久遠さんだよ」

「仕事終わりに西島が久遠さんを誘ってさ。ようやくOKがもらえたって大喜びしてたよ」

 やられた。最近、少し大人しくなっていたのは様子を伺っていただけなのだろう。私が会議に出席していて、久遠さんとの約束がないことを見越して声を掛けたのだ。

 仕事終わりに同僚と飲みに行くことなんてよくあることだ。さして気にすることではない。だが、西島くんと城田くんに関しては、同僚として親交を深めたいという理由でないことは明白だ。

 久遠さんがそれを望んでいるのならばいい。だが、そうは思えなかった。久遠さんは以前に比べれば、私以外の人にも自分の気持ちを伝えられるようになってきている。それでも、久遠さんが望まないことが起きたらと思うと気が気ではない。

 幸いだったのは、誘ったのが城田くんではなく西島くんだったことだろうか。考えなしにガンガン突っ走る城田くんに比べれば、西島くんはまだ紳士的だと思う。きっと大丈夫だ。そう思い込もうとしたけれど、どうしても私の心は落ち着かなかった。

 残っていた仕事を終えて、帰宅しとき時刻は二十二時になろうとしていた。携帯には何の連絡も入っていない。これまでも久遠さんからプライベートな報告を受けるようなことはなかったので、西島くんとの食事の報告が来るわけではない。

 西島くんとの食事がどうだったか、確認の電話を入れるのも過保護な気がした。それでも、これまでお節介すぎるほどお節介を焼いてきたのだ。こんな中途半端な状態でヒナ鳥を巣立たせるわけにはいかない。

 私は意を決して、久遠さんに電話を掛けた。すると、ワンコールする間もなく通話になった。そして「どうすればいいですか?」という小さな声が聞こえた。

 私は、何が起こっているのか説明するように言った。久遠さんはとぎれとぎれの言葉でたどたどしく説明をする。その言葉は要領を得なかったが、つまりは食事の後、ホテルに誘われて断り切れなかったということだった。

「西島くんは?」

「シャワーです」

「それなら、今すぐそこを出なさい」

「でも……」

「久遠さんは西島くんと寝たいの?」

「いえ……」

「だったら、すぐにそこを出て、私の家に来なさい。これは命令。今すぐ!」

「は、はい」

 その言葉を後に電話は切れた。久遠さんは無事にホテルを出られただろうか。私はイライラして狭い部屋の中をグルグルと歩き回る。何十周か、何百周か分からないほど歩き回ったとき、部屋のチャイムが鳴った。私は相手も確かめずに慌ててドアを開ける。そこには息を切らした久遠さんが立っていた。


 久遠さんを部屋に上げ、ハーブティーを出して話を聞いた。

 終業時間間際に西島くんに食事に誘われたらしい。いつもならば、私の名前を出して断っていた。だが、会議に出ていることは西島くんも知っている。何とか理由を付けて断ろうと思ったようだが、断り続けていた負い目と西島くんの押しの強さで、了承してしまったという。

 食事は問題なく穏やかに終えたらしい。しかし、その後二件目に誘われた。夕食をごちそうになって、二件目に行かないと言ったら、西島くんが気を悪くするかもしれないと考えてしまったようだ。

 西島くんは、久遠さんが二件目の誘いを断らなかったことで脈ありと思ったのだろう。そうして、半ば強引にホテルに連れて行かれてしまった。

 私は深いため息とともに頭を抱えた。

「あのね……」

 久遠さんに言わなければいけないことがある。だが、どの言葉を選んでも罵声を浴びせてしまいそうでうまく言葉にすることができない。

「……すみません」

「別に、私に謝ってほしいわけじゃないの」

「……すみません」

「だから、謝ればいいことじゃないでしょう!」

 私は思わず声を荒げてしまう。久遠さんはビクリと肩を震わせて体を小さくした。

 その姿に、私の苛立ちはピークに達した。

 久遠さんの肩を押して床に押し倒す。そしてそのまま馬乗りになって久遠さんの動きを封じた。そのはずみでローテーブルが大きく揺れて、マグカップが倒れ、半分ほど残っていたハーブティーがテーブルと床を濡らす。

 久遠さんは驚いて目を見開き、黙って私を見上げている。

 左手を久遠さんの顔の横に置き自分の体を支えながら、久遠さんに顔を近づける。右手で久遠さんの頬にふれ、親指でゆっくりとやわらかな唇をなぞる。

 久遠さんは何も言わず、体を硬くしてただ私を見上げていた。

 私はゆっくりと久遠さんに顔を近づける。三十センチ、二十センチ、十センチ……。お互いの息遣いが分かるまで顔を近づけても、久遠さんは身じろぎもしない。

 五センチ、三センチ、一センチ……。

 その距離がゼロになる手前で私は体を離して立ち上がった。

「どうして嫌だって言わないの! こんなの、パワハラでセクハラでモラハラでしょう!」

 久遠さんは体を起こしながら私を見上げて戸惑うように目を彷徨わせる。

「西島くんのことだって、こんな風に強引に迫られてたら、久遠さんは今頃、ヤられてたんだよ。分かってるの?」

 久遠さんは何か言おうと口を少し開く素振りを見せたが、それは声にならない。

「人の気持ちを思いやることは大事だけど、自分を傷つけていいわけじゃないんだよ。どうしてもっと自分のことを大事にしないの?」

 苛立ちと悲しみと悔しさで涙が溢れてくる。どうして久遠さんは分かってくれないのだろう。

 私は大きく息を付いた。このままでは、もっとひどい言葉で久遠さんを傷つけてしまいそうだった。

「ゴメン、ちょっと冷静になれない」

 私は鞄を持ち上げる。そして、引き出しから合鍵を取り出してテーブルに置いた。

「鍵は月曜日に返してくれればいいから」

 それだけ言って、久遠さんの返事も待たずに部屋を出た。


 私は、久遠さんと食事に行くようになる前まで、ちょくちょく顔を出していたバーに足を運んだ。

「あら、梓(あずさ)、久しぶりじゃない」

 ドアをくぐると、気心の知れた店長がカウンターの中から声を掛けてくれた。

「最近来ないから、彼女でもできたんじゃないかって噂してたのよ」

「手のかかるヒナ鳥の世話で忙しかっただけ」

「そのグチャグチャな顔も、ヒナ鳥のせい?」

 店長の言葉に、私は力なく笑って席に着く。

「ハイボール」

 私が言うと、店長はすぐにハイボールを用意して私の前に置く。私は、半分ほどを一気に喉の奥に流し込む。

「荒れてるわね」

 呆れたような声で店長が言う。私がそれに答えずに黙っていると、店長はそっと私の側を離れた。

 この店の良いところは、話したいときにはいくらでも話を聞いてくれるが、話したくないときには一人にしてくれるところだ。

 私は、先ほどの出来事を思い出して頭を抱える。いくらなんでも取り乱し過ぎた。いくら腹が立ったからいっても押し倒すのはまずい。やりすぎだ。

 久遠さんのことが苛立つと気になり、目が離せなくなったときには、もうハマっていたのだ。ずっと考えないようにしていただけだ。

 面倒見の良いフリをして久遠さんに近づいて押し倒すなんて、西島くんや城田くんのことを責められない。最悪だ。

 そうして悶々と自問自答を繰り返しながらお酒を飲んでいるうちに朝を迎えてしまった。朝まで飲むなんて久しぶりだった。

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