第5話

 国語の先生は、新たな作品に入る前はいつも、一度みんなに作品を通しで朗読させた。そのあとは授業が終わるまでの時間をめいっぱい使って感想を書かせて、次の授業のときに、それをまとめたものをコピーして配っていた。

 渚君の感想は、短いけれど、はっとするものが多かった。私の感想は、長いもののだらだらと平凡なことしか書いていないような気がした。

「史ちゃんは、長い文章が書けていいね」

 たびたびそんなことを言われたのが、嫌味にように聞こえた。

 国語の先生は、担任でもあった。中年の男性で、いつもスーツをびしっと着ていた。生徒には敬語で話しかけていたけれど、かなりの頻度でとぼけたことを言ってみんなを笑わせたりしていた。

 服装のこと、忘れ物のことなどは細かく注意したけど、なぜか渚君が遅刻することについては、とやかく言うつもりはないようだった。

「なんで遅刻してきたんですか?」

 そう尋ねはするものの、渚君が理由を言うと、それはいつも変な理由だったものの、「そうですか、わかりました」と受け止めて、なにごともなかったかのように授業を再開するのだった。

 一度、クラスメイトの一人が

「先生、何で怒らないんですかー。渚くんばっかり、ずるーい」

と言ったことがあった。まあ当然だろう。そんなときも、

「人の事を非難できるほど、あなたは自分のことができているのですか」

 と答えるだけだった。あれでよく丸く収まっていたものだ。渚君だからなあと、みんなそれ以上追及しなかったのか、先生は、表面上は普通の人のようでいながらも、ただならぬなにかを持っていたのか。

「僕、先生に注意されたこともあるんだよ」

 放課後の美術室で、渚君がそんなことを言っていた。気のせいか、ちょっとうれしそうにも見えた。

「『時間を守らないことは、人に迷惑をかけることですから。授業はあなたが損するだけだからまだいいが、お友達と約束したときには、よく気をつけないといけませんよ』って言われちゃった」

 それでも、渚君は遅刻を止められないようだったし、先生も怒鳴ることはなかった。二人とも、私にはよくわからない人たちだった。

「史ちゃん、長い文章が書けていいなあ」

 ある日、授業で配られた国語のプリントを見て、過去に何度か同じ言葉を口にしていることを全く覚えていない調子で、渚君は呟いた。

「ただ長いだけで、内容はあんまりないけどね」

「そうか。僕は、内容はあっても、文章にできないんだよね」

 渚君と話していうと、ちょっとイラっとしてしまうことがある。

「頭の中に、いろいろなことが詰まりすぎてて、でも、出口が小さいから、結局出口より小さいものしか出てこないの。ボトルに入ってる船が、ボトルの中から出てこられないみたいに。出てきたら、面白いだろうになあ」

 私との会話の一部なのか、それとも独り言なのかよくわからない話を、私はただ黙って聴く。

「史ちゃんと話してると、たまにだけど、一瞬だけ出口が大きくなることがあるような気がするんだ。

 訊かれたことにどう答えたらいいのか、けっこう頭を使わないといけないけど、上手く言葉に出して、説明して、そうすると、自分の中で、これはこういうことだったんだってわかるんだ。面白いよね」

 そんなことを言われると、リトマス紙の色がすっと変わるように、一瞬でまったく違う気持ちになってしまう。彼が話すひとつひとつのことで、どうしてこうも、周囲のものが違って見えるのか。

 今まで見ていたのと同じものだけど、ぱっと色の彩度が変わるような気かする。酸素の薄いところから、正常濃度のところへ移動したら、一瞬まわりの風景がそんな風に思えるのかもしれないような変化を、私は日々体験する。

 イライラさせられたことなどすっかり忘れて、これからも、この人が何を考えているのかいろいろ聞き出して見よう、私の役割はどうにかして彼の頭の出口を広げることなんだ、なんて気になるから、現金なものである。

 渚君と一緒にいるのは、いつもとっても面白かった。

 同じ町に住んで、同じ学校に通って、一日の大部分を同じ教室ですごしているというのに、彼はそんな同じ日常の中にも、私は気づきもしないようなことを、当たり前のものとして暮らしている。

 どこにどんな花が咲くのか知っていて、図書室で私が近寄ったこともないような本棚から、手品のようにさっと面白い本を取り出す。私は話したこともないような、クラスのおとなしい子と、二人してすごく楽しそうに話していて、偵察がてら横を通ると、「マヤ文明ってさあ」なんて言っていたりする。そんなのまだ歴史の授業で習ってないのに、なんで知ってるの? 誰から聞いたの? 思わずそんなことを尋ねたくなってしまう。テレビで見て知ったことなのか、親御さんが遺跡が好きだったのか。私の知らないことをすごくたくさん知っていて、この人は学校以外ではどんな生活してるんだろうと、非常に気になってしまうのだった。

単なる隣の芝生は青かったんだなという話ではすまされないような人だった。私とは、見えているものが違う人だった。でも私は、同じところにいるんだから同じものが見えていると思って、一生懸命になっていた。

 観察すればするほど、うらやましくなってしまっていた。どうやってそういうことに興味を持つのか、そういう考え方に至るのか。考えようとしてみたけれど、けっきょくは、自分にはない能力だから、うらやましがっても仕方がないのだろうという結論に達していた。それでも凝りもせず、考えていた。追い回していたというほどではないけれど、自然と近くに行って、話しかけていた。なんだか悔しいので、あまり真剣にならないように気をつけながら。

「どうしてそんなに色んなこと知ってるの?」

 一度訊いてみたことがあった。

「大事なことは、自然と目や耳に入ってくるんだ」

 渚君は説明が下手だった。


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